牢
昔、あるところに一人の王子がいました。彼の国はとても裕福で、どの民も昼は歌を歌いながら働き、夜はみんなで酒を楽しく飲み、日々を明るく過ごしていました。王子は今年、王からようやく一人前の大人として認められるため、試練を受けることになっていました。王は彼を大広間に呼びました。大広間には大勢の騎士が列を作り、王様までの道を作っていました。王子は王様の前で跪きました。金色の玉座に座る王様は言いました。「息子よ、お前が一人前と認められるためには試練を乗り越えなくてはならん。国の北に行け。猛獣がいる山を抜け、死人が叫ぶ海を渡り、呪われた洞窟に住むといわれる怪物を討伐してきなさい」王子は顔をあげて震えもせず、こう答えました。「わかりました。この国の王となる身として、国に災厄をもたらす怪物を退治してきます」そういうと王子は立ち上がり、王に一礼した。王子には恋人がいた。この試練をきいた恋人はいてもたってもいられず、すぐさま王子に会いに行った。「王子、わたくしは心配です。どうか無事で帰ってきてください。わたくしが町一番の鍛冶職人に作らせた剣をどうかお持ちください」王子は笑ってそれを受け取った。「無事に帰ってきたら結婚式を挙げよう」誓いのキスを二人はした。王子は神殿へ出向いた。彼の旅路の安全を祈りに。神の神託を仰ぎに。神殿は白かった。すべて石でできたそれはひんやりとした空気が漂っていた。中央の光がさす祭壇に王子は跪いた。目をつぶり、神に祈り続けた。神は応えた。「お前はこれから大切なものを失うだろう。しかしひるんではならん。お前は宿命に従わなくてはならん」それから王子は最も親しい五人の部下を連れて旅立った。
一行は北に向かって歩き続けた。猛獣が出る山では部下の一人を失った。王子はひるまなかった。一行は北に歩き続けた。死人が叫ぶ海では二人の部下を失った。またもや王子は足を止めなかった。呪われた洞窟につく前に一人、餓死で死んだ。部下は残り一人となった。最後まで生き続けたもっとも優秀な部下はラキソンといった。ラキソンは王子とともに育てられ、王子の影武者として育った。二人は容姿も、心も似ていて、本当に仲が良かった。呪われた洞窟につくとラキソンは言った。「王子よ、友よ。どんなことがあってもあなたは死なせない。この私が最後まで必ず守り抜きます」そういって二人は洞窟に入っていった。怪物は強かった。それは三つの頭をもち、一つがライオン、一つが蛇、一つが人間だった。体は闘牛のようにがっしりしていた。どんな攻撃もそいつには効かなかった。「人間よ、どうして我を殺そうとする」怪物は人間の顔で言った。「お前を殺すのが私の役目だからだ」王子はこう言い放った。もらった剣を引き抜くとその切っ先を怪物に向けた。「何もしておらぬ我の命を奪うというのか」それが怪物の最後の言葉だった。王子は剣をふるいにふるい、その怪物を倒した。怪物の血は緑色だった。王子はその返り血をもろに浴びた。何もしていない怪物の血はやけに熱かった。
王子は満身創痍だった。ラキソンもそうだった。彼ら二人は重い体をお互い支え合いながら歩いた。王国は遠かった。食料はなかった。草を食べる、虫を食べる。なりふり構っていられなかった。ラキソンは死んだ。病気にやられた。食べることもできず苦しみの中で死んだ。ラキソンは言った。「王子よ、あなたと生きられてよかった。嬉しかった。私は死ぬけど最後まで幸せに生きてください」そういうとラキソンは息を引き取った。
王子は最後の彼の言葉を聞きとると涙を流した。まるで自分が死んでしまったような感覚がした。ラキソンは彼の半身だった。彼は声をあげて泣いた。最愛の友のために。彼は泣きながらも力強く歩き始めた。彼が歩いた道に涙が軌跡をつくった。彼は宮殿まで泣きながら歩いた。「王よ、私の部下は全員死にました。私に民を守る自信がなくなってしまいました」王はやせ細った彼を優しく抱いた。「息子よ、お前の部下はお前に教えたのだ。お前が民を守る価値のある王かどうかを。お前にその資格がなければ部下は全員お前を見捨て、途中で逃げただろう。それをしなかった。お前は王となるべき人物だと、部下はそう思って死んだのだ」聴き終ると王子は泣きやんだ。死んだ部下を考えた。彼の決意は固まった。私が国を治めなくては。
そうして、王子は王となった。恋人と結婚した。彼の国は長い間平和で、どの民も昼は歌を歌いながら働き、夜は酒を飲んで大いに楽しんだ。彼が怪物を倒した剣は国王に引き継がれ、何年もの間、王国の強さの証しとして王国に存在した。お話はおしまい。めでたしめでたし。
ああ、死んだみたいだ。ただそれだけだった。ここでは日常茶飯事。誰もが死んでいくしかない。それしか残されていない。看守が黒い鉄格子を開けるのはそのためだけだと知っていた。私は冷えたざらざらとべとついた鉄格子を握る。死んだ奴はどいつだろうか、牢獄の中ではそれを知ろうとするぐらいしかやることがなかった。顔をおしつけて看守の位置を把握する。確認すると、私は牢の隅に膝を抱えて座った。私の牢から右斜め前。死んだのはどうやら毎晩居もしない自分の赤子におとぎ話を聞かせる女だった。いつもうるさかった。人が寝ようとするときにフンフンと歌うように独り言を言いつづける。ある王国の王子の話だった。よくありそうな出世の話。つまらないものだったが、毎晩聴かされるのだから、ストーリーが耳にこびりついたまま、離れない。そらでも言える。最近は途中で話が途切れたり、歌声が聞こえなかった。死期が近かったのだろう。栄養失調か、精神の衰弱か。どちらでもよい。ここの飯はひたすらまずい。だいたいはかびくさいパン一切れとほとんど水のスープ。食えたものではない。いつでも数えて十四本の鉄の棒に作られた、四角い食事口から無造作に差し出されるそれは日常の中の唯一のイベントだ。くさい飯でも食うしかない。それがここでのルールだ。固い石のベッドでも、黄ばんで茶色くなった糞溜でも使うしかない。冷気を放つ石壁に囲まれた生活の中は渡されたものを使う。暇つぶしを考える。寝る。飯をくう。それだけで過ごすのだ。よくやる暇つぶしは自分の牢獄のシミの数を数えたり、傷やへこみを数える。また日常で点検した傷やシミ、へこみに変化がないか見て回る。私の牢獄のシミはやけに多く、私の前の男の牢獄は十か所程度、私のは三十か所以上だ。へこみや傷は少なく、形的にはきれいな牢。一日に三回、たいてい食事のあとに点検する。最後まで丁寧に点検するのは本当に一週間にいっぺんか、そこらで飽きると途中でやめてしまう。鉄格子の数を数えるのは最もよくやることだ。数は常に一緒だ。壁や鉄にさわる。冷たい感触が私の感じることのできる数少ない感覚。
