2 甘美な食事
「うおあああああ!!」
「キ、シャアアアア!?」
目の前の食料に向かって、俺は拳を振り上げた。ゴブリンは俺の動きが予想外だったのか、俺の拳を大きく後ろに下がって避けた。
外した。しかも力一杯拳を振りぬいたせいで体勢が大きく崩れる。空を切った拳に引っ張られて、たたらを踏んで前のめりに倒れる。
「キ……ヒヒ」
転びかけた俺を好機と見たか、ゴブリンは俺に棍棒を振り下ろしてきた。避けられるはずもない。がら空きの背中に棍棒が振り下ろされた。
「おべっ!」
背中に走る衝撃。俺は木の根だらけの地面に頭から倒れこんだ。顔を上に向けると、もう勝ったと思ったか、ゴブリンがニタニタと嗤みを浮かべていた。
「シシッ」
再び振り下ろされた棍棒。狙いは俺の頭。倒れたままでは殺される。俺は慌ててゴブリンから離れるように転がる。
ガツンとゴブリンの棍棒が地面をたたく。音が軽い。それでわかった。
「あいつ、そんなに強くない」
背中を打たれた痛みも大したことはない。ゴブリンは見かけ通り、子どもくらいの力しかないのだ。棍棒を持っただけの貧弱な子ども。そう思えば、どうにかなる気がする。
殺せる。殺せれば、食べられる。
俺に人間に似た怪物を殺せるのかも、気にならなかった。
俺にとって大事なのは、目の前の存在を食えるかどうか。それ以外は全てどうでもよかった。
ゴブリンが棍棒を振りあげる間に立ち上がり、俺は素早く周囲に目を走らせる。森の地面には、俺が目覚めた場所のような石畳の部分が残っている。もしかしたらここも元は目覚めたような遺跡だったのかもしれない。それが何等かの原因で森へと変わった……
いや、そんなの今は関係ない。俺は石畳の残骸から、とがった石を見つけて、拾い上げた。
「おらぁぁぁぁ!!」
棍棒を構えたばかりのゴブリンに突進。俺は手にした石をゴブリンの胸に突き出した。
「ゴグェ」
間近に見えるゴブリンの口から汚い声が漏れた。顔にかかったゴブリンの吐息が俺の顔にかかる。
ゴブリンの息は何の臭いもしなかった。
手に生ぬるい感触がある。突き出した石はゴブリンの胸に突き立ったらしい。
「ギィィィィ!」
「うわっと」
そこでゴブリンが気勢とともに、死に物狂いで身体を振るった。火事場の馬鹿力というやつか、渾身の力で俺は振り払われる。
ゴトンと、ゴブリンが棍棒を取り落とした。胸に石を生やし、緑色の血を流しながら俺をにらみつけるゴブリン。
ゴブリンの目には、死にたくないという意思にあふれていた。それを見ながら、俺の口は勝手に、手についたゴブリンの血をなめた。
「あ……」
瞬間、俺の脳裏に衝撃が走った。何だこれ。つま先から髪の毛の先まで走る戦慄。
おいしかった。ゴブリンの血は。理性が飛ぶ。もっと飲みたい。すすりたい。肉をむさぼりたい。
その時だ。ガチリと、何かが当てはまったような音がした。俺が俺でなくなるような、“俺”という存在が確定されてしまったような。
けれど音はすぐに消えて、空腹感を満たすことだけで頭がいっぱいになってしまう。ゴブリンの首に手を伸ばした。
「グェ」
長く伸ばした俺の手がゴブリンの首をとらえる。俺はそのままぎりぎりとゴブリンの首を締めあげた。ゴブリンは抵抗するように俺の腕に爪を立てる。鈍くとがった爪が肉に食い込み、赤い血をが流れるが、痛みよりもさっきの甘美な衝撃の方が勝った。俺はもう片方の腕もゴブリンの首に伸ばす。
「……ァ、ゴ」
ゴキン。嫌な音を立てて、ゴブリンの首が折れ曲がった。必死に抵抗していたゴブリンの体から力が抜ける。だらりと垂れ下がった手と、腰巻の下から流れる黄色い液体。
