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手品師の姪  作者: 沖川英子
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 メイコさんは、ある日突然キセ氏の生活の中に入り込んできた。猫のように音も立てずというのではない、空からドン、と降ってきたかのような、キセ氏にとっては衝撃的な登場だった。


 その日、蒸し暑い町を冷やすように雨が降った夏の夕方、キセ氏は潤んだ空気の中をいつものように店に行き、扉を開け、汗をかきかき掃除をして開店の準備をした。定刻に店を開けて、閑古鳥の鳴く中、新しい手品の練習をしているとインターホンが鳴った。(キセ氏の店は扉に仕掛けがしてあって、見破らないと入店できないのだ。分からなければ、インターホンを押すとキセ氏が開け方を教えてくれる)

 「すみません、開かないんですけど」

凛とした声が聞こえて、キセ氏はおや、と独り呟いた。若い女性が来るなんて珍しいこともあるものだ。ここの客は、常連の物好きな親父たちか、彼らの連れてくるこれまた物好きな親父しかいないのに。

 初来店の客に、キセ氏は丁寧に扉の開け方を教えた。仕掛けをなんとか解いて入ってきた姿を見て、キセ氏は再びおや、と呟く代わりに少しだけ眉を上げた。

 声から想像した通り、立ち姿の美しい女性だった。背筋はしゃっきりと伸び、目は店内を物色するでもなくまっすぐこちらを見ている。涼しげな淡いブルーのブラウスとパンツというシンプルな出で立ちなのに、彼女の周りだけが明るく見える。キセ氏と目が合うと、大きめの唇には鮮やかな笑みが浮かんだ。扉を開けたまま、彼女はよく通る声で言った。

「お久しぶりです、叔父さん」

 ずいぶんと間抜けな顔をしていたのだろう、キセ氏を見ながら彼女はふふっと笑った。若い娘に相応しい華やかな表情に、思わずキセ氏の口元もほころんだ。

 どうぞ、と案内され、彼女はカウンターに座る。メニューを差し出すと、少しページをめくってカシスオレンジを注文した。キセ氏は頷いて背後のボトルを取った。

 「何年ぶりでしょうね、こうしてお会いするの。ずいぶんご無沙汰しちゃって」

長い髪を後ろに追いやりながら彼女は笑う。キセ氏も笑いながら頷き、氷を入れたグラスにカシスリキュールを注ぐ。返事はしなかった。彼女の親しげな口調の中にある他人行儀な丁寧さが、口を開け難くしていた。無言のままオレンジジュースを注ぎ、コースターと共にすっと差し出す。

ありがとうございます、と呟いて彼女は一口含んだ。しばらく、どちらも目も合わさず、何も喋らなかった。ぎこちない空気の中、ジャズのCDが控えめに流れていた。

 無理もない、とキセ氏は胸中で呟いた。何しろ、最後に姪に会ったのは、まだ両手で彼女の歳を数えられた頃なのだ。目の前の女性は、咎められずに酒を飲める歳になってから何回か誕生日を迎えているだろう。もう20年近く顔を見ていないことになるのだ。どんな風に話していいのかまったく分からない。

 少しためらって、キセ氏は口を開いた。

「兄貴は相変わらず?」

カシスオレンジに視線を落としていた彼女はぱっと顔を上げた。真ん中で両分けにした髪が目にかかるのをうるさそうに払いながら、

「ええ」

と苦笑する。兄貴、と口にした瞬間、20年近く前に絶縁した兄の顔を久しぶりに思い出した。あの頃はまだ若かった兄も、今頃は頑固なしわを顔に刻んだ中年男になっているのだろう。そう思うと胸に苦い記憶が甦った。

 キセ氏の兄は真面目すぎるほどの大真面目、曲がったことを嫌う頑固一徹な男で、一回り近く歳の離れたキセ氏にとっては頭の上がらない存在だった。宿題をサボれば容赦なく鉄拳が飛んだし、嘘をつけば頬を叩かれた。キセ氏が15の歳に父親を亡くしてからはその厳しさに磨きがかかり、何かにつけ窮屈な思いをしたものである。

 そんな兄だから、キセ氏が手品の道に進むと決めた時には大騒ぎになった。まっとうな勤めに出ない上に人様を騙す輩になるとはどういうつもりかと、兄嫁の静止を振り払ってキセ氏の胸倉を掴み怒鳴りつけたのだ。怒髪天をつくとはまさにこの事かという怒り様で、キセ氏は兄の罵倒を受けながらも密かに仁王像を思い出したくらいだ。