牢を開ける音。二人の看守が女の屍を持ち運んでいた。手と足をもたれると女の体はいとも簡単にぐにゃりとまがり、くの字になる。首はくの字の内側をむき、女が呆然と自分の体を眺めているように見える。それだけをみると女はまだ生きているように見えたが、まぶたは重く閉じられていた。もう二度と光をみないことは確実だった。私の成れの果てもあそこなんだろうと考えたが、いつになるかはわからなかった。まだ当分生きるだろうとも思うし、明日死ぬんじゃないかとも感じた。持ち運ばれた遺体が私の前を通過する。女が来ている襤褸は石床の上をひらひらと舞い、看守の一方がサボるとたちまち床に引きずられ、摩耗していく。目には全く分からないが、少しずつ、しかも確実にその身はなくなっていった。二人の看守が一度私に視線を送った。看守たちは厚い緑色の服と羽根飾りのついた帽子をかぶり、鉄製の不気味な面をしている。茶色い、砂で薄汚れた茶色い革靴をひたひたと鳴らし歩いた。何も語らず、冷たい目でじっと、私を一瞬、見て、鼻で笑い去っていく。薄ら笑いは牢屋の壁よりも冷たく、そして正直だ。まっすぐ私達を見ているが、どこか遠くを見ているようで、真っ黒に広がるその奥に私は映っていない。奴らがみているのはどこかの牢獄だけだ。ここにいるのは私ではない。そう、ここでは私はいない。ここはなんだろうか。部屋。四角い部屋。石でできている。石にはシミがある。傷がある。へこみがある。鉄格子十四本。冷たい。寒い。固い。ここじゃないってなんだろうか。私にはわからない。私がわからない。ここじゃないところはここ以外の場所で、たぶん、そう真っ暗なんだろう。ただ真っ暗な空間がぽかーんとあってそこにはどうせ殺意と憎しみと蔑みがあるのだろう。だったらここにいた方がましだ。看守の冷たい目に耐えればここでの苦痛はない。空腹は自動で満たされ、睡魔に連敗を喫しても誰も咎めない。時間の過ぎ去るのは非常にゆっくりかと思えば、一瞬にして過ぎ去ることもある。ここで、この場所で私は生まれ生きて、そして死ぬ。外での記憶は遠いものだ。もう覚えていない。ここでの飯はまずいと言ったが、正直おいしいのかもしれない。ここ以外の飯を食ったことがない。いや、遠い過去でここ以外の場所でうまいものを食べたかもしれない。しかし、もう忘れてしまった。だから過去に外にいようがいまいが、私に残されたこのまずさはただ本能的な、生命を脅かすという意味での、感覚の反応かもしれない。必要最低限の私の生命維持の感覚は残されている。逆に言えば、ここでの生活は最も安全で最も楽で、最も最善な生活なのかもしれない。誰もがそうと思わないだろうが、牢獄育ちの私にはこの答えしか持ち合わせていない。看守は鼻で低く笑った。看守が歩く度に屍はゆらゆらと揺れ、木製の牢獄のドアは開かれ、その中に二人とひとつが吸い込まれ、この場所から消えた。最期はこの場からの脱出だが、私にはその結末が嫌だった。死ぬことではなく、この場以外の未知の場に、私の遺体が持ち出され、暗闇に放り出されるのであれば、私にはたまらなく苦痛だ。
突然囚人の一人が叫びだした。その声はまるで原初、人が生まれていない言葉を使い始めようと意志しだした瞬間のようだった。沈黙の石の世界で響くそれは海原の沈みゆく太陽のごとく私の耳にじりじりと焼きついた。看守の歩く音とおとぎ話の語り以外、何も響かぬ牢獄に音が出るのは久しぶりだった。いつもと違う空気を感じたのだろうか。行きつく先は死、それは日常だが、おとぎ話の女はどうやら全員にとってある特殊な立場を持っていたようだった。睡眠妨害でもあれば、沈黙の独房の中で言語を操る珍しい囚人の一人だった。とはいえ、この場所で言語と言ってもうなり声から、脈絡のない言葉、叫び声、全部ひっくるめたことを言うのだ。まともな言語が聞けるのは彼女の語りだけであった。毎晩聴かされ耳に嫌でも残るその物語は物語る前提が異常と言えど、形のない赤子を相手にしているといえど、はっきりとした言語であった。意味がつながる言語であった。彼女の内部からくるその受け手の存在が欠けたことによって、物語る行為自体は無駄ではあった。赤子の居ないこの石の世界ではおとぎ話はただの雑音でしかない。意味が通じていても誰もがその意味を受け取らず、有用性を見出してはいなかった。ただ聞こえてくるだけのその音は言語であっても、そう、音でしかないのだ。無理強いされるのはこの世界のおきてを破るようなものだ。干渉というものがないこの世界においてその音が異常な存在感をおびて私達を襲う。固定された道筋はそれ以上以下の結果を予想させない。これが決定だった。あの女の語る物語が私たちの聞き得る唯一の言語であり、与えられた言語だった。王子はいつだって王子であり、王子という言葉はその王子を意味した。王子はいつだって恋人がいて、父親がいて、ラキソンがいた。部下は全員死んだ。何処で死んだのか。ここではないところだ。神の神託の中で死んでいった。神は常に王子の部下の死を予言し、彼の幸福を運命づけた。怪物は何もせず、ただ殺される。名前すらあたえられない。怪物とはなんだろうか。彼が一体どんな災厄をもたらすのか。女と言語は語らない。ただラキソンが死んだ。そのどれにも口をはさむことは許されない。疑問を持ってはいけない。私には、この世界には、この疑問を認識するための言語を持っていなかった。女の死は言語の完成と物語の完結を連想させた。形のない赤子は育った。乳離れした彼、もしくは彼女は自らの脚で歩き始めた。一人が叫ぶと、他の奴は反射的にうなる。うなり声をきき、他の奴が叫び声をあげ、地団太を踏む。牢獄のざわめきは連鎖し、時間をかけてじっくりと消えていった。
