初戦闘
【アングボア】。それが雄哉の初めて挑むこととなった魔物の名前だ。
依頼の内容はアングボアを一体倒し、その牙を持ち帰って納品するというもの。ライラに「とにかく簡単な、初心者でも一人で倒せる魔物の討伐をやらせてくれ!」と頼んだ結果、見繕ってくれた依頼である。
アングボアとは鋭い牙を持ったイノシシで、特徴はバカにできない突進力。動きは直線的なのでよく見れば簡単に避けることはできるが、もしその一撃を生身で食らえば人間の骨などあっけなく折れてしまうだろう。
と言っても、冒険者は戦闘において必ず強化魔法を用いる。攻守ともに優れた万能な無属性魔法であり、LV2もあれば致命傷を受けることはまずない。
の、だが。
「ブルグォ!!」
「ひぎゃあああああああ!!!! 無理無理無理、あんなのどうやって戦えばいいんだよ!?」
輝く黒色の魔力を全身から放ちながら、絶賛逃走中だった。
城下町の西方面に広がっている鬱蒼とした森の中を、情けない声をあげながら雄哉は疾駆する。横に転がれば簡単に避けることができるということは、完全に頭の中から抜けていた。
最初は戦う気満々だったのだ。心臓をバクバク鳴らしながらも、いつどんな奴に襲われても大丈夫なよう、森の中を慎重に歩いて進んでいた。
運よく他の魔物には遭遇せず、無傷のまま討伐対象のイノシシを発見。戦闘に入るためナイフを構えようとしたところで――気づかれた。雄哉のわかりやすいむき出しの殺気を、アングボアに感じ取られてしまったのである。
そして、その鋭い眼光にさらされた瞬間。明確な殺意という物を向けられたことがなかった雄哉は、思いっきりすくみ上った。
殺される。脳裏にその可能性がよぎった瞬間、神速の回れ右。強化魔法を発動し、自身の魔力を体に纏って身体強化。すぐさま敵に背を向けて全力ダッシュである。ちなみに余談となるが、魔力は人によって色が様々で、雄哉の場合は星をちりばめた夜空のように光輝く白の混じった黒だったりする。
ともあれ、雄哉は現在も追いかけっこ中というわけだ。
(考えてみたら、俺は犬に吠えられただけでもびっくりするような人間なんだぞ! つーか、現代っ子がイノシシに殺意向けられて、正面から挑もうとか思えるわけねーじゃん!!)
強化魔法は雄哉の身体能力を引きあげており、軽装の防具であったとしてもアングボアの突進が直撃したところで擦り傷が関の山だ。というより本来、このイノシシは最悪取っ組み合いになったとしても、強化魔法を使った状態で適当にナイフを振り回すだけで十分倒せてしまう程度の魔物である。
それでも逃げてしまうのは、単純に心の問題だった。人間同士で喧嘩すらもしたことが無いのに、いきなり野生動物との殺し合いである。色々とステップを踏み間違えているとしか言えない。
雄哉は走る。全力で森を抜けて、安全地帯と言える城下町へ戻るために。美咲の待つ我が家へと帰るために。アングボアの速度は平均的な人間の全力疾走よりも速いが、強化魔法を使っていれば話は別である。距離はほぼ詰まることなく、むしろ少しずつ開いていく。しかし、その時の雄哉は致命的に運が悪かった。
「あぇっ!!??」
素っ頓狂な声が漏れると同時に、雄哉の体は落下していた。
なぜか? それは穴があったからだ。細身な人ならば、すっぽりとハマってしまうような穴が。逃げるのに必死だった雄哉は前しか見ておらず、下に気が向いていなかった。
絶叫が木霊する。
「なんでだあああああぁぁぁぁ――――…………うぎぃっ!? 痛ってえ、チクショウ!」
数秒間の落下の後、地面に激突する。
幸いなことに足からの落下であり、強化魔法も解いていなかったおかげで足首を痛める程度の怪我で済んだ。雄哉は強化魔法を解き、すぐさま背負っていたリュックサックから塗るタイプの回復薬を取出して幹部に塗り込むと、瞬時に痛みが引いていく。
(おお……実は疑ってたけど、効果は抜群だな)
赤くなっていた幹部は数秒で元の肌色に戻り、完全回復した。原理はよく分からないものの、とにかく動けるようになったため、雄哉はすぐさま立ち上がって周囲を見渡した。
しかし、暗くてあまり視認できない。落ちてきた穴からは森の木漏れ日が入ってきているが、それでは光源が弱すぎた。仕方なく雄哉は光属性魔法『照光』を使う。
すると左手から魔法陣が浮かび上がり、その中央に光が生まれる。極めて簡単、かつ分かりやすい魔法であり、全方位を光で照らし出す魔法だ。魔力を多く使えば使うほどその光量は増す。
(洞窟……?)
