令嬢と私
夜も更けて深夜に近い時間、山田華は疲れた体を引きずるように自宅へ向かっていた。連日の残業で心も体もクタクタで今はただ布団に入る事しか考えられない。
繁盛期は過ぎたはずなのに、経費削減人員削減で業務をギリギリの人数、いや、足りない人数で回していたら毎日残業をする羽目になってしまっていた。
仕事を辞めたいが次の仕事も決まってないのに辞めるのは、28歳独身一人暮らしの華にとっては清水の舞台から飛び降りる事と同じだった。飛び降りる勇気は今の所無い。
やっとのことで自宅マンションまで辿り着きドアを開け寝室のベッドへまっしぐら。頭の片隅では、メイクを落としてない、お風呂……と思ったが睡魔には勝てず、そのまま泥のように眠った。
……はずだった。ドンッと突き飛ばされてベッドから落ち強かに背中と尻を打った。
「痛っ!!」
痛む尻をさすりながら何事かとベッドの方を見ると、そこには見知らぬ男が華を睨みつけながら見下ろしていた。
「全く、お前は毎回突拍子もないことをやるな。反省の色がないと思ったら、今度は色仕掛けか。」
冷たく言い放ち華を睨む男。
その男を見て、疲れた上に睡眠を邪魔された華は明日も仕事があるのに私の貴重な睡眠時間を奪うのか!と何故見知らぬ男が自分のベッドに居るのかという根本的な問題をスルーして一気に詰め寄った。
「色仕掛け? 馬鹿馬鹿しい。私は寝るためにベッドに入ったのにそれを邪魔したのはあなたでしょ! 人の貴重な睡眠を奪わないで!さっさと出てってよ!」
「はあ。謝ってくるかと思えば……。頭でも打ったか? ここは俺の寝室で俺の寝台だ。」
「は!? 何言って……」
男の言葉に初めてここが自分の部屋では無いことに気付く。
今居る部屋は、よく見れば華のワンルームマンションよりも広く天井も高くヨーロッパの城を思わせる様な内装、お伽話に出てくる天蓋付きの恐らくキングサイズより大きなベッド。
目の前の男も日本人ではなく外国人みたいだ。しかもハリウッド俳優も霞むとびきりのイケメン。
余りにも現実離れした状況に怒りも忘れて華は唖然としていた。
一体ここは何処なのか、私は何故こんな所に居るのか、もしかしてこれは夢なのか、夢にしては痛いなとか、目の前のイケメン外国人日本語上手だなとか疲れと眠気で思考がおかしくなっていた。
黙って突っ立っている華に痺れを切らした男は華の腕を掴み部屋の扉へと引きずっていく。
「何をしようと今回も反省をしなければ、お前との未来は無くなるんだ。出て行け。」
男はそう言うと扉を開けて華を部屋から放り出すと扉を閉めてしまった。
「ちょっ意味わからないし! 何なの!? 開けてよ! どういう事なの!?」
気付けば廊下に放り出され正気に戻った華はドンドンと締め出された扉を叩き大声で騒ぐ。
騒ぎを聞きつけて腰に剣を下げた騎士みたいな格好の男達がやって来て華を取り押さえた。
華は、そのまま男達に連行され馬車に乗せられて大きな屋敷に運ばれたのだった。
運ばれた屋敷で華は自分の立場を知る事になる。
彼女を放り出した無礼な男はこの国の王子で、今居る屋敷は王都にある侯爵邸で華は王子の元婚約者の侯爵令嬢だと言う事を。
屋敷に連れてこられてから3日後、華は侯爵邸の自室でお茶を飲みながら現在の状況を説明されていた。
それによると華はこの屋敷の主、グレープ侯爵の一人娘でこの国の王子と婚約していた。歳は18歳、当然処女である。
華はこの屋敷に連れてこられてからドッキリなのか夢なのか頭がおかしくなったのかとパニックを起こし大暴れをして使用人達に取り押さえられ、落ち着くまで3日かかったのである。
混乱の中、鏡に映った薄茶金の巻き毛に琥珀色の瞳の少女を見た瞬間、これが今の自分の姿だと確信し、急にストンと何かが落ちるように納得してしまった。