おそらく深夜だ。あの女が運ばれてからずいぶん経つ。そんな気がする。ざわめきはすでに消えた。私の予想はどうやら当たった。囚人は全員寝静まった。私は一人、石のベッドで睡魔が訪れることを待っていた。長い間そうしていたような気がする。天井のシミの数をくまなく数えていた。右端からちょうど真ん中にいったころ、おそらく十数えたかいないかぐらいであった。革靴以外の足音が聞こえてきたのだ。いや、正確には足音ではなかった。囚人が錯乱し、四つん這いになってうなりだす、そういったときに四つん這いで移動する襤褸の削れる音だ。私は目を見開いた。ぼうっと見ていた視界が急に開けた。ああ、この音は。少しの間、私は見開いた瞳の緊張を味わった。目元と額に寄り合う肌の感覚を感じた。そうしてもう一度確かめた。音の所在を。まだ聞こえる。それを認識した私は、鉄格子に顔を摺り寄せた。周りには寝静まる囚人の形がうっすらと見えるだけだ。悪寒がする。形のない赤子が、そのおぼつかない足腰によって歩き始めた。笑っている。きゃっきゃと。この場には女はいない。しかし、彼女の赤子はこうしてこの場を離れずに歩き回っている。その決定づけられた形を、うまく使い、この場を闊歩している。どうどうとしかしおぼろげながら。頭のない、目のない、手のないそれは何を考え、何を見、何を手にしているのだろう。私は注意深くその音の跡を追う。するとどうやらその音は私の牢へと近づいているようだ。鉄格子から身を引き、中腰の状態で、前を通り過ぎるのを待った。悪寒。近づく度、近づくごとに、私の肌は冷たさを感じた。鳥肌が立った。鼓動が激しく、私の耳を打つ。赤子は私の前で立ち止まった。何も聞こえなかった、私の心臓の音以外は。赤子は私をみた。少なくともそう感じた。そして再び笑った。乾燥した、軽い音で。汗が噴き出る。少しすると。また移動を始めた。そうして音は徐々に小さくなり、消えていった。私は固まったまま、何も考えられずにいた。私の襤褸が冷たくへばりつくのを感じた。汗で吸い付き、体に密着した。包まれた空気と襤褸によって私は我に返った。そうして再び石のベッドに戻った。おそらく深夜のできごと。その日ではもう、何者の音を立てず、私はいつものように睡魔に屈した。
昔、あるところに一人の王子がいました。王子の名前はラキソン。彼の国はとても裕福で、どの民も昼は歌を歌いながら働き、夜はみんなで酒を楽しく飲み、日々を明るく過ごしていました。王子は今年、王からようやく一人前の大人として認められるため、試練を受けることになっていました。王は彼を大広間に呼びました。大広間には大勢の騎士が列を作り、王様までの道を作っていました。王子は王様の前で跪きました。金色の玉座に座る王様は言いました。「息子よ、お前が一人前と認められるためには試練を乗り越えなくてはならん。国の北に行け。猛獣がいる山を抜け、死人が叫ぶ海を渡り、呪われた洞窟に住むといわれる怪物を討伐してきなさい」王子は顔をあげて震えもせず、こう答えました。「わかりました。この国の王となる身として、国に災厄をもたらす怪物を退治してきます」そういうと王子は立ち上がり、王に一礼した。王子には恋人がいた。この試練をきいた恋人はいてもたってもいられず、すぐさま王子に会いに行った。「王子、わたくしは心配です。どうか無事で帰ってきてください。わたくしが町一番の鍛冶職人に作らせた剣をどうかお持ちください」王子は笑ってそれを受け取った。「無事に帰ってきたら結婚式を挙げよう」誓いのキスを二人はした。王子は神殿へ出向いた。彼の旅路の安全を祈りに。神の神託を仰ぎに。神殿は白かった。すべて石でできたそれはひんやりとした空気が漂っていた。中央の光がさす祭壇に王子は跪いた。目をつぶり、神に祈り続けた。神は応えた。「お前はこれから大切なものを失うだろう。しかしひるんではならん。お前は宿命に従わなくてはならん」それから王子は最も親しい五人の部下を連れて旅立った。
一行は北に向かって歩き続けた。猛獣が出る山では部下の一人を失った。王子はひるまなかった。一行は北に歩き続けた。死人が叫ぶ海では二人の部下を失った。またもや王子は足を止めなかった。呪われた洞窟につく前に一人、餓死で死んだ。部下は残り一人となった。最後まで生き続けたのはもっとも優秀な部下だった。ラキソンとともに育てられ、王子の影武者として育った。二人は容姿も、心も似ていて、本当に仲が良かった。呪われた洞窟につくとラキソンは言った。「友よ。どんなことがあってもあなたは死なせない。この私が最後まで必ず守り抜きます」そういって二人は洞窟に入っていった。怪物は強かった。それは三つの頭をもち、一つがライオン、一つが蛇、一つが人間だった。体は闘牛のようにがっしりしていた。どんな攻撃もそいつには効かなかった。「人間よ、どうして我を殺そうとする」怪物は人間の顔で言った。「お前を殺すのが私の役目だからだ」王子はこう言い放った。もらった剣を引き抜くとその切っ先を怪物に向けた。「何もしておらぬ我の命を奪うというのか」それが怪物の最後の言葉だった。王子は剣をふるいにふるい、その怪物を倒した。怪物の血は緑色だった。王子はその返り血をもろに浴びた。何もしていない怪物の血はやけに熱かった。