手を離せば、ゴブリンだった物はその場に崩れ落ちた。
さっきまで生きていた人間に似た生き物を殺した。なのに俺は、罪悪感を覚えることはなく、
「はやく、たべたい」
はやり、この飢餓感を満たすことだけが頭にあった。
*
ガツガツ、ガツガツ。バリ、バリ、ムシャムシャ。
ゴクン。
肉を食べる。死にたてほやほやで、まだ温かい肉を解体して、生のまま口に運ぶ。
食べることは幸福だ。血の一滴。肉の一切れ。骨の欠片を嚥下するたびに、頭の中を幸福感に支配される。
先のとがった石を使って、死体の腕を裂き、そこに指を突っ込んで裂く。骨から肉をはぎとる。
「あぁ……」
肉を青空に掲げる。艶めかしい光沢をもった生肉が光る。手を離せば、生肉が俺の口に入ってきた。
血の鉄臭さが脳を駆け巡る。今までなら気持ち悪くなって吐いてしまいそうなそれも、今はただの快楽に過ぎない。
肉を噛む。ぐにゅぐにゅと、生焼けのホルモンの感触。やせた肉のうまみすら、俺は敏感に感じ取って身もだえしそうになる。
空腹は最大の調味料。その言葉を俺は今全身で体感していた。
十分に咀嚼した後に飲みこむ。俺の歯と唾液で柔らかくなった肉は食道を通り、胃に入って消化される。その度に俺は胃から力がこみ上げてくるのを感じていた。
「どうなってんだよ。これ」
空腹を満たしたからか、俺に正気が返ってくる。おかしなことばかりだ。
現実世界にゴブリンがいることも、そいつが俺に対して襲い掛かってくることも。
俺がゴブリンを殺して、その肉を食っていることも。
口元についた緑色の血をペロリと舐める。背筋の下から駆け上がるような快感が走る。人に似た生物を殺したことへの嫌悪感も、その肉を食べたことへの恐怖が薄れ、またもっと食べたいという欲求だけが残る。
「腹が減ったな」
足りないのだ。魂から響いてくる飢餓感はまだ底知れない。底なしの空腹に負け、俺はまたゴブリンの血肉を食べ始めた。
*
ゴブリンの死体を食い漁っても、俺の飢餓感は消えてはくれなかった。
「はぁ……はぁ……」
俺の外見はひどい有様だった。着ていたシャツとジーンズは緑色の血で汚れ、口にはゴブリンの食いカスが残っている。しかもそれを舌でペロリとぬぐって、恍惚とした気分になるのだ。
「本当、俺はどうなっちまったんだ?」
ゴブリンは腰巻と棍棒以外、骨も残っていない。全部俺が食べた。そのおかげか、全身にも活力がみなぎっている。
俺はもともとこんな人間だったか? 違ったはずだ。そりゃ俺は人よりも少し大食いだったが、こんな怪物を食べる趣味はなかったし、食べられるほど肝が据わっていたわけではなかった。
もともとの俺にこんなことができるはずがない。
なら俺はどうしてしまったんだ。自分自身へ問いかける疑問。それはすぐにこみあげてくる空腹感に押し流される。
「……とにかく、食べよう。食べなきゃ、だめだ」
そんなことを考えながら、俺の耳は遠くで様子をうかがう新しい獲物の存在をとらえていた。俺はゴブリンの残した棍棒を拾い上げ、獲物の方に目を向ける。
「ギ、ギィィ」
「シィィ」
「アァ」
またゴブリンだ。数は三つ。武器は俺の持っている棍棒と大差ないが、一匹さびたナイフのようなものを持っている奴がいる。
「ちょうどいいや」
あのナイフはゴブリンを解体するときに役に立つだろう。棍棒を構えて、俺はふと気づいた。
最初のゴブリンを殺した時、爪を立てられて腕に傷を負ったはずだ。
傷はなくなっていた。最初から怪我なんてなかったみたいに。
「……まぁ、いいか」
まずは飯だ。まだまだ足りないのだから。俺は全身にみなぎる力と食欲に身をゆだねて、俺は食料調達を始めた。