 兄を酷く怒らせながらも、キセ氏は結局、自分の行きたい道に進むことにした。激怒した兄からは絶縁を言い渡され、キセ氏は故郷を後にした。

 それを最後に、キセ氏は兄にも、その家族にも会っていない。

 「急に叔父さんに会っちゃいけないって怒られて、私、とても悲しかったです」

目の前で懐かしそうに笑う女性には、遠い昔に幾度も手品を見せてやった少女の面影は無い。

20年とはかくも長いものかと、キセ氏は改めて過ぎ去った年月を思った。

 「すまなかったね」

「いいえ」

首を振り、彼女は氷の溶け始めたカクテルを飲む。その所作を見ながら、キセ氏は何気なく言った。

「よくここがわかったね。見つけづらかっただろう」

 問いには答えず、彼女はグラスからすっと口を離し、キセ氏の目をじっと見つめ静かに笑った。その秘密めいた視線に妙にどぎまぎしてしまい、キセ氏は慌てて目をそらす。そのついでに、

「そうだ、これ、覚えているかな」

自分から話もそらしてしまった。

 キセ氏はジョーカーを抜き絵柄の面を上にしたトランプを、片手できれいな扇状に並べる。その中から1枚選ぶように促すと、彼女はさして迷うでもなくぱっと無造作に1枚引き抜いた。

「スペードの5だね」

「ええ」

「覚えたら、この中の好きなところに差し込んで」

キセ氏の手の中では、先ほど広げたトランプが裏向きにきれいに重ねられ、整えられている。

その中ほどに、スペードの5がすっと差し込まれる。

 キセ氏はトランプを二つに割って重ね、また二つに割って重ね、と素早い手つきで幾度もシャッフルし、右手にトランプを持つ。手に少し力を入れると、52枚のカードは小鳥が羽ばたくように、音を立てて左手に飛んだ。彼女は目を丸くして、鮮やかなそのカード捌きを見ていた。

 再びトランプを整え、キセ氏は一番上のカードをひっくり返す。その絵柄はダイヤのクイーンだ。キセ氏はおや、と眉を上げる。

「女王陛下に気兼ねしているのかな」

キセ氏はパチン、と軽やかに指を鳴らす。

 「さあ、一番上のカードを取ってみて」

 彼女は言われるままにカードを取り、表に向けた。

「あっ!」

アーモンド形の目が大きく見開かれた。細い指は、スペードの5を摘んでいた。

「何で、どうしてカードが上がってきたの?」

20年近くの時を戻したような表情に、キセ氏は思わず微笑んだ。

「子供の頃、あんなに見せたじゃないか」

「不思議なものは不思議なんです」

何で、何で、とスペードの5をまじまじ見つめる瞳からは先ほどの秘密めいた色がすっかり消え、子供のような無邪気な驚きが現れている。

 トランプを使う手品はキセ氏の得意中の得意だった。節くれだった指を駆使してのカード捌きは滑らかで隙がなく、タネの分かっている手品師仲間でも見とれるほどだ。キセ氏のカードマジックを見たいがために、通いつめる常連客も多かった。

 けれど、最初にして最も熱心な観客だったのは、他でもない幼い頃の姪だ。キセ氏を慕い幾度も手品をせがむ彼女を驚かせ、喜ばせたいがため、若かったキセ氏は必死になって腕を磨いたのだった。

 「でも、意外だったな」

「え?」

カードを整え片付けながらキセ氏は笑い混じりに言った。

「昔、カードを使う手品をやると、お前はいつもハートの7を選んでただろ?おかげでこっちは楽だったけれど。今回は選ばなかったんだ」

「それは…」

彼女は言葉を捜すようにわずかに目を泳がせ、一瞬の後に、にっと微笑んだ。

「それは、私も大人になったってことですよ」

キセ氏は静かに頷き、それ以上は何も言わなかった。


 一つの手品をきっかけに固かった空気がほどけ、彼女は長い空白の時間を埋めるように近況について語り始めた。

 地元でトップの進学校を卒業し名のある大学に通ったこと。その間にいくつかの恋愛をしたこと。つい最近会社を辞め、今は求職中であるということ。

 薄暗い店内を華やかに彩る笑顔を見つめながら、キセ氏はただうんうんと頷きながら聞き役に徹していた。余計な口を挟んで話の流れを止めたくなかった。

 一通り話が済むと、彼女は残り少なくなっていたカクテルをぐっと飲み干し、グラスを置いて手を組んだ。沈黙の中、キセ氏はそっとグラスを下げる。と、美しく彩られた指先が落ち着かなく動いているのが見えた。

 キセ氏は彼女の顔を見た。

 俯き加減の瞳が落ち着きなくうろついている。

 やがて、決心するかのように両手をぎゅっと組み合わせると、

「あの」

彼女は顔を上げた。真剣な眼差しがキセ氏を捕らえた。

「叔父さん、お願いがあるんです」

すっと大きく息を吸う。

「私を、雇ってもらえませんか?」

 キセ氏が黙り込んだのは返事をしかねたからではない。突拍子もない申し出に驚き、声が出なかったのだ。

「急に、どうして……」

目をぱちぱちしながらやっとのことで言葉を搾り出す。だが、突然の申し出に慌てる一方で、

「大丈夫なの?」

と問うだけの冷静さも持っていた。

 キセ氏の店と兄一家の家はかなり離れており、特急を使ってやっと日帰りできるかどうかといったところだ。毎日行き来するには相当な時間と費用がかかるし、ましてや夜の仕事となれば当然終電はない。あの頑固な兄が朝帰りを許すとは到底思えない。