王子は満身創痍だった。部下もそうだった。彼ら二人は重い体をお互い支え合いながら歩いた。王国は遠かった。食料はなかった。草を食べる、虫を食べる。なりふり構っていられなかった。ラキソンは死んだ。病気にやられた。食べることもできず苦しみの中で死んだ。ラキソンは言った。「部下よ、あなたと生きられてよかった。嬉しかった。私は死ぬけど最後まで幸せに生きてください」そういうとラキソンは息を引き取った。
部下は最後の彼の言葉を聞きとると涙を流した。まるで自分が死んでしまったような感覚がした。部下の半身はラキソンだった。部下は声をあげて泣いた。最愛の友のために。彼は泣きながらも力強く歩き始めた。彼が歩いた道に涙が軌跡をつくった。彼は宮殿まで泣きながら歩いた。「王よ、私の部下は全員死にました。私に民を守る自信がなくなってしまいました」王はやせ細った彼を優しく抱いた。「息子よ、お前の部下はお前に教えたのだ。お前が民を守る価値のある王かどうかを。お前にその資格がなければ部下は全員お前を見捨て、途中で逃げただろう。それをしなかった。お前は王となるべき人物だと、部下はそう思って死んだのだ」聴き終ると王子は泣きやんだ。死んだ部下を考えた。彼の決意は固まった。私が国を治めなくては。
そうして、王子は王となった。恋人と結婚した。彼の国は長い間平和で、どの民も昼は歌を歌いながら働き、夜は酒を飲んで大いに楽しんだ。彼が怪物を倒した剣は国王に引き継がれ、何年もの間、王国の強さの証しとして王国に存在した。お話はおしまい。めでたしめでたし。
女が死んで数日がたった。あの夜から毎晩のように赤子は這いずり回り、私の方を見る。毎晩、私は呆然とした眠気から呼び起され、その確実でおぼろげな足音に耳を傾けるのだった。ある朝、看守の足音によって私は目覚めた。固いベッドからの目覚めはいつも通りで、普段の最善な生活の始まりを告げた。しかし、今日はどこか違った。看守の足音と、まったく違った音が聞こえてきた。耳を澄ませてみると鎖が触れ合う音のようだった。鎖が使用される場合は罰を加えられるか、新たな囚人が連れてこられるかのどちらかだった。ただ、前者の用途で使われる場合はほとんどない。ここの囚人は外の世界を諦め、連れてこられた者ばかりだ。何をしてきたかほとんど知らないが、看守のひそひそ話をきくことには大方予想がつく。また、連れてこられる者は看守におとなしく従い、独特の、しかもどの囚人も似たような表情を浮かべている。瞳は水晶に煙を封じ込めたかのように曇り、どこをみているのか判然としない。口元は力が入り、薄ら笑いをしている。ただその笑いはどこか硬く、むなしさを感じさせた。そうして牢に入れられて沈黙の日々を続ける。日々をおとなしく無為に過ごし、じっくりと死の業火に焼かれて死んでいく。じわりじわりと近づく死に、恐怖し、発狂する囚人もいるにはいるが、それは発作的に過ぎない。最終的には衰弱し、生まれたての牛のようにおとなしく眠るように死んでいく。それは一種の救済である。囚人たちは弱っていく。弱っていく囚人を冷ややかな目で傍観する看守。正義の彼らは常に傍観者であり、その面のうちに秘めた感情を押し殺し、もしくは自らそういった感情を抱き、もう一方ではその感情のみを持たざるを得ない環境に押し込まれて、そうして常に正義でいるのかもしれない。鎖の音が近づいてくる。空いている牢は一つしかないので、私は右斜め前を見ていた。連れてこられた者は二十代と思われる男だった。神は金色だが、投獄される身に相応しくくすんだ金色だった。ぼさぼさと整っておらず、無精ひげが疲労を色濃くみせた。私の知らない外の世界で何をしてきたのだろうか。表情や容貌からは理解できなかった。しかし、背筋のはりかたや、歩き方から、元々は育った環境の良さをうかがわせた。元貴族の若者が没落した一族にあきれ果て、家出し、金に困り盗みか、何かをしたにちがいない。そうして逃げているうちに外の世界の生活に疲れ、この牢に身を置く決意をしたのだろう。
新人は足を引きずり歩いた。看守は新人を牢に入れ、自分たちは外にでる。そうして唯一の出入り口である鉄格子の扉を閉める。金属音が重くあたりに響く。二度と抜け出せぬことを証明するその音はこれで何度目だろうか。私がこの音を何度聞いたかは思い出せない。最初からここで生きてきた中で、何人の囚人が死んだのだろか。考えても答えは出なかった。数えても来なかった。牢を完全に閉じきったことを再度確認すると新人につながれていた鎖が解かれた。看守は両腕を回転させ、鎖を自らの腕に巻きとる。新人から鎖がゆっくりと離れていく。石床を這う鎖は蛇のようで、カラカラと舌を鳴らした。最後に尻尾が鉄格子にあたり、小気味よい音を出す。これで新人のこれからの最善の生活を祝福するようなものだった。誰からも干渉されず、もしくはだれも干渉できぬ、気が遠くなるような閑暇の時を過ごす。その中で己の死期をむしろ遠く感じながら、ただ生きることが与えられる生活を。新人は自らの体を長いこと見つめていた。その視線はまずは手、腕、胴、足へとなめるように動いた。ゆっくりと時間をかけて。外界からのつながりは途切れた。彼は頭を抱えた。むしろ、それは抱えたというよりも、頭に何もないことを確認する作業だったかもしれない。つむじから両手をゆっくりとすべるようにおろし、最後は首で止まった。それを終えると、彼の両腕はだらりと体からつりさげられた。すべての確認作業が終わると同時に、周りを見渡す。自分の空間に何があるのかを確認する。そうして、入ってきた二度とそこをくぐることが許されない扉へと進む。黒い鉄格子を両手で握る。顔を出して、周辺の牢を眺める。左右確認を五秒のうちに二度繰り返し、顔をひっこめた。数歩歩いて、ベッドに座り込んだ。私はその石の硬さを知っている。冷たさを知っている。しかし、彼にとってそれは初めての体験に違いない。閉じ込められた空間の中で、初めてを感じるのは最初だけであとは長いことデジャビュと反復される感覚だけだ。毎晩寝るそのベッドは、毎晩横になった時の感触が違う。しかしその差は毎晩の反復によって常に同じ感覚として処理されてしまう。鈍っていく私の感覚。彼は初めての感覚を今後、一生繰り返していく。それ以後彼は長いことベッドに座り込み、動かなかった。うつむいた顔からは表情が読み取れず、そのまま死んでしまったかのように動かなくなった。私は鉄格子から離れ、ベッドに座った。彼と同じように数時間もの間、動かなかった。
