気まぐれな君へ
白いカーテンの隙間から、柔らかな光が部屋へと射し込む。
目覚ましを止めてから、放心した目で光を見つめてそろそろ十分になるだろうか。いい加減布団から出なければ遅刻する。羽毛布団は肌寒い季節には離し難い温もりだが、これ以上は本当にまずい。
「うぅ起きなきゃ……あう」
布団の中での精一杯の伸びをして、眠気を覚ます。
「――おはようございます」
誰もいない部屋での朝の挨拶。当然ながら、返事をするものは何もない。
覚醒してゆく頭の中で、零した声にがっくり項垂れる。一人暮らしであるのについ挨拶をしてしまう。いつか治そうと心掛けている癖だが、改善の兆しはいまだ見えず。
一日が始まる。
***
昨日の夜に、アイロンを掛けて畳んでいた制服を手に取る。
一か月ぶりに着ると思うと、少しだけ気が重くなる。
これを着たら学校へ行くわけだが……。
もえかとの約束をした以上逃げるわけにはいかないが、夏休みを挟んでクラスメイトとの疎遠は実質一か月以上。それだけ空けばクラスとの距離は途方もなく広がっているだろう。
色々と気が重くなることを考えずにはいられない。カースト制度ってうちにもあっただろうか?
「――まぁ、大丈夫だろう。うん」
自分のクラスはどんな雰囲気だったか。朧げながらも必死に思い出そうとするも、効果は無かった。駄目だ、思い出せない。
とりあえず忘れていないのは交友関係。
流石にそれだけは覚えてなくてはいけないし、教職員と友人、それだけ覚えてれば十分だろう。
そんなことを考えながらもしっかりと手は動かす。時間に余裕があることを確認しながら朝の身支度を整えていく。
「なんだかなぁ」
深いため息を漏らし、あむあむとメロンパンを口にしながらニュースを見る。
惰気満々。視線はテレビに向けているのに、その内容が全く頭に入ってこない。
ポッカリと空いた穴に寒々とした隙間風が吹き込むような、身震いするような消失感。
……寒い。
目標がなくなるとこんな気持ちになるのか。
いままでずっとあるものだと。これからも続くものかと思ったものが、昨日確かに無くなったのだ。その現実が胃に溶ける薬のように脳の中心から浸透していく。
――漸く現実味を帯びてきた。
「はぁーー」
葵さんの事で泣き言を漏らすのはこれで最後。そんな気持ちを込めて、朝の天気に似合わない深くて長い溜息を吐く。
丹田から吐ききった二酸化酸素に、新しい酸素を取り込む。その行為を三度済ませた時、テレビ画面には『今日の十二星座占い!!』と可愛いイラストと共に映し出されていた。
画面をジッと見つめる。
――もし今日の運勢が三位以下だった場合、俺は多分……学校に居ないであろう。
ボンヤリと浮かび上がった言葉に、悪くないかも知れない、と判を押す。
自分で決められないのなら逸そ誰かに決めてもらおう。それが占いというのはかなり女々しい気もするが、お手軽なものでサックリ決めたほうが諦めがつく。
パクリとメロンパンを一口する。
***
「おはよう小此木。あー、そっち」
「おはようございます。小野寺先生」
お互いに遅い挨拶を済ませ、先生が指を差す左側の席へと座る。
時間はお昼休み。朝校門の前で目が合えば挨拶よりも先に「昼休み指導室へ」と呼び出された。
午前の授業を無音で過ごした俺は、昼食を取らず真っ直ぐ指導室へと向かった。
「さて、まずはこれだ」
机に置かれたプリントに目を向ける。
進路希望調査。
「そういえばありましたね」
「夏休み明けに配ったやつだ。五月に書いただろうが、うちじゃ半年ごとにこれを書く決まりになってるのは知ってるよな」
「高校の三年は短いですからね」
「内容はなんだっていいさ。学校の狙いは将来を意識させることだからな。さ、さっさと書け」