『照光』により見えるようになった地下は堅い岩で囲まれており、広さは走り回っても余裕があるほど。大きな洞窟という感じである。上を見ると、落ちてしまった穴のある地上まで10メートル近くあった。雄哉の使える身体強化では、そこまで飛び上がることはできない。
本来ならばこのような事態に落ちった場合でも這い上がれるよう、初心者の冒険者は鉤爪付きのロープを持ち歩くことが多い。図書館で読んだ資料にも穴に落ちた際の対象法は書かれていたのだが、まさかそんな事態には陥らないだろうと甘く考えていた雄哉のミスである。
「マジかよ面倒くせぇ……。出口を探すしかない、か」
と一人呟きつつも、内心でホッとする。一応、偶然とはいえアングボアに追いかけられることはなくなったのだから。まさかあの穴に体を突っ込んでまで殺しに来ることはないだろう。
だが、この地下空間から抜け出さないことには家にも帰れない。
雄哉はリュックサックを背負い直し、歩き出した。『照光』の光に方向性を与えて、懐中電灯のように使うことで先の様子がわかりやすいようにする。すると、奥へと続く小さな通路があるのが見えた。
(じっとしてても、仕方ないしな……)
左手をかざして前方を照らし、足元に気を付けながら暗闇を歩く。お化け屋敷にも入ったことが無かったため、雄哉は視界の悪さに不安が募った。
と、そこでピコンとひらめく。
(暗視ゴーグル的な何かを、魔法で再現できないか?)
冒険者が洞窟などの暗闇を歩く際には、最低でも二人一組になり、片方が光属性魔法で視界を確保するのが常識だ。それができない雄哉は、この地下で魔物が出てきた場合、左手に発動させている『照光』の光を頼りに戦闘することになる。ただでさえ戦闘慣れしていないのに、片手が塞がっていては動きづらいことこの上ない。
そこで雄哉は魔法を利用することにしたのだ。魔法はイメージの具現化であり、暗闇を視認する魔法も作りだせる可能性がある。
一度『照光』の明かりを消し、まず試しに強化魔法を目に集中させてみる。
強化魔法は部分的に施すことでその効果を増加させることができる。全身に強化魔法を使っていれば全身くまなく強化されるわけだが、雄哉は目に強化を集中させることで視力を一気に増加させたわけだ。
(……見えねぇな)
が、いくら視力をあげたところでなにも見えない。人間の眼球は光が無ければ景色を捉えることはできないのである。ごく少量でも光があれば多少は見えたかもしれないが、洞窟の通路という完全に光が無い空間で視力をあげても意味はなかった。
ならばと今度は眼に手をかざし、闇属性魔法を使う。暗闇は視力でどうにかできない。ならばもうファンタジーな力に頼ってしまえばいい。雄哉は妄想を全開にした。
光が無いということはつまり、逆に言えば闇が空間を支配しているということになる。それは地面なり天井なり壁なり、すべてに汲まなく接しているはずだ。ならば光からではなく、闇からそれらの情報を感じ取ることができれば、どこに何があるのかがわかるようになるのではないか。
科学的ではない突拍子もない考え。理論も物理法則もなにもあったものではない。
しかし、魔法はその「イメージ」を具現化する。
雄哉はかざしていた手を取り払い、目を開いた。
「……すげぇなこりゃ」
思わず声を漏らしてしまう。