その夜、うめき声が牢獄に響いた。私はいつもと同じように赤子の声を待っていた。寝静まった囚人たちは物音ひとつたてずにいた。私はひっそりと自分の心音のみを聞きながら、シミの数を一通り数え上げ、今日はもしかしたら、と思って寝てしまおうかと考えていた。そんなときに聴こえたのだ。聞いたことのないものだった。聞いたことのない声だった。赤子ではなかった。私はベッドから飛び降りた。そうして周りをみわたしてみた。おとぎ話の女の牢にいる金髪の新人がうなされているようだった。何か言葉を言っている。私は耳を傾けてみた。それはこの牢での彼の産声だった。
そこだ。そこにあるはずだ。ちくしょう、まだか。肉だ。お前たちの肉だ。見るな。なんだその目は。やめろ、お前ら。ラキソン。どこだ、お前は。そこか。やめろ。お願いだ。助けてくれ。あえぎあえぎ発せられるその言葉はとても奇妙だった。と、同時に私にとってそれは言われえぬ懐かしさを感じた。何故だ。するとまたどこからか物音がする。私は一旦、彼の言葉を聞くのをやめて、あたりの物音に集中した。静まりの中に私は何かを探した。赤子がまた動き出したのか。いや、違う。この音は一体。
看守が来たのか。私は一度そう思った。確かに二足歩行の何かが、移動している音だった。ただ看守の革靴とは違った。四つん這いの引きずられる音と小刻みのリズムではなく、ヒタヒタと、一定のリズムで、それは移動している。かかとが石床につく音。足全体で石床を踏み込む無音。そしてつま先で床を蹴り、擦れる音。それらが順序良く、乱れぬ感覚で一つの音を作り出していた。それは紛れもない落ち着きに満ちた歩みだった。姿のない少年が、歩いている。赤子と同様、そこにいる少年は牢獄を歩いていた。そうしてまた私の牢の前にまで来、立ち止まった。私には少なからず彼が私を見ているように感じられた。そうして、何かつぶやいた。いやでもそれは空気の振動、ほんのわずかな牢獄の中で起こった風なのかもしれない。私には何か音が聞こえたのだ。少年は満足したのか、また歩き出した。汗が噴き出した。何かを、決定的な何かを、聞き逃してしまわぬように、緊張していた。それから解放された私は何かを見ようと辺りを見回した。何もない。だが、確実に音はまだ聞こえる。少年は歩みを止めていなかった。そのまま消えてしまうだろう。私はそう思い、ベッドに横になった。沈黙が再び訪れると思った。しかし、それは間違いだった。少年はどこかでぴたりと足を止めた。そうして同じように何かをつぶやいた。すると、新人の声が荒立たしく牢に響いた。
裏切りだ。お前はどうしてこんなことが出来る。私とお前は今までも。やめろ。やめてくれ。そういうと間が、あいた。すすり泣く新人。ああ、これが俺の罪なのか。あの肉、あの目、あの血。すべては俺に降りかかり、俺にだけ刻まれる。
懺悔のように思われた。彼が外界で何をしたのかは全く分からない。しかし、彼のこの言葉は紛れもなく閉じこもる彼の心中のもので、彼の意識があるうえでは決して表出することのないものだと私には感じられた。それを感じたのは姿の見えぬ少年も同様だと感じた。何故なら、彼の懺悔が止まると同時に、少年はまた歩き出した。数分、牢獄を散策し、彼は消えた。少年が消えると、再び静まり返った牢獄に、私一人、静かに宙を見つめていた。その日から、新入りの懺悔は日々続いた。
ラキソンは王子であり、王子ではなかった。彼はおとぎ話が語るのが好きだった。しかし、ここではそういうこともできなかった。自らの言葉を話すこともかなわなかった。王子の影として彼は育った。書斎の窓からは明るい陽射しが差し込む。王子と二人で同じ本を背筋を伸ばして読んでいた。成人の儀に関する所作や礼儀を学ぶために王国紀を読んでいた。王子とラキソンの教育係のカイトは静かに、鋭い目で二人を見守っている。机の向こう側から睨んでくるカイトの眼が、幼いころからラキソンは嫌だった。視界の隅で彼の様子を把握して、ラキソンは出来るだけサボった。王子は息を吐くと本を閉じて、再度姿勢を正した。「王子、いかがでした」カイトがそう尋ねる。ラキソンは王子の声を一言一句もらすまいと集中した。「すべてを把握するのは骨が折れまずが、王子としてきちんとふるまえるように頑張ります」彼の声は明るく、自信に満ち溢れていた。カイトが満足げに頷くと今度はラキソンに視線を寄越した。「王子、あなたはいかがでしたか」先ほど聞いた王子の声とセリフを頭の中で一度再現した。そうして息を吸い込みラキソンは言った。「すべてを把握するのは骨が折れますが、王子としてきちんとふるまえるように頑張ります」ラキソンは王子と同じ声で再生した。カイトは同様満足げに頷き、「よろしい。お二方とも、謁見の間に行ってください。王がお待ちです」