「ここで書くんですかっ!?」
「ここで書くんだ。ほら、未定なら未定って書け」
そういって空白欄をトントンと指さす。
グゥの音も出せない俺は、渋々とした顔で『未定』と記入する。
何だろうこの敗北感……。
記入されたプリントはそのまま先生の手元へ。
「さてと……。で、今まで何してたんだ?」
「色々ありまして」
「色々とは何か?」
「い、色々です」
「ふん。うまい具合に欠席しやがって、貴様が外を駆けずり回っていたところを俺は見たんだぞ」
「あはは、見られてましたか――あぁいたいっ!」
ゴンっと素早く振り落とされた拳が俺の頭上へ落とされる。
「茶化すな」
「……済みません」
「ったく。まぁ俺だったからよかったものの、紀野先生だったらどうなってたことか」
「紀野先生……。俺のこと嫌いですからねぇ」
「んん。そうでもないが……お前に対しては何かと噛みつくからな、あの人も。……そんな事よりなにがあったんだ」
「色々です。ほんと、色々ですよ色々」
後半、お経を唱えるようにブツブツとか細い声となっていく。
よっぽど酷い顔をしていたのだろう、先生がガックリと項垂れて見せる。
「意気消沈とした雰囲気だな。う、うーーんっ」
両手を組んでくっと伸ばすと、少しだけ、スイッチを切り替えたように雰囲気が変わった気がする。
肘を付けた先生は目を細めて俺を見つめる。
「結論だけ言えば、まぁ、失恋だろう」
「……当たりです」
「はああぁ」
呆れたように深々とした溜息と共に、ぎしりと背凭れに体重を預ける。
小野寺雪路。
今年で十年になる国語教師で、一年五組、俺のクラスの担任である。
小柄だががっしりと鍛えた体であるが故、入学当時は体育教師だと誰もが思ったことだろう。
性格も体育会系で、暑苦しいと思う生徒が続出している。がその実、深く関わって見れば意外にも小野寺先生はかなりドライな性格をしていた。
自分の見た目を理解しているのだろう、体育会系なキャラは自分が生徒にどう見られているか分かっているためのカモフラージュであったりする。
「よくわかりましたね」
「教師生活十年もやれば流石にな。馬鹿な俺にも黄金の三日間が見えてくるさ。学生の性質は大抵同じで、全くもって下らない。もう飽きた」
最後は苦笑交じりに話す先生の言葉に、ただ自嘲気味に笑みを零す。返す言葉もない。
何も言えずにいる俺に、先生は続けて話す。
「話したくないならそれでもいい。お前は自分から話してくるタイプだから詳しくは聞かない。だからまぁ一つだけ。それはもう終わったことか?」
「……はい」
「そうか。それじゃこれからは学問に専念しろ。こっからは一度も休まないこと。紀野先生も承諾済みの進級の条件だ」
そういって優しく微笑む姿はまるで、やんちゃな幼子に向けるような穏やかなものだった。
「分かりました」
「よし! ならここまで。色々と積もる話もあるが時間がない。さ、鍵占めるからとっとと出ろ」
先生が席を立つのを見て、俺も立ち上がる。
ほれほれと進行を促すようなジェスチャーをして、扉へ向かう俺の背中にギリギリ触れないで圧を掛ける。
決して圧力に負けたわけではないが、少しだけ駆け足になる。先生も駆け足になる。いやいや、ついて来ないでくださいよ、せめてもう少し離れて下さい。
日曜の終わりを告げる駆け足で二人扉の向こうへ。
ガチャリと小野寺先生が鍵を掛け、しっかりと施錠確認をする。
「またな」
乱暴に俺の頭をガシガシと撫でて、小野寺先生は立ち去った。
ガサツな振る舞いなのに何処か清涼感のある爽やかな立ち去り方に、目をパチクリとさせて見送る。
あの人はホント何者なんだろう。案外あの人の本質を自分は見抜けていないのかも知れない。
葵さんほどでは無いにしろ観察眼にはそこそこ自信はあるんだけど……うーん。
