Ghost In The Rain 13/13
「牧！」
イツキが『助かった』と安堵できたのはほんの束の間だけだった。吹き飛ばされた怪物は触腕で衝撃を殺すと、投石機の要領でさらに勢いを増して飛びかかってくる。
「逃げてください、イツキ！」
触腕を発条にして跳躍、怪物は奥入瀬牧を翻弄してイツキ狙いだ。その動きは牧が突入してくる前より明確に速くなっている。彼女の出現で怪物なりに危険を覚えたのか───そうではない。
牧の、怪物を殴り飛ばす膂力も、目にも止まらず動ける敏捷性も、しかしその程度では怪物の脅威たり得ていない。初撃、怪物にたたき込んだ渾身の拳は衝撃こそ大きかったが、怪物は何の痛痒も感じず即応している。
怪物はやはり迷っていたのだ。狙うべきターゲットはイツキなのか、彼を殺害するので正しいのか、飼い主が投げたボールがどれか分からなくなった犬のように、迷っていた。
それが牧を見て、確信に至った。
怪物の迷いを奥入瀬牧の介入がぬぐい去ってしまった。
触腕の突きを牧がかわし、脇に抱えて押さえ込む。怪物が移動に使う触腕と、彼女が掴んで放さない触腕とで均衡の状態になったのは一瞬。怪物が振り回すと牧はビルの壁面に強か打ち付けられた。かはっ、と肺から吐き出した呼気は血混じり。
イツキはそれを、歩道橋を渡る階段で目撃した。
駆け寄りたいのを奥歯を噛んでこらえる。彼女が自分を逃がすために奮戦しているのだ、それを無にしてどうする。ただの高校生が行ってできることなどない。必死にそう言い聞かせて走る。
だが走ったところでどうにもならなかった。
牧の妨害がなければ三次元的軌道を描ける怪物に、高さなどあってもなくても変わらない。
歩道橋の上、イツキの進行方向に立ちふさがる化物を見て、これは引き返しても無駄だと彼は悟った。咄嗟に歩道橋から身を乗り出して、下の道路を走る自動車が来ないタイミングを見計らって、
ずっと熱い衝撃が挿さり、イツキの胸からアカイロの触椀が突き出した。
背後からの一刺。脊椎・心臓・胸骨ひとまとめに串刺しにされてイツキの口から動脈血が溢れて止まらない。一瞬で身体から熱が失われ、視界から彩度が失われ、イツキから命が喪われていく。
奥入瀬牧がその光景に何事か叫んだが、遠ざかる意識のイツキにはそれも届かなかった。触腕が無造作に引き抜かれる。刺創からも血が噴き出す。支えがなくなって、イツキの身体はぐらぐらと傾ぐと橋から落下する。
スローモーションで墜落する最中、飛び込んでくる人影があった。
追い縋ってきた牧が、空中でイツキの冷えてゆく身体を抱きかかえる。
無彩色の世界を落ちていく彼は、牧の瞳に覚悟の冴えを見た。決断し実行する覚悟。世界を敵に回してでも、イツキを死なせないという強い決意があった。
揃った両手でイツキの頬を撫でる。顔を支えて、
───彼の唇に、自らの唇を触れあわせた。
心臓を破壊されたことで失われた熱が、色彩が、命が吹き込まれる感覚。
イツキの心臓があるべき位置から白光が爆発的に広がり、刺創も血痕も服の破損ももろともに、一瞬で消えた。
イツキはそのとき、確かに見た。
歩道橋の上に、怪物とは別に誰かいる。
イツキも通う県立絡川高校の、女子の制服を纏った少女。
雨の中に幽霊のように佇む彼女は、イツキと牧の空中の接吻を見て、これでいいと微笑んでいた。
刹那に発生した事象、その情報量に目を白黒させるイツキをぎゅっと抱えて、奥入瀬牧はぐるんと身をよじる。頭からの衝突は寸前で回避され、両足で着地した彼女は衝撃を柔軟に殺して、一切をイツキに伝えさせない。
───発雷。
正しさを押しのけられて歪んだ世界が如何なる理屈か紫電として顕れる改変放電。
星幽界より魂の質量が演算部を経て原界へ。
選ばれし者のみがこじ開けられる界境断裂を通じて、何色にも染まっていない無垢の力が流入する。
それは万能の絵具。
それは至上の権利。
───お前の欲することを成せ。
───お前の夢を広げて見せろ。
傲慢に告げる神の託宣の如き発露のかたち。
ゆっくりと立ち上がった彼女の頬には朱がさし、瞳は潤んでいる。
「よくもイツキに手を出しましたね」
表情は僅かの羞恥と、強い戦意。イツキと己の敵たる怪物───世を侵す《虫喰み》を必ず滅ぼしてやるという鋼の決意。
重い荷物をイツキに預けることで、如何なる原理か彼の命は救われた。ここに彼女の行動を阻害する要素は取り払われ、全盛の奥入瀬牧がこれより反撃を開始する。
◇◇◇
同刻、オーバードーン二階ロフト。
びぃぃぃぃぃん、びぃぃぃぃぃん、びぃぃぃぃぃん。
砕け散っても構わないとばかりに鳴動するモビールを観察しながら、伏人傳はハンモックに転がる。
「結局そうなるかよ、牧。それじゃ始めようか、開戦だ」
モビールは傳や奥入瀬牧、あるいは《虫喰み》の“世界にありえない事象を起こす異能”に共鳴し、距離・強弱・性質に呼応して共鳴するようになっている。かつてないほど鳴き喚く現状は、奥入瀬牧の力の解放を意味していた。
制作者たる傳はのんびりとハンモックを揺らす。
「勝利条件は“その時”まで大事なものを守り抜くこと。そうさな、折角だから賭けようか。俺は───」
嘲笑う優男が果たしてどちらに賭けたのか。それは、誰にも観測されることはなかった。