王子は今日誕生日を迎えた。つまりそれは、ラキソンも誕生日を迎えた、ということになる。ただ、ラキソン自身の本当の誕生日はわからない。彼は孤児だった。王がもしものためにと秘密裏に王子にそっくりの子供を探していた。そのお眼鏡にかなったのがラキソンだった。謁見の間。赤いじゅうたんが入り口から王の居る玉座まで伸びている。その絨毯を囲うように銀色の鎧をきた兵士たちが列をつくる。王子のみが王と話しをしていた。ラキソンは入り口の影でそれを一言一句逃さぬように聞いていた。紙にすべてメモをした。公的な会話は記録される。もちろんのこと、国王と王子の会話は記録される。それでもラキソンは自分自身でのメモを怠らない。王子がどんな調子で言ったのか、声量はどれくらいだったか、彼独自のメモも加えて記録した。もし、王子の代わりに公の場においてラキソンが話さねばならなくなったとき、議事録とラキソンの言葉が合わないことがあったら、ラキソンの存在が明るみになってしまう。影の存在がばれる前に、国王の手によって影は殺されるだろう。王子を守るため、また自分自身を守るために彼は記録した。「わかりました。この国の王となる身として、国に災厄をもたらす怪物を退治してきます」王子の澄んだ声が聞こえた。彼はこれから旅立ち、怪物を討伐しなければならない。ラキソンはメモをした。謁見の間は急に静まり返った。どうやら会話は終わったらしい。赤いじゅうたんを王子が踏みしめてくるのが聞こえる。謁見の間から出てきた王子はその陰にラキソンがいることを見つけた。王子はラキソンのところまで来た。ラキソンをまっすぐみつめて両手を握り、こういった。「ラキソン、我が親友よ。これから私とともに来てほしい。お前となら、どんなにつらい試練だろうが乗り越えられるだろう」そういって、王子は自室に戻った。ラキソンはただ呆然と立ち尽くした。私も行かなくてはならないのか。どんなことがあるかもしれぬ旅に出なくてはいけないのか。石のように固まったままでいると、王の側近が王の自室にくるようにとラキソンに言った。
王の自室はいかにも簡素だった。素朴な木の机といすにランプ、白いシングルベッド。それだけだった。王はベッドに腰掛けたままだった。王子は王とよく似ていた。つまりラキソンともよく似ていた。王は口元に黒いひげがあり、がっちりした筋肉体質だ。この国を戦争から守り抜き、平和を築いた男だった。戦争にはめっぽうつよかった。ラキソンに固い木の椅子に座るように手で示した。ラキソンが椅子を引くと木の椅子と木床が互いを非難するようにうめいた。彼が座るのを確認すると王はこういった。「ラキソンよ、お前も王子の試練につきそうんだ。もし、王子に危険が及ぶ時があればお前が身を挺して守るのだ。わかったな」王子と似ていないのはその眼光の強さだろう。戦争を勝ち抜いたその眼は鋭く光り、睨んだ相手に有無を言わせぬものがあった。ラキソンは一切口をはさむ余地をあたえられずに王から部屋を出るように合図された。無言のまま立ち上がると、静かにラキソンは出ていった。王の部屋の扉を閉めるとラキソンは王子の元へ出向いた。彼と一緒に旅立つ準備をしなくてはいけなかった。彼と同じ荷物を持ち、同じ衣装を着て出発しなくてはならないからだ。
「ラキソン、私のために一度神託を受けにいってきてくれ」王子はそう告げて、恋人のミロのところへ行った。ラキソンは仕方がなく、王子の部下数名をつのり、王子として神託を受けに行った。「お前たち、いまから私は旅の安全を祈りに、神託を聞きに行く。よって馬を準備せよ」そう王子として王子らしく部下に告げた。声はまるで本物さながらに澄んで明るく良く通る声だった。部下が去った後、ラキソンは胸の痛みを感じ、手を当てた。ラキソンのことは王と王の側近数名、カイトと、王子しか知らない。下級の兵士たちには影の存在は知られておらず、国民も兵士たちもラキソンのいうことは王子の言ったことと認識して従った。騙されているとは知らずに。ラキソン自身、皆を騙しているという罪悪感はなかった。しかし、時々、王子として語っている時に胸が痛くなる時があった。馬の準備を告げた時も、いつもの発作が彼を襲った。「王子、馬の準備ができました」そういわれると彼は我に返った。「よし。ではいくぞ」彼の胸の痛みはより増した。二人の部下とラキソンは都のはずれにある王家の神殿へと向かった。石畳の街中はにぎわい、人が大いに行き来していた。ラキソンの一行が通ると、民はその場にひれ伏した。王子が通るときはいつもそうだ。民は尊敬の意をこめてひれ伏し、道を作る。いい眺めだ。ラキソンはそう思った。しかし彼はどこか釈然としなかった。色とりどりの食べ物が並ぶ店をみても、不気味な装飾具が売っている店をみてもラキソンは心躍らなかった。街中を抜け、都を出ると神殿までもうすぐだった。白い石だけで作られた神殿は一般の市民には入ることが許されず、王家が神託を受けるためにつくられたものだった。神殿の中は薄暗く湿っていた。石造りの建物の中央に泉があるためだろうか。ラキソンが神殿へ一歩踏み入ると気温が下がるのが感じられた。肌寒い上に、暗く空気が肌を刺す。得体のしれない緊張がそこを支配していた。床が濡れていて滑りやすい。一歩一歩ゆっくり注意深く歩いて泉へと進む。泉には祭壇が置かれていた。そこには面をした神官がいた。その面は目だけが異常にはっきり見えるもので不気味だった。黒い面の中にくっきりと浮かぶ二つの白い眼玉がある。神官はものも言わずに立っていた。ラキソンが祭壇の前にひざまずくと、持っていた鏡を祭壇に置いた。ラキソンは俯き、目を閉じた。泉の水がなる。それだけが聞こえる。ラキソンは暗い視界の中でその音に聞き入っていた。そうして何分たったのだろうか。突然、泉から声が聞こえた。「お前はこれから大切なものを失うだろう」その声は重く低く、ラキソンの心の中心に響くようだった。「しかしひるんではならん。お前は宿命に従わなくてはならん」そういうと再び水の流れる音が空間に響いた。これだけか、とラキソンは思った。神の声は確かに聴いたが、彼にとってそれは彼と同じ言葉を話すものにすぎなかった。神と言えど、ラキソンにとっては何らかの感動を与えるようなものではなかった。ラキソンは目をあけて立ち上がった。神官をちらとみると、神官は頷いた。帰ってよいということだろう。踵を返し、神殿の出口に向かう。「新しい世界がやってくる」突然声が響いたが、ラキソンは構わずに歩いた。体が冷えた。温かいスープでも飲もう。そう考えた。外の明かりは眩しかった。