何がどうなったか分からないが、今現在、自分が日本人の山田華28歳(彼氏無し)ではなく、グレープ侯爵家の令嬢ステファニー・グレープ18歳(彼氏に振られた)だと。
「つまり、私は度重なる王子への付き纏いと他の令嬢への牽制という嫌がらせと臣民を見下した態度、言動で未来の王妃として相応しくないと判断され婚約破棄されたのね。合ってる?」
「大まかに言うとその通りだ。そして、その事に不満を抱いて抗議するも全て無視され強硬手段で既成事実を作ろうと殿下の寝室に忍び込み殿下につまみ出され醜態を晒して、ここに連れ戻されたのだ。」
華もとい、ステファニーの問い掛けに目の前に座ってる渋いイケメンが苦々しく答えた。
彼はこの屋敷の主、グレープ侯爵である。
彫りの深い鋭い目つきの整った顔の眉間に皺が寄っている。
ダークブラウンの髪にはここ数日の苦労で白いものがチラホラとそして何となくだが頭髪が後退しているようにも感じる。いや、後退しているのだろう目の前の娘の数々の失態で今や彼の心労はピークである。
「ステフ、もう今回でお前を庇うのは最後だ。流石にこれ以上は庇いきれん。いや、今回の殿下の寝室への不法侵入も危なかったんだぞ。」
毎回娘の尻拭いをしていた侯爵も今回ばかりはステファニーの失態を揉み消すのに苦労した。
通常ならステファニーを罪に問うところだが、王宮の王子の寝室にただの令嬢が忍び込んだという事実に警備はどうしていたのかと防犯上の不備を突いて突いて突きまくって強引に有耶無耶にしたのだ。
「こうなってはお前には直ぐにでもどこかへ嫁いでもらう。殿下はもう諦めるんだ。これ以上我が侯爵家の醜聞を晒すわけにはいかないからな。お前に来る縁談も限られてきているし、おちおちしてられん。いいか、ステファニー、今来てる縁談の中から伴侶を選ぶんだ。さもなければ修道院へ行く事になる。」
「諦めるのはいいけど、縁談!? 働いたりして独身で通す事は出来ないの?」
「馬鹿を言うな。侯爵家の娘が平民の様に働くとは! これは決定事項だ。今来てる幾つかの縁談の中から結婚相手を見つけ結婚してもらう。嫌なら修道院だ。」
言いたい事を言うとグレープ侯爵は部屋から出ていってしまった。
「なんてこと……いきなり知らない世界に来て別人になったと思ったら、直ぐにでも結婚だなんて!」
小説で読んだような体験をまさか自分がするとは思わなかったが、どうやってこの世界に来たかも分からなければ、どうやって元に戻るかも分からない。
こうなったら腹を括ってこの世界でステファニー・グレープとして生きていくしか道はなさそうだ。
元来、山田華という人物は物事を難しく考えるのは苦手なのである。だから、元の世界に戻るよりも今居る世界で生きていく方が簡単そうなので、華はステファニーとして生きていく事を受け入れた。
まず、この世界の事を知らなければステファニーとしてやっていけないと思い、元28歳社会人は六年ぶりに勉強をする事にしたのだった。
王子への夜這い失敗から約一ヶ月、謹慎という名の元、ステファニーはひたすら勉強した。この世界の歴史、国内外の情勢、貴族間の紳士淑女のマナー、ダンスと本来なら今までのステファニーが出来て当たり前の事を全てやり直したのだ。
横暴な性格は鳴りを潜め、大人しくしながらも寝る間を惜しみ、鬼気迫る勢いで勉強に励む姿に周りは驚いた。
ステファニーの中身が日本の一般的な独身女性(若干社畜気味)とは知らない家族、使用人達はステファニーが改心したと大喜びし、内輪で大掛かりなお祝いをした。
華は前のステファニーがどんだけ性格悪かったんだと引きながらも皆の祝辞を笑顔で受けたのだった。