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第7話 名前のない噂

翌朝、圭介はいつも通りの時間に目が覚めた。


眠気が薄い。

布団の温度が身体にまとわりつかない。

快適というより、現象としてそうだった。


台所へ行き、冷蔵庫を開ける。

卵と納豆を出した。

朝食をきちんと作るほどの気分でもないのに、手が勝手に動く。

いつもの癖が、圭介を動かす。


卵を焼いていると、リビングから足音がして、弟――悠斗が顔を出した。

寝癖のまま、目をこすっている。


「……おはよ」


「おはよう」


悠斗はテーブルの上の皿を見つけた瞬間、少し目が覚める。


「え、卵焼きあるじゃん」


「ある」


悠斗は椅子に座り、箸を取った。

昨夜の空気を覚えているのか、いつもより口数が少ない。


一口食べてから、悠斗がぽつりと言った。


「……兄貴、今日、学校行かないの?」


圭介は「行かない」と答えた。

言い方を柔らかくする。


「今日は家にいろって言われた」


悠斗は頷いた。

何か言いたそうで、でも言い方が分からない顔をする。


「……あいつら、まだなんか言ってんの?」


“あいつら”が誰か、説明はいらなかった。


圭介は首を横に振った。


「知らない」


知ろうとしていないだけだ。

でも、嘘ではない。


悠斗が箸を止める。


「……知ったほうが、よくね?」


圭介は悠斗を見る。

背伸びしてるのに、視線だけはまっすぐだった。兄の隣に立とうとしている顔。


「必要になったら知る」


悠斗は「そっか」と言って、残りの卵を口に運んだ。

それ以上は聞かない。聞いたら兄を弱くする気がしたのかもしれない。


その時、母からメッセージが来た。


《おはよう。学校から連絡が入った。内容は後で伝える。今日はゆっくり休んで》


圭介は短く返す。


《わかった》


すぐ既読がつく。

母は仕事中でも、必要な速度だけは落とさない。


悠斗が出ていく支度をしていると、母から電話がかかってきた。

圭介はキッチンの端で受けた。悠斗に聞こえない距離。


「圭介。さっき、学年主任から電話があった」


母の声は落ち着いている。

整っているから、状況が良くなったように錯覚しそうになる。


「今日から三日間、自宅待機。謝罪文。保護者面談。相手方との面談は相手の体調と希望次第。……それが正式な流れ」


圭介は頷いた。

受けるべきものは受ける。そういう理解はある。


母が続ける。


「それと、クラス内の聞き取りは今日から始めるって。教室の空気も含めて確認するって言ってた」


「……そう」


「私は今日、仕事の帰りに学校に寄って書類を受け取る。あなたは家にいて。外には出ないで」


圭介は「わかった」と言った。


電話を切ると、悠斗が玄関の方で靴を履いていた。

制服のボタンを留めながら、ちらっとこちらを見た。


「母さん、なんか言ってた?」


圭介は一拍置いた。

余計に心配させたくない。けれど、嘘は薄くする。


「今日は家にいろって。母さんは後で学校行くらしい」


悠斗は「ふーん」と言い、玄関のドアノブに手をかけた。

一度だけ振り返って、ぼそっと言う。


「……兄貴、変なことすんなよ」


圭介は頷いた。


「しない」


悠斗が出ていくと、家の中に音がなくなる。

冷蔵庫の低い唸りだけが残る。


圭介はテーブルに置いたスマホを見た。

見ない方がいいと分かっているのに、指が勝手に動く。


クラスのグループは静かだった。

静かすぎて、逆に気持ちが悪い。


代わりに、別の場所が騒がしい。


誰かの“裏垢”のストーリーのスクショ。

短い動画――暴力の瞬間じゃない。廊下の先、教師に連れられていく背中。ざわつく声。

保健室前の床。救急車のサイレンだけが入った数秒の音声。

「鼻やばいらしい」

「止めた?」

「先生笑ってたってマジ?」

断片が、勝手に繋がっていく。


圭介は画面を眺めた。


怒りは湧かない。

恥ずかしさも薄い。

ただ、情報として入る。


(名前がない)


そこにいるのは“宮坂圭介”じゃない。

切り取られた誰か――“デブ”“キレたやつ”“やばい案件”。

だから、みんな簡単に言える。


圭介はスマホを伏せた。

見続ける理由がない。

見続けても、家の手順は回らない。


圭介は台所へ戻り、洗い物を始めた。

水が指先を通る。

冷たさの種類が同じで、境界が薄い。


洗い物を終えると、机にノートを出した。

謝罪文、と書かれた紙が頭に浮かぶ。


“謝る”は、感情ではなく行為だ。

何が悪かったか。何を繰り返さないか。どう責任を取るか。

構造として書ける。


書けるのに、手が止まった。


謝罪文は相手に向けるものだ。

同時に、自分を固定する文章でもある。


圭介はその事実を理解した。

理解して、ペンを取った。


(母に迷惑をかけないために)


その理由はまだ残っている。

残っているものがある限り、圭介は動ける。


書き始めてすぐ、また母からメッセージが来た。


《SNSは見なくていい。必要なことは私が確認する。あなたは“事実”だけで動こう》


圭介は短く返した。


《わかった》


嘘ではない。

でも、見てしまった事実だけが胸に残る。胸は静かなまま。


窓の外で、どこかの子どもが笑っている声がした。

世界は、何も変わっていない。


圭介は紙に自分の名前を書いた。

一度だけ、筆圧が強くなる。

それでも感情は盛り上がらない。


(噂は勝手に回る)


圭介は、次の行に続けた。


(でも、俺は勝手に壊れない)


怖くない。

怖くないことが、今は武器になる。


圭介は書き続けた。

自分の名前を、紙の上に何度も書きながら。

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