第9話 面談
会議室の扉が閉まった瞬間、空気の質が変わった。
机が二つ、向かい合う。
校長、学年主任、小林。
そして相手側――高橋家と斎藤家。
高橋は鼻に白いテープを貼って座っている。
高橋の母親は背筋を張り、父親は腕を組んだまま動かない。
斎藤颯太の頬にはまだ薄い痣が残り、母親の手は膝の上で落ち着きなく動いている。
圭介の隣に母――早苗。
早苗は正面を見ている。けれど、圭介の呼吸の方も見ている目だった。
校長が始めた。
「本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。本件は暴力行為として重大です。まず、宮坂さんから――」
早苗が頭を下げた。
「宮坂圭介の母です。このたびは息子が怪我をさせてしまい、申し訳ございませんでした。治療費等、必要な費用は責任を持って対応します」
高橋の母親が食い気味に言った。
「責任って何ですか。鼻ですよ? 顔ですよ? 元に戻る保証は?」
高橋の父親が続ける。
「警察も視野に入れてます。これは」
校長が慌てて咳払いをする。
学年主任が“落ち着いて”と言いかける。
早苗は頷いた。
「当然のご判断だと思います。逃げません。まずは治療が優先です。費用の件は具体的にお話しさせてください」
“払う”の話を先に終わらせる。
それで、この場の矛先が次へ移る。
斎藤の母親が震える声で言った。
「うちの子も、いきなり殴られて……。颯太、怖かったって。学校に行けないって言ったんです」
颯太が机の端を見つめたまま言う。
「俺、別に……何もしてねーし」
校長が圭介を見る。
「宮坂くん。本人からも謝罪を」
圭介は頷いた。
座ったまま、言葉だけを出す。
「……怪我をさせてしまって、すみませんでした。怖い思いをさせてしまって、すみません。二度としません」
声は平坦だった。
その平坦さに、高橋の母親が顔を歪める。
「反省してるように見えない」
圭介はその言葉を受け取る。
反論は湧かない。恥も湧かない。
ただ、必要な言葉を足す判断が働く。
「反省は、してます」
高橋の父親が鼻で笑う。
「その顔で?」
その瞬間、早苗が口を開きかけた。
でも圭介が、先に言った。
「……じゃあ、話します」
会議室の空気が止まる。
学年主任が慌てて言う。
「宮坂くん、原因の確認は学校で――」
圭介は学年主任を見た。
言葉は丁寧だった。
「確認、もう済んでます。自分の中では」
それは挑発じゃない。
ただの事実の言い方だった。
圭介は机の上にスマホを置いた。
画面は伏せたまま。
「殴ったのは俺です。悪いです。処分も受けます。……でも、殴る前に毎日、俺は殴られてました。言葉で」
高橋の母親が眉を上げる。
「言葉?」
圭介は頷く。
「『肉』『豚』『画面が油で曇る』。体育のときは『地響き』。弁当は『餌』。――毎日です」
淡々と列挙する。
感情が乗っていないから、逆に生々しい。
颯太が小さく舌打ちした。
「……盛ってんじゃねーの」
圭介は颯太を見た。
怒りはない。責める目でもない。
「盛ってない」
そして、スマホの画面を上に向けた。
録画の再生ボタンが見える。
「昨日のホームルーム。殴る前のところ。……音だけです」
校長が目を見開く。
「録音――」
早苗が低い声で言った。
「校長先生。本人が“身を守るために残した”ものです。違法かどうかの議論より、まず中身を聞いてください」
校長は黙った。
学年主任が固まる。小林の顔色が変わる。
圭介が再生を押す。
――教室のざわめき。
――誰かの笑い声。
――「今日も油すげーな」
――「肉まん、席についた?」
――「地響きでチャイム鳴った?」
――薄い笑いが広がる。
――小林の声。「はいはい、静かにー」
止めるでも叱るでもない、流す声。
音声は短い。三十秒もない。
でも会議室の空気を十分に変えた。
高橋の母親の顔が固まる。
「……うちの子の声、じゃないわよね?」
圭介は言った。
「高橋です」
高橋が椅子の背にもたれたまま、視線を落とす。
鼻のテープの下で、口元が震えている。
颯太が小さく言った。
「……冗談だろ」
圭介は「冗談」という単語を拾わない。
拾うと論点が逃げるからだ。
「俺は、ずっと言えませんでした。日常を壊したくなかった。母さんが忙しかったから。悠斗がいるから。……心配かけたくなかったから」
早苗の指先が、膝の上で一瞬だけ強く握られた。
圭介の言葉が、母の胸に刺さったのが分かった。
圭介は続けた。
「だから昨日も、殴るのが正しいとは思ってない。でも、昨日は――怖くなかった。怖くないなら、止める理由がなかった」
高橋の父親が机を叩いた。
「だからって鼻折っていいのか!」
圭介は頷いた。
「よくないです。だから謝ってます。だから二度としません。……でも、これを“冗談”で終わらせるなら、俺はまた同じことをします」
早苗が息を呑む。
校長が顔色を変える。
圭介は言い直した。
今のはダメなことを思い出す。
今の自分なら多分出来てしまうけれど、自分の線を引くために。
「違う。……俺は、殴りません。二度と。だから代わりに、学校がいじめを止めてください。止めるのは、先生の仕事だと思います」
小林が顔を上げた。
目が揺れている。
「……すまなかった。宮坂。昨日も、ずっと……」
小林の声が途切れる。
校長が深く息を吸った。
「分かりました。学校として――教室内の行為についても、正式に調査し、指導し、記録を残します。いじめに該当するかどうかも含めて、です」
高橋の母親が、やっと言葉を探して言った。
「……でも、怪我は怪我です」
早苗が頷く。
「はい。そこは責任を取ります。治療費も、必要なら診断書の内容に沿って。……ただ、お願いです。今日ここで“暴力だけ”にして終わらせないでください」
斎藤の母親が颯太を見た。
「颯太。あなた……」
颯太は小さく言った。
「……俺、そんなつもりじゃ……」
圭介はそこに勝利感を感じなかった。
勝った、という感情は湧かない。
ただ、空気が変わったのが分かった。
会議室の最後に、校長が言った。
「宮坂くん。謝罪を、もう一度。相手に向けて」
圭介は高橋を見る。颯太を見る。
言葉を選んで、言う。
「怪我をさせて、すみません。怖い思いをさせて、すみません。二度としません」
そして、付け足した。
「……俺も、終わりにしたい。これを」
その言葉は、感情じゃなく、意思だった。
会議室の扉が開く。
廊下の音が戻る。
圭介は立ち上がり、母と並んで歩いた。
母はまっすぐ前を見ている。
でも、横顔の緊張が少しだけ解けていた。
圭介は思った。
母だけに戦わせたくなかった。
今日は、同じ場所に立てた。
その確信だけが、胸の静けさの奥に残っていた。