相変わらず、暗闇であることに変わりはない。しかし、どこに何があるかが、くっきりと「わかった」。見えているわけでもないのに、だ。この分だと色がわからない以外、感覚的には昼間と対して差が無いと言っても過言ではない。もしかすると適正魔法であるおかげかもしれない、と心の中で思いつつも、洞窟の通路を突き進んでいく。
そして、魔物にエンカウントしてしまった。
「ギュウウゥ?」
「……!」
狭い通路の中央に、中型犬並みの大きさをした耳の長い生き物がいた。
というより、ウサギだ。ウサギを巨大化させ、前歯を恐ろしく尖らせたらこんな感じだろう。
【フロンティーラビット】。俊敏な動きが特徴で、その歯は鉄をも砕いてしまうほどに丈夫で鋭い。
だが、そんなことを気にしていられる余裕は雄哉になかった。
なぜならそのウサギの眼光が、先のアングボアよりも鋭く雄哉の目に突き刺さったからだ。
ゾクッ、と。背筋に嫌な汗が流れる。イノシシの時と感覚が違った。まるで蛇に睨まれた蛙のように体が動かず、思考ばかりが空回る。
逃げないと。いや、戦うべきだ。ポケットからバタフライ・ナイフを取り出して、迅速に戦闘状態に移らなければ。いや、やはり逃げよう。勝てる気がしない。でも体が動かない。なんで。どうして。怖い。このままだと殺される。
パニックに陥った雄哉だが、敵は待ってくれない。
「ギィ!!」
ウサギは発達した後ろ足で地面を蹴り飛ばし、一直線に雄哉へと襲い掛かってきた。
ほとんど反射的に強化魔法を発動した雄哉は目をギュッと閉じ、頭を守るように腕をクロスさせて飛んできたウサギから身を守ろうとする。が、実際に衝撃が走ったのは腹部だった。
「ぐお……!?」
しかも、鳩尾。強化魔法は間に合っていたものの、多少の衝撃が走り雄哉は鈍痛を味わう。しかも中型犬ほどの大きさがあるウサギの突進だ、雄哉はその重さにバランスを崩し、後ろにぶっ倒れてしまう。受け身など取れるはずもなく、後頭部を地面に強打した。強化魔法により怪我はやはりなかったが、それでも脳が揺れて気分が悪くなる。
フロンティーラビットは攻撃の手を緩めない。雄哉の腹の上に乗っかると、後ろ足で思いっきり体重をかけて通路の天井までジャンプ。その衝撃で腹がつぶされ、嘔吐感がこみ上げる。
「ご、ぐぅっ……!!」
空中でくるりと一回転して姿勢を制御し、天井に足から着地してもう一度蹴り飛ばす。そのまま勢いに乗ったウサギの後ろ足蹴りが、倒れたままの雄哉の左肩に直撃した。
ゴギッ、と。骨の外れる音。
「が、ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?? い、いだい! 痛い痛い痛い痛い!! 無理無理無理無理無理!!!!」
産まれて初めて体験する激痛だった。今までしてきたどの怪我よりも凄まじい痛みに、絶叫が真っ暗な洞窟の通路内を蹂躙する。頭の中がぐちゃぐちゃになり、目からは涙が溢れ、泣き事と悲鳴が同時に絶え間なく口から洩れる。
無理だ。魔物と戦うなんて、命のやり取りをするなんて、無理だ。思考がそればかりで埋め尽くされていくが、だからといってこの状況が解決するわけではない。魔物のウサギは雄哉を殺す気でいる。泣いても喚いても、一人の雄哉に助けの手を伸ばす者はいない。
ウサギの追撃を只々恐れた雄哉は左肩の痛みを歯を食いしばって耐え、リュックサックを肩から外しながらなんとか素早く起き上がった。結果、フロンティーラビットと正面から向き合うこととなる。
「キュウウゥゥゥ」
「なんだよ、なんなんだよチクショウ!」
