Ghost In The Rain 10/13
「ったくまだるっこしいことしてんなよ。どうせイツキはこのままじゃ引き下がらないぞ」
これも業腹なことに道理だった。
腕がちょん切れたままの女性を廃墟同然の場所に放置できるほどイツキは冷淡な人間ではないつもりだ。このまましっしっとばかりに追い出されて家に帰ったとして、イツキは絶対に悩む。悩んだ末に救急車を呼んでしまわない保証は、できない。例えそれで牧の身の安全が脅かされるとしても、命にはかえられない。
それに何より、イツキ自身が知りたかった。彼女が何者なのか、彼女が抱えている厄介事とは何なのか。知って、彼にできることがあれば力になりたいのだ。ギプスをしていようと、しがない高校生風情だろうと、最初から諦めて何もしないことは選択したくなかった。何かできるはずだ。怪我をして不安になっているところに寄り添って一緒にいるくらいは───とまで考えて、イツキは自分がかなり恥ずかしいことを考えているのを自覚した。赤面しそうになるのをどうにか自制する。
「どうするんだ。話すのか、話さないのか」
「それは、───」
絶句する牧。内心で葛藤が渦巻いているのが見て取れる。
「面倒なのはおめーだよ、牧。じゃあもう一つ。イツキに頼るのか、それとも頼らないのか」
「……何の話をしているんですか?」
牧は怪訝そうに問い返したが、これは演技だ。彼女は何を問われているのか察した上でとぼけている。
それはイツキには分かったし、傳も勘づいていることだ。だから彼は、それを容赦なく指摘する。
「お前が後生大事に抱え込んでる“それ”の話だよ。まさか誤魔化せてると思ってたのか?」
牧はその言葉に丸裸にされたかのように前身頃を覆って隠す。あるいは最も大事な、秘すべきことを詳らかにされたという意味ではひん剥かれたのと等しい蛮行だった。
「これはッ……! 頼るなど、出来ません!」
「そうかよ。んじゃイツキは記憶抹消して帰していいだろ。無関係なんだしさ」
「は?」
「それは……可能かも知れませんが……」
牧の役に立てるかもしれないと思って二人の話を食い入るように聞いていたイツキの素っ頓狂な声が上がる。“記憶抹消”という物騒かつ聞き馴染みのない言葉はしかし、イツキを除いた───牧と傳の間では意味が通っている。彼の聞き間違いや比喩表現でなければ、つまりそれはひと一人の記憶を消し去るとかそういうSFじみたワードであり、そこから連想されるのは都市伝説に出てくる『黒づくめの男』だ。不都合な真実を知った市民の記憶を消し去る連中、着衣の色から名付けられたフォークロア。傳は到底『イン・ブラック』とは呼べないが、牧はそれとこじつけられなくもない黒の多さ。仮に類するものだとすれば牧が腕を切断されてもそれなりに平然としているのも理由がついたはずだ。あれは宇宙人説とか機械仕掛け説とかあったはずだから───いや違う、いま考えるべきはそこではない。記憶を消すと言っていることにもっと危機感を持て。声を出せ。
「ちょっと待てよ、忘れさせてそれでおしまいか? 冗談じゃないぞ!」
牧はイツキの方を見ない。傳はうるさそうに一瞥だけして話に戻ってしまう。
イツキは置いてけぼりで、無力だった。
「イツキに頼らないとして、じゃあどうすんだ。そんな雑魚ザコなまま出てったら今度は左腕か? それとも首か」
今の俺とどっこいじゃねえかと嘯きながら、左手をハサミの形にして右の二の腕をちょきんとやる傳。それはつまり、牧の現状を揶揄してのゼスチュアだ。
「分かっています。だから少し……考えさせてください」
「そりゃ別に構わないけどよ」
「……一晩、居させてもらえませんか」
「はァー!? まあ、いいか」
「待てって、説明してくれ! 当事者だけで話すなよ!」
食ってかかるイツキに、牧が向き直る。
「イツキも、お願いします。どうするか一晩だけ考える時間をください。この傷は大丈夫ですから……」
そう言われてしまうと、イツキは言葉に詰まる。
牧の顔色は負傷のわりに落ち着いていて、はたから見るぶんには容態は安定している。牧が『自分は死なない』と盲信している様子もない。
何か理由があってそう言っていると、彼女には確信があるのだと、理解できてしまうから強く出られない。
加えて、真っ直ぐに目と目をあわされて懇願されると、弱い。
「……で、でも」
「明日、貴方が会いにくるまで私はここに居ます。だから、それまで待ってください」
妙齢の美女に手を握られて、真剣にお願いされて否《No》と言える男子高校生はいない。どこからどう見ても、イツキと牧の意志の通しあいは彼女の勝利だった。
「───分かった。ならせめて、連絡先だけでも交換させてくれ」
「あ、ここ電波通んねえよ」
「嘘だろ!?」
嘘ではなかった。
牧に興味がなくなったかのようにデスクについて何やら作業をしていた傳の言うとおり、スマートフォンは圏外を示していて、ロフト中を歩き回ってもぴくりとも反応しなかった。一応階段を降りて自動車の合間を歩いてみても同様で、イツキは諦めてスマートフォンをしまうと、
「なんて場所だよ……。牧、本当に大丈夫か? こいつに変なことされても通報できないぞ」
「聞き捨てならねえぞイツキ。何だお前、俺がこいつに手を出すってか? ふざけんなよオメー」
牧は肩をすくめる。
釘を刺せたと見てイツキはそれ以上話を引っ張らなかった。傳もじゃれ合いだと理解しているのかさほど気にするでもなく、
「気になるなら登校前にでも寄れよ。お前は別にいつ来てもいい」
「それでは、イツキ。また明日」
「……ああ、また明日」
約束を取り付けられただけマシかと考えながら、イツキは再び入り口の傘立てからビニール傘を拝借して、再びオーバードーンを後にすることとなったのだった。