第8話 面談の前に
家の中は静かだった。
静かすぎて、時計の秒針の音がやけにくっきり聞こえる。
ノートを眺める。
言い回しの候補と、謝るべき点の整理。
文章というより、部品だ。
部品は揃っている。
あとは提出用に一枚へまとめるだけだった。
――何をしたか。
――なぜ悪いか。
――二度としない。
――迷惑をかけたことを詫びる。
感情は薄い。
それでも善悪の線は引ける。
線が引けるなら、守れるものがある。
圭介は原稿用紙を出し、清書を始めた。
文字を丁寧に書く。丁寧に書くことは、相手のためというより、母のためだった。
母に余計な負担を背負わせないため。
書き終えると、紙が一枚だけ机の上に残った。
提出するのはたった一枚。
なのに、背後にある時間は厚い。
昼前、母からメッセージが来た。
《面談は明日の夕方。私は早退して行く。圭介も同席。相手方はまだ未定》
圭介は短く返した。
《わかった》
すぐ既読がつく。
母の速度だと思った。
昼になっても腹は鳴らなかった。
空腹というより、食べる意味が遠い。
圭介は冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを一本出した。
コップに注ぐ。
水の音が、家の中では大きい。
一口飲む。冷たい。
冷たいのに、身体の中に落ちていく感じが薄い。
それでも飲む。飲まないといけない気がした。
午後は洗い物をして、洗濯物を取り込んで、部屋を整えた。
やることがあると、世界は少しだけ静かになる。
ドアの鍵が回る音がして、圭介は顔を上げた。
母が帰ってきたのは、夕方より少し早い時間だった。
コートを脱ぐ動きがいつもより遅い。
疲れているのは分かるのに、ため息はつかない。
「ただいま」
「おかえり」
母は靴を揃え、すぐにバッグから封筒を出した。
紙が数枚。自宅待機の説明、謝罪文の提出方法、面談日程、聞き取りの実施について。
母はソファに座らず、キッチンの椅子に腰をかけた。
話す場所を決めるのが早い。
「学校、寄ってきた」
圭介は頷いた。
母は紙を一枚ずつ並べて、要点だけを言う。
「聞き取り、始まってる。今日からクラス全員に、個別で時間を取るって」
「個別」
圭介が繰り返すと、母は頷いた。
「全員が“関係者”だから。……ちゃんと全員に聞くって」
母の視線が何度か圭介の顔に戻る。
確かめるみたいに。
でも、決めつける言葉は言わない。
「それと、SNSのこと。学校も把握してる。完全には止められないって、はっきり言ってた」
圭介は頷いた。
無理だという現実は理解しやすい。
母は一拍置いて言った。
「面談は明日の夕方。あなたも同席。私は最初に謝罪する。そのあと、あなたからも一言。短くていい」
圭介は「うん」と言った。
「相手は来るの」
「まだ分からない。高橋くんは病院。斎藤くんは登校してるらしいけど、親がどうするか」
来ても来なくても、やることは変わらない。
圭介はそのまま頷いた。
その時、玄関が開く音がした。
「ただいま」
悠斗が帰ってきた。
靴を乱さない。ドアも強く閉めない。
今日は機嫌が悪いのに、家を荒らさないようにしているのが分かった。
悠斗はリビングに入ってきて、すぐに言った。
「……母ちゃん。今日、中学で言われた」
母の視線が悠斗へ移る。
それから圭介へ戻る。
家の空気が少しだけ固くなる。
「悠斗、座って。話して」
悠斗は椅子に座る。
普段なら「だりー」とか言うのに、今日は言わない。
「同じクラスのやつがさ……スマホ見せてきて。『兄貴、高校で鼻折ったんだろ』って」
悠斗の声が少しだけ震えた。
怒りなのか、恥ずかしさなのか、どっちかに寄せきれない震え。
「俺、『適当言うな』って言った。……そしたら『だって噂広がってるし』って」
噂が情報みたいな顔をする言い方。
母はすぐに反応しない。
まず、悠斗の顔を見て、続きを待つ。
悠斗が唇を噛んでから言った。
「……笑われた」
その一語が一番痛いのだと分かった。
背伸びしたい年頃にとって、笑われるのは、立ってる場所ごと崩される。
圭介は悠斗を見た。
胸は静かだ。
でも、悠斗が傷ついたことだけは分かる。
圭介は言葉を選ぶ。
弟に余計な荷物を背負わせない言葉を選ぶ。
「悠斗。ごめんな……無理だと思うけど、気にするな。僕は気にしない」
悠斗が圭介を見る。
「それで終わりなのか?」という目だった。
圭介は続ける。
「笑われても、やることは変わらない。……ただ、否定したのは正しい」
悠斗の肩が少しだけ落ちた。
怒りの行き場がなくなって、代わりに落ち着く。
母が言った。
「悠斗、しばらくは余計な話題に乗らない。スマホを見せられても、相手にしない。困ったら、私に言って」
悠斗は「うん」と頷いた。
反抗期の“うん”じゃなく、従う“うん”だった。
母はそのまま、圭介に向き直った。
「圭介。明日の面談、怖い?」
圭介はすぐに答えた。
「……怖くない」
母の視線が圭介の顔にしばらく留まった。
表情の動き方を確かめるみたいに。
「分かった。じゃあ、怖くなくても、準備はしよう」
母は紙を一枚取り出し、ペンを置いた。
「あなたが言うこと、短く決める。相手に向ける言葉と、学校に向ける言葉。二つ」
圭介は頷いた。
悠斗が小さく言った。
「……兄貴。俺も、なんかできる?」
圭介は少しだけ悠斗を見て、首を横に振りかけて、やめた。
否定すると、悠斗の居場所がなくなる。
代わりに言う。
「できる。……晩ごはん、手伝え」
悠斗が一瞬きょとんとして、すぐに顔をしかめる。
「え、今それ?」
「今それ」
母がほんの少しだけ口元をゆるめた。
笑いは短い。長引かせない。
悠斗は渋々立ち上がり、エプロンを取った。
「……はいはい。兄貴、何やりゃいい」
圭介は包丁を出しながら言った。
「玉ねぎ、剥け」
「だる」
文句を言いながら、悠斗は皮を剥く。
不器用で、遅い。
でも、やる。
圭介はそれを見ながら思った。
怖くないのは武器だ。
でも武器だけで立っていると、家が壊れる。
だから、日常をこなす。
玉ねぎを剥く。
面談の前に、まずは食事だ。
圭介は鍋に火をつけた。