雄哉は頭に血を登らせ、訳も分からず激怒していた。
自分のあまりの弱さに。
この理不尽極まりない仕打ちに。
そして次の瞬間、一気に体温が下がった。
頭に上っていた血はすべて流れ去り、思考は冷静さを取り戻していく。
ここは弱肉強食の世界。弱者は強者に殺される。
生き残りたければ、戦うしかない。殺すしかない。そのことを自覚する。
今までも何度かあったことだが、雄哉はキレると冷静になるタイプだ。そして戦闘において、冷静になることは極めて重要である。
「ギュッ!!」
ウサギは後ろ足を蹴り、またしても突進してくる。だが、冷静に対処すればまっすぐ跳んでくるだけだ。アングボアと同じく、横へ少し体をずらしてしまえば攻撃を躱すのはたやすい。
雄哉は痛む肩を抑えつつ上半身を思いっきりねじる。するとウサギは体当たりを外し、そのまま後方に着地した。
すぐさま振り返った雄哉は、右手をポケットに突っ込み、バタフライ・ナイフを掴み取った。ロックを一度はずしてアクションを起こし、刃を出す。それを逆手に持って、警戒するウサギと再び向き合った。
「死んで、たまるか!!」
先に動いたのは雄哉だった。姿勢を低くして地面を蹴り飛ばし、そのままウサギに向って突っ込んでいく。激しい動きに左肩が激痛を訴えるが、全力で歯を食いしばって耐えた。強化魔法を施した体は運動部にも所属したことが無い雄哉を凄まじい速度で移動させてくれる。
当然、ウサギは攻撃から逃れようと真横に跳んだ。ナイフを握り込んだ手でそのまま殴ろうとしていた雄哉だったが、思いっきり空ぶってしまう。
しかし、右足で地面を思いっきり踏み込み、勢いを殺す。
「逃がすかっ!」
追撃。
横っ飛びをしたウサギはまだ体勢が整っていなかった。ほぼ直角に動いた雄哉は、その隙を突いて逆手で握っていたナイフでウサギの顔面めがけて斬り付ける。
ザシュッ、と。鮮血が飛び散った。
「ギュウッ!?」
「ぐっ……!」
肉が斬れるリアルな感触がナイフ越しに伝わり、最悪の気分になる。吹き出した血が少量顔にかかり、それがやけに暖かく、血生臭くて、雄哉は気持ち悪くなり戦意がガタ落ちした。
しかし、フロンティーラビットはまだ死んでいない。その目に戦意は残っている。いや、むしろ傷つけられたことに怒りを覚え、殺気を増している。
ウサギは地を蹴り、雄哉の身長を飛び越すほど高く跳んだ。そして、鋭い前歯を突き立てるようにして自由落下に身を任せ襲ってくる。
「……っ!!」
雄哉は頭を振り、気を取り直す。
殺さなければ、殺されるのだ。躊躇っていては勝てる戦いにも勝てなくなる。
上から振ってくるウサギに対し、雄哉は身をかがめて前方へ二歩踏み出すことで回避。すぐ後ろで着地したフロンティーラビットの頭部をめがけ――振り向き様の遠心力を加えた斬撃を繰り出す。
パギッという、堅い何かが砕ける音がした。
「ギュ……」
力を失って倒れる、中型犬ほどの大きさをしたウサギ。雄哉の握っていたバタフライ・ナイフは魔物の頭蓋を破壊し、脳にダメージを与えていた。
もうウサギは動かない。
戦闘は雄哉の勝利だった。
「はぁ、はぁっ……い、ってぇ……」
左肩が凄まじく痛む。
しかしそれ以上に、初めての命を奪うという行為に心が痛んだ。
この感覚にはあまり慣れたくない。そう思いつつ、雄哉は素材を剥ぎ取ってリュックサックに詰め込んだ。
ちなみに【アングボア】もフ【ロンティーラビット】もゲームで言うとスライム的立場の魔物です。頑張れ雄哉