絶世の美女がいた。白い肌、丸みを帯びた腰、長く墨を流したような髪、大きな瞳。彼女の名前はミロだ。王子の恋人。王子の自室に向かったラキソンの目に真っ先に飛び込んできたのはミロだった。「あら、どうしたの。そんなに私の顔を見つめて」彼は緊張で体が固まってしまった。ミロと会ってはいけない。彼女はラキソンのことを知らなかった。だから、この場に王子が来られてしまうと、ラキソンの命はない。彼はドアを思いっきり開け、あわてて外を飛び出した。扉は怒ったようにガンと叫び、跳ね返ってまた閉まった。近くの廊下のへこみに隠れてラキソンは止まった。彼は胸に手を当てた。ミロ。顔を隠し、王子の御付として同行したときに何度か見たことがある。彼女はとても美しかった。ラキソンはいつも彼女の眼を見ることが出来なかった。大きな瞳を見るたびに彼の中の何か大きなものがうごめくことを感じた。それはラキソンにとって初めてのことだった。今までにない感情だった。ラキソンは必死で正体をばらしたい欲求を抑えた。彼の、王子の影武者としての、生活の中で唯一彼の意志が動いた瞬間だった。彼は顔を隠したフードの奥からずっと彼女を見つめていた。しかし、それだけだった。扉が再び開く音が聞こえた。王子の声が聞こえた。本物が戻ってきたようだ。ラキソンは静かで冷たい石の廊下で一人、二人の会話を聞いていた。「王子、わたくしは心配です。どうか無事で帰ってきてください。わたくしが町一番の鍛冶職人に作らせた剣をどうかお持ちください」ミロの嘆願する声が聞こえた。その声は震え、泣いているらしかった。王子はいつものように答えた。「無事に帰ってきたら結婚式を挙げよう」再び扉の音。誰かがこちらに向かってくる。足音からして王子だけのようだ。凹みから顔を出す。王子はラキソンを認めると笑って手を差し伸べた。「わが友よ、一番の友よ。さあ出発の時だ。私が国王になるために友の力が必要だ、ラキソン。私が国王になる瞬間を見届けてくれ」ラキソンは笑った。両手を取った。目の前にもう一人の自分が笑っている。もう一人の自分が自分に助けを求めている。いや、違う。俺自身が王子の変わり身なのだ。王子が王子の手をとり、笑っているだけだ。ラキソンはどこにも存在しない。手はすぐにほどかれた。乾きひきつった笑みで彼は旅立った。
私は見てきた、次々と死んでいく男たちを。その遺体をさわっても肉としか感じられなかった。そこに人間はいなかった。だから、私はひるまず進めた。毎晩のように彼の懺悔が響く。少年は必ず懺悔の始まる前に現れた。確認のように周りの牢をひとしきり確認する。彼の顔を、彼の牢を確認するとそこで立ち止まり、何かをつぶやく。そうして彼がうめき始め、懺悔が開始される。その間中ずっと少年は聞いている、その懺悔を。私もひっそりと耳を傾ける。少年は聞き遂げると消えていく。その行為は新たな言語を習得するためにひたすら相手の話を聞き入るようなものだった。男の安眠は苦痛の懺悔を伴い、苦痛の終わりとともに安眠が彼を包み込む。そうして彼の毎日は過ぎていく。男は日に日に衰弱していった。頬はこけ、髪はさらにくすみ、目は赤くなっていった。私は彼がもうすぐ死ぬような気がした。看守ももちろん感づいているだろう。しかし看守も私もそれを変えようとか、変えさせようという気は起きない。ただただ与えられたこの鉄格子のなかで与えられた懺悔を聞き入る。そうすることによっておとぎ話の女の死がどんな変化をもたらしたのかを確認する。それが私の使命だと感じた。懺悔によって肉づいた者たちが現実に現れ始めたのだ。そう、私の眼にはラキソンが映り始めた。ラキソンはまだ少年だった。毎晩聴かされる言語の中でラキソンは生を持ち始めた。石の牢のあらゆるところに彼は存在し、彼が彼自身をどう思っているか述べてくれた。ああ、悲しいかな。ラキソンはその心を持っていなかった。否、私がその言葉を持っていなかった。与えられていなかった。ラキソンという彼は存在してはいるが彼の心、彼という所有までは現れてこなかった。男の懺悔から現れた彼は、やはり、男のところから心を産み出すしかなかった。そうして、日々変わらぬ懺悔の中で私はやきもきしだした。彼の完成が見たかったのだ。シミを数えるばかりはもうたくさんになったのだ。しかし、直接男に聞くのは無理だった。囚人同士が話すことはなかった。ここの牢獄において他人との会話は沈黙以外にありえなかった。もしくは寝言を聞かされるかのどちらかで、会話というものは成立しなかった。私は常に夜を待ちわびた。ラキソンが笑っているのだ。ラキソンが悲しんでいるのだ。ラキソンが苦しんでいるのだ。ああ、早く宵闇を運んできてくれ。私は日中ずっと寝ていた。夜のために。ラキソンのために。
ラキソンは笑った。
旅の連れが次々と死んでいくのを彼は見てしまった。一人は猛獣にかみ殺された。血が彼にかかっても、死体の腕が彼に当たっても彼にはどうしようもなかった。立場上、部下たちである彼らは喜んで進み出た。豊かな国への忠誠心は固かった。それはひとえに国王と、彼自身の人望が厚かったためだろうか。彼の部下は死の海でも死に、空腹の苦しみの中でも笑って死んだ。彼は部下が海に飛び込もうが空腹でやせ細ろうが決してひるまなかった。神託を忠実に守った。彼の新しい世界を信じた。そうしてようやく呪われた洞窟にたどり着いた時には彼自身しかいなかった。洞窟は山の中にあった。その入り口は暗く、深かった。巨人が大きな口を開けて獲物が入ってくればすぐに食ってしまおうとしているようだった。彼は恐る恐る洞窟を進んだ。ランタンの光は闇の中でも美しく輝き、彼の先を照らした。迷いながら進んでいった。どれくらいの時間がったのだろうか。狭かった洞窟は急に開けだした。大広間のような部屋、寝室、書斎、洞窟自体が建物として使われているようだった。彼は目的の怪物に近づいていることを感じた。目標は残りわずかだった。そう考えると足は軽くなった。国王の謁見の間のようなところにたどり着いた。そこの玉座に、得体のしれない怪物がいた。それは三つの頭をもち、一つがライオン、一つが蛇、一つが人間だった。体は闘牛のようにがっしりしていた。「どうしてここに人間がいる」怪物はそう尋ねた。彼は答えた。「お前を殺すのが私の役目だからだ」怪物はため息をついた。「何もしていない我をどうして殺せよう。我はひっそりとここで暮らしているだけだ」怪物はゆっくりと立ち上がると彼に近づいた。「人間よ、われは殺されるわけにはいかぬ。どうか死んでくれ」そういうと怪物は彼をひと睨みした。思わず目を合わせてしまった彼の体は勝手に動き始めた。彼は腰に差していた剣を引き抜き、切っ先を自らに向けた。彼は死んだ。怪物に倒されてしまった。
