Ghost In The Rain 12/13
再び雨が降り出していた。
オーバードーンから持ち出されたビニール傘はこれで二本目になる。一本目は奥入瀬牧を拾い運ぶとなったときに邪魔で、どこぞの路地に置き捨ててしまった。落ち着いてみればあの路地には証拠品が残っていることになりはしまいか。奥入瀬牧の腕の件が事件性のあるものだとすれば、もしかすると伏人傳のもとに警察が向かっているかもしれない───オーバードーンの“結界”を知らないイツキは一人案じていた。あくまでオーバードーンに滞在している牧の心配であって、家主たる傳のことはどうでもいいのだが。
ブルーアワーの街をイツキは行く。
オーバードーンから離れるにつれて、徐々に街並みに生活感と人の気配が戻ってくる。営業中の店舗から漏れる光、マンションの廊下の光、自動車のヘッドライト。日常の風景が戻ってくると、無意識的に思考も日常寄りに戻っていく。牧の腕の心配から、帰りが遅い言い訳をどうするかだとか、明日の朝は早起きできるだろうかとか、学校がなければ昼まで寝ているのをいそいそと起きたら母親に不審がられるかなとか。
そのことにイツキが気づけたのは幸運ではなかった。
予感のようなものがある。見られている感覚。首の後ろに視線が刺さってくる、慣れっこで不快感と呼べるほどのものでもないそれ。
振り返る。
イツキを見ていたのは異形の怪物だった。
十メートルほど先、道路を挟んだ向かいに、さも自然であるかのように存在しているそれは、存在しているだけで正気を疑わせる造形。
全長は三メートルを越えるそれは、二足歩行でも四足歩行でもなかった。胴体に無数の触腕を生やし、一際太い一本の先にはヤツメウナギのような輪状の口がついている。同心円状に生え揃った牙の一本一本はイツキの親指ほどもあろうか。
目は、どこにもついていない。
それなのにそのモンスターはイツキを注視していると理解できてしまった。
野生の獣がそうであるように、視線を切った瞬間に襲われる。本能的に直感する。
人目をはばからずじりじりと後退する。誰かがイツキと彼を狙う怪物に気づいて悲鳴の一つも上がればと、そこまで考えて気づく。怪物も挙動不審なイツキも、周囲の誰からも注意を払われていない。恐怖でへっぴり腰をさらしているイツキの横を通り過ぎていくスーツの男性はまだ前方不注意で説明できなくもないが、怪物の真横を女子高生の一団が通り過ぎて何もないのはおかしいだろう。
敷島励威士が上柄東駅前でそうだったように、今のイツキと怪物は人々の認識の外側に置かれている。
───イツキの注意が己からそれたと察知した怪物が動いていた。強靱な触腕をバネのように扱って巨体が宙に躍る。伸ばした触腕は信号機や電柱に絡みつくと、器用に体重を分散して道路を飛び越えてくる。イツキは泡を食って走り出し、怪物はそれを追う。
短距離走のように配分も何もなくがむしゃらに走って、少しは距離を離せたかと振り向いた瞬間、目前に迫る何かにイツキは情けない悲鳴を漏らしながら舗装された道路を転がり回る。通学用鞄が地べたに転がっているのは放り捨てたからではなく、あの瞬間に伸びてきた触腕に肩紐を切断されて落ちたからだ。無様でも地面に身を投げ出していなければ、イツキも胴体を横薙ぎにされてあそこに転がっていたかもしれない。
触腕の先端はナイフのように鋭利で、振り回せば人体など抵抗なく切断し、突き出せば容易に貫通する。無数の触腕のすべてが凶器なのだ。
───これだ。イツキは確信していた。
牧の右腕を奪ったのはコイツの一撃だ。牧の傷跡は怪物の破壊力の証明であり、怪物が人間を襲うことの証左でもあった。
あのとき。
路地で牧を発見する直前に見た影は錯覚でも何でもない。牧を付け狙っていたコイツだったのだ。
恐怖が実例を伴って襲いかかってくる。イツキは這いずって逃げ出した。
怪物は獲物をなぶるようにゆっくりと───イツキの歩幅に合わせて、一定の距離を保って追っている。表情などありはしないが、ともすれば、果たしてイツキを本能の赴くままに襲って殺してしまってよいのか迷っているようにもとれる、ひどく人間的な仕草だった。
もちろん殺していいはずがないと、暴力的な否定を叩きつけたのは超高速の闖入者───奥入瀬牧だった。
如何な格闘技でもありえない鋭さで左拳が怪物の胴体に突き刺さり、三メートル超の怪物はバウンドして転がっていく。
「───イツキ、無事ですか!」