「さてと」
乱れた髪の毛を手グシで整え、気持ちを切り替える。
お昼休みは後十分ほど。種類が少ないのはいいとして、購買に向かってパン一個を買って食べる時間はあるだろうか。
いずれにせよ、時間が惜しい。
決まったことをすぐさま行動に移すべく、俺も指導室を後にする。
「おや、小野寺先生の指導は終わったのかい?」
後ろから声を掛けられて振り返ると、大量の資料を抱えながらもこちらに微笑みを向ける王子様が立っていた。
「立花先生。おはようございます」
「おはようございます。一か月ぶりだね」
「ですね」
「君が来ないって小野寺先生がぼやいてたよ。職員室でよく君の名前を口にしてた」
クスリと大人びた笑みを見せる立花先生。
対してこちらは――。
「ふっ、あっはっはっは! 何ですかそれっ! 小野寺先生がそんな事いうなんて、あはは」
大爆笑。小野寺先生のぼやいてる姿があまりに容易に想像できてしまい、堪える事が出来なかった。
「教師生活も長くなると、生徒も孫のように感じるのかもしれないね。いい意味でも悪い意味でも君は小野寺先生とよく話していたからね」
「小野寺先生の事、嫌いじゃないですよ。あぁ勿論、立花先生も」
「教師冥利に尽きるね。小野寺先生みたいな余裕、僕もいつかそうなるのかな」
そういって困ったような声で笑う立花先生は、その実どこか嬉しそうだ。
きっと小野寺先生に憧れのようなものを抱いているのだろう。
立花陸彦。
教職生活三年になる新米。数学担当。涼しげな顔立ちと年の近さが女子生徒に大人気。なお男子生徒には受けは悪いよう。
染めたことのない黒髪はサラリとして、重さを感じない。
ほんわかと優しい雰囲気を持つ草食系がピッタリ当てはまる人物。俺は、先生の様な余裕と温和な雰囲気に、密かな憧れを抱いている。
その憧れに少しでも近づこうと、「持ちましょうか」と重そうな資料を受け取ろうとする。
「大丈夫だよ」と遠慮をする立花先生に俺は、無宿人が宿場を跨ぐ様な口上を皮切りに、裏表のない親切を押し売る。
「それじゃあ、お願いしようかな」
「有難うございます」
ゲットッ!
その際、苦笑いする先生の顔は見ないことにする。そうして何気ない会話を繰り広げて昼時間を過ごした。
その結果――
***
「(お腹、すいた……)」
時に浅く、時に深く、ゆっくり、大きくとお腹が鳴らないように様々な工夫を用いて、丹田を意識した呼吸を繰り返す。
午後の授業も静かに過ごすつもりが、とんだ自爆。
小野寺先生と別れた後に効率のいい昼飯のあり付き方を考えてたはずなのに……三歩歩けば忘れるなんて、鳥か俺はっ!
くそう。油断をすれば直ぐに鳴りかねないお腹を意識するだけに、朝の授業よりも何倍も長く感じられる。せめてもの救いが俺の席は廊下側一番後ろだと言う事だ。
前の生徒との距離を取るため、授業開始前に机椅子を少しだけ後ろへ下げていた。念のため。
「(うぅぅ、先生、長いよぅ)」
繰り返す呼吸法を用いてもとうとう彼にも限界の時が訪れる。
「クゥーー」
彼なりの努力を重ねても結局報わることはなかった。
ふふっ。
音に反応してくすくすと小さな笑いがお隣から漏れる。
音は小さかった。笑ったのは隣だけだったから間違いない。念のための行為が功を成したが、甘いボディーを失念していた。
ちらりと横を見れば、バッチリと目があった彼女に恥ずかしげにペコリ。お辞儀をする。
それを見て、右手を口元に置いて目礼を返す彼女に、何とも言えない恥ずかしさが込み上げてくる。
「(ああっもう、最悪)」
赤くなっていく顔を隠すように机に伏せて睡眠学習の姿勢で、学生の一日を過ごしたのであった。
文字に抑揚を感じられない……何故だ。ここまで読んで下さって有難うございます。