彼は王国へ帰った。彼一人だけだった。飢えも、死の叫びも、猛獣も、何もかも怖くなかった。帰路は安全そのものだった。涙は出なかった。謁見の間につくと国王がいた。「王よ、私の部下は全員死にました。私に民を守る自信がなくなってしまいました」王はやせ細った彼を優しく抱いた。「息子よ、お前の部下はお前に教えたのだ。お前が民を守る価値のある王かどうかを。お前にその資格がなければ部下は全員お前を見捨て、途中で逃げただろう。それをしなかった。お前は王となるべき人物だと、部下はそう思って死んだのだ」彼は抱かれるままにしていた。「疲れただろう。自室で休みなさい」彼は自分の部屋に戻った。彼のベッドはとても気持ちが良かった。初めてここで寝たような気がした。眠気に誘われてそのまま寝てしまった。
物音が聞こえた。重たい瞼を持ち上げるとぼやあっとした視界があった。目をこすり、じわじわとはっきりする輪郭の中から誰なのかを確認した。紛れもないミロだった。大きな瞳がそこにはあった。「王子、ご無事で何よりでした」そういうとミロが顔を近づけてきた。王子は顔をそむけた。「私との結婚の約束が守られて本当にうれしいです。私を幸せにしてくださいますよね」王子は「はい」と小さな声で答えた。彼に似つかわしくない声だったがミロは疲労のせいだと思い、何も思わなかった。こうして二人は結婚して子供をもうけた。彼は王となった。国は安定した平和を作っていった。
いつもの夜が来た。少年は男の牢の前にそっと現れた。彼の語りは終わった。ラキソン。真実は暴かれた。一人牢獄の中で私は固いベッドで横になっている。彼の懺悔が完成すると、ラキソンはラキソンになりえなかった。彼はうめき声をあげた。そのうなる声はどの言語より真実であるし、おとぎ話だった。その物語の中でラキソンは完成しえなかった。私は男の牢を見やった。私は耳を抑えた。激しい耳鳴りが私を襲った。ものすごい衝撃が私を襲い、私はその場でうずくまる。体は震え、吐き気がした。思い出せない。ラキソンは男の牢の前で立っている。男を見ている。ずっとずっと。すると、男が突然起き上がった。布団を跳ね上げ、体を起こし、辺りを見回した。男は金切り声をあげた。あげたはずだった。男が声をあげたはずなのに声が全く出なかった。何者かにその声を吸い取られるように。男はラキソンを見たために叫ぼうとした。ベッドから飛び起き、逃げ場のない牢の中を駆け回った。静かだった。その牢の音を誰かが吸収しているようだった。逃げ場を追い求め続けた男だったがそんな場所はどこにもなかった。ラキソンはいとも簡単に牢の中へ入っていった。そうして男の前に立ち、男を見下ろした。それは蔑むような視線だった。男の口は確かに助けてくれと形を作った。しかし、何も聞こえなかった。ラキソンに覆いかぶさった。私には確かにそう見えた。しかし、それは一瞬の出来事で、ラキソンは覆いかぶさると同時に消えた。男はそこから一歩も動かずに床に転がったままだった。
朝が来たと感じた。遠いところから音が聞こえる。私は顔をあげた。牢の隅でうずくまっていた。左手で耳をおさえる。未だ耳が痛い。耳鳴りはやんだが、痛みは一夜明けても残っていた。革靴の音がした。木製の扉があき、鉄面皮の看守が朝の巡回にやってきた。緑色の冷笑は牢の中を歩き回った。いつもの冷ややかな目が私を突き刺した。一瞬だけ私をみて、次の牢を確認する。じりじりと見つめ、確認する。看守がある牢で立ち止まったことが分かった。何故なら革靴の音が急に鳴りやんだからだ。そうして、鉄格子を握り、カギを開ける音がした。私は立ち上がり確認した。二度と開かないはずの懺悔の男の牢が開かれていた。懺悔の男は昨日の夜と同じようにそっくりそのまま冷たい石の床にくの字になって転がっていた。看守は首を触り、目を無理やり開き、生きているか確認した。看守は頭をふり、満足すると立ち上がり、扉を閉めた。重い金属音が響いた。看守はすぐには戻らなかった。全部の牢の囚人を確認すると、ようやく木製の扉から出ていった。それから数分後、看守は二人やってきた。今度はまっすぐ懺悔の男の牢に向かっていった。看守はやはり彼の腕と足を手分けして持ち上げた。懺悔の男は死んだみたいだった。それは日常のことだった。誰もがこの牢で死んでいくしかなかった。彼はその一人のうちに数えられただけでここでは変わったことは特にない。女の時と違い彼は重かった。看守たちはお構いなしに引きずった。彼の背中の服はところどころ千切れていった。足早に看守たちは運んで行った。懺悔の男の死体が私の目の前を通った。私は目を見張った。彼の顔は安らかだった。今までにないほど安らかだった。口元は緩み、温かい微笑を浮かべていた。私はそれを見た瞬間、とてつもない不思議な感覚に襲われた。この感情を抱いたのは初めてだった。この牢では与えられるもののみを受け取り、最善の生活をしていく。それしかなかった。しかし、彼の死の表情はこの牢で死ぬ囚人の誰とも違った。私はそれを羨ましいと感じた。
おとぎ話は死んだ。その懺悔とともに。おとぎ話は一瞬にして現実となり、石の牢の空間に具現化された。赤子はその四肢を引きずり、少年は闊歩し、ラキソンはその懺悔に耳を傾けた。そうしてこれらの現実を一気に引き受けた懺悔の男はこれによって幸福を見つけ、死へと旅立った。死期をただ待つばかりでなかった。この牢に生を受けた私にとってそれはとてもうらやましいことだった。