 そしてそれ以前に、大事な一人娘が絶縁した弟の下で働くなど、兄が承知するはずもない。

 この問題について訊くと、彼女は上目遣いに苦笑した。

「それが……実は、私、家出しちゃったんです」

 キセ氏は返事をする代わりにぽかんと口を開けた。

 父親と折り合いが悪いのだと、彼女は打ち明けた。何かにつけ厳しくあたる父親と馬が合わず、これまでも二人は事ある毎に反発し合い、壮絶な争いを繰り広げて来たらしい。先日彼女が退職した折にも大きく衝突し、親子の間の亀裂はついに修復不可能なほどに広がったのだという。

「そのうち家を出ようと思っていたところなので、丁度いいやって、飛び出してきちゃったんです」

言いながら、彼女はいたずらっ子のように笑った。

 実家を飛び出してせいせいしたものの、さてどうしようかと考えた途端、彼女は行く当てが無いことに気づいた。実家の近郊では何かの拍子に父親に居場所が知られかねないし、かといって全く縁故のいない土地に行っても途方に暮れるだけだ。そこで思い出したのが、キセ氏だったのだという。

 「叔父さんがこの辺りでお店をやっているらしいってこと、聞いていました。ずいぶん昔のことだから、もう引っ越しちゃってるかもしれなくて不安でしたけど。でも、ちゃんと会えましたね」

 微笑む彼女を見ながら、そういえば、とキセ氏はやっと思い出した。確か、10年ほど前にこの店を開いたとき、世話になった兄嫁に宛ててダイレクトメールを送ったのだ。自分が元気でやっていることも伝えたかったし、もしや彼女が兄との間を取り持ってはくれまいかとも期待していた。

 結局、彼らが来店することは無かった。少し落胆はしたものの、そんなものだと思い直し、いつしかキセ氏は手紙を出したことすら忘れてしまっていた。

 だが、その時投じた一石はこんな思いもよらぬ形で返ってきたのだ。

 キセ氏の中に温かいものが広がった。長年のしこりが、ほんの少しだけほぐれたように思えた。

 「分かった」

 キセ氏は彼女を雇うことにした。個人で細々と経営しているバーではあるが、従業員一人分の給料を支払えるだけの売り上げはある。もしかすると、新たな仕事を見つけるまでのつなぎで働きたいだけなのかもしれないが、それならそれで良いとも思った。

 キセ氏の言葉に、彼女の顔はぱっと輝いた。

「やったぁ!」

と大人らしからぬ口調ではしゃぎ、ありがとうございます、と何度も口にする。その様子を笑顔で見守っていたキセ氏は、しばらくして、

「ただし」

と咳払いをした。

 「雇ってもいいけど、守って欲しいことがある」

真面目ぶった口調で言うと、彼女も背筋を伸ばし、雇用成立の宣言にほっと緩んだ顔を引き締めてキセ氏を見る。

 厳かに、キセ氏は彼女の目を見ながら言った。

「一つ、良きバーテンダーたるべく、努力すること。二つ、良き手品師たるべく、努力すること。以上」

「……それだけ?」

バーの主は重々しく頷く。なあんだ、と拍子抜けして、彼女は姿勢を崩した。

「そんなの分かってますよ。ここ、マジックバーなんでしょう?お酒が作れて、マジックができなきゃいけないって事くらい、私だって知ってます」

子供のように口を尖らす彼女に、キセ氏は穏やかに言う。

「そうは言ってもね、この二つは基本だからね」

「はぁーい」

ふてくされたように言ったが、次の瞬間に彼女の口には抑えきれない笑みが浮かんでいた。

 給料や待遇等について簡単に話を決め、互いの承諾が取れたところで、キセ氏は彼女にカクテルのお代わりを、自分にウイスキーの水割りを作った。

「じゃあ、これからよろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

『乾杯』

最初の一口を、二人してぐっとあおる。乾杯でいきなりグラスの4分の1を飲み干し、彼女は猫のように目を細めて満足げに息をついた。

 「でも、叔父さん」

「うん?」

カラカラとグラスを揺らしながら、彼女はカウンター越しにキセ氏に問う。

「良きバーテンダーっていうのは何となく想像つきますけど、良き手品師って、どういうこと?」

「そうだなぁ、色々あるけれど……」

キセ氏はしばし空を見つめ、合点したように頷くと柔らかな眼差しを彼女に向けた。

「相手を気持ちよく騙す、ということかな」

 沈黙が訪れた。

 だが、それもほんの一瞬のことで、すぐに彼女の朗らかな笑い声が静かなバーに華やかに響いた。

 キセ氏は幾度も頷きながら、穏やかに微笑んでいた。


 こうしてメイコさんはこの小さなバーで働くことになったのだった。


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