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第6話 湯気のない台所

家に着いたのは、夕方というより、まだ昼の匂いが残る時間だった。


学校を出たのが遅くなった。

応接室、書類、今後の面談の段取り。

誰かが「今日中に」と言うたびに、時間が細く切られていった。


母は駅までの道で何度かスマホを見ていたが、歩く速度は変えなかった。

焦っているのに、焦って見せない歩き方だった。


玄関の鍵を開けると、リビングから弟の声が飛んできた。


「お、帰ってきた。あれ?二人一緒?」


弟は制服のままソファに転がっていて、起き上がるとこっちに来た。


「母ちゃんと一緒とか珍しいね。ってか、早くね?帰ってくるの」


「まぁね」


「ふーん」と流しつつ、こちらを見る弟。


「……兄貴。今日さ、ハンバーグ?」


“兄貴”の言い方がまだ固い。

“兄ちゃん”の方が口に馴染んでいるはずなのに、敢えてそっちを選んでいる感じがする。

圭介はその努力が妙に可笑しくて、口元が少しだけゆるんだ。


「なんでハンバーグ」


「昨日の残り、あったろ。あれ食いたい」


弟の視線が台所へ向く。

この家の晩ごはんは、たいてい圭介が作る。母の帰りが遅い日が多いからだ。

得意というより、家の手順になっていた。


母が靴を脱ぎながら言った。


「圭介、今日は……無理しなくていいよ」


“無理”が何を指しているのか、分からない。料理のことかもしれないし、全部のことかもしれない。

圭介は少しだけ考えてから、いつも通りの答えを選んだ。


「……作るよ。いつも通りでいい」


母は頷いた。言い返さない。

それだけで場が落ち着く。


台所に立つ。


冷蔵庫を開ける。冷気が顔に当たる。

自分の皮膚がいつもより冷たいのが分かる。

冷蔵庫の冷たさと同じ種類に感じて、境界が薄くなる。


ハンバーグの残り。玉ねぎ。卵。

味噌汁の豆腐。わかめ。

献立は勝手に決まる。材料がいつも通りだから、手順もいつも通りになる。


包丁を握る。

柄が滑らない。いつもなら手の熱で少し湿るのに、今日は乾いたままだ。


(……変だな)


変だと思う感情はある。

でも、そこに“怖さ”は付いてこない。


玉ねぎを切る。

刺激は来るのに、目が痛くならない。涙も出ない。

泣けないことと、同じ場所が鈍っている気がした。


フライパンに火をつける。

じゅっと油が温まる音。湯気が上がる。

湯気はあるのに、温かさが満ちない。


背中に気配がして振り返ると、母が台所の入口に立っていた。

スーツのまま、コートは椅子に掛けたらしい。髪が少しだけ乱れている。


「……手伝おうか」


母はそう言って、皿を出し始めた。

言葉より先に家の手順を動かす。そういう癖がある。


「大丈夫」


圭介がそう言うと、母は頷いて味噌汁の準備を始めた。

鍋を置く音、水を出す音、菜箸の音。

音が増えると、家が戻ってくる感じがした。


しばらくして母が言った。


「……教室のこと。もう少し聞いてもいい?」


圭介はハンバーグを温め直しながら、事実を並べた。


「……毎日。容姿のこと。弁当のこと。体育のこと」


「誰が言ってたの」


「高橋。……斎藤。あと、周り」


“周り”という言葉が曖昧なのは分かる。

でもそれが一番正しい。空気がやる。人がやる。


母は手を止めずに聞く。


「SNSは?」


圭介の指が一瞬止まった。怖いからではない。言い方を選んでいる。


「……写真。勝手に撮られて。からかう言葉。グループでも」


母の呼吸が少しだけ重くなった。

声は荒くならない。代わりに次の確認が来る。


「先生は、止めてた?」


「……止め方が弱い。笑ってるみたいな顔」


母が鍋の蓋を置く音が、少しだけ大きくなる。

怒っているのだと思う。けれど、その怒りをそのまま投げない。


「そう」


短く受けて、母は鍋に火をつけた。火の音が増える。


圭介はフライ返しでハンバーグを裏返す。

焼けた面が見える。

“うまそう”は薄い。

でも家族が食べる映像は浮かぶ。そっちは残っている。


母が言った。


「……圭介。今日のこと。殴ったこと……後悔してる?」


圭介はすぐに答えなかった。

後悔という感情は薄い。

でも、母が傷つく言い方をしたくない、という判断はまだ働く。


圭介は鍋の火を見てから、言った。


「……殴ったこと自体は、後悔してない」


母の動きが一瞬止まった。

止まったのが分かって、圭介は続ける。言葉を選ぶ。


「でも、悪いことをした自覚はある。怪我させた。……だから、もう二度とやらない」


母の肩がほんの少しだけ下がった。

安堵というより、ようやく掴めるものが出てきた感じ。


圭介はもう一つ、言うべきことを言った。


「……母さんに迷惑かけたことは、後悔してる」


胸が静かでも、そこだけは重かった。


母はしばらく黙って、味噌汁をかき混ぜる。

湯気が上がる。母の指先は温かそうだった。


「……そう言ってくれて、よかった」


母はそう言った。叱らない。

叱らない代わりに、現実の線を引く。


「圭介。あなたが何を感じてようと、暴力はダメ。二度としないって言ったなら、私もそこを信じる」


圭介は頷いた。

信じる、という言葉が、静けさの底に落ちる。


弟が台所に顔を出した。


「できた? 兄貴」


「もう少し」


圭介が言うと、弟はわざとらしく腕を組んだ。


「……よし。今日はハンバーグな」


その“兄貴ムーブ”が可笑しくて、圭介は皿を並べながら少しだけ息を漏らした。


不意に母が言った。


「手、冷たいね」


圭介は一瞬だけ止まった。

母の指が、さっき自分の手首に触れた感触を思い出す。

気づいている。気づいているけれど、決めつけない目だ。


圭介は、言葉を選んだ。


本当のことを言えば、母の顔は変わる。

弟の空気も変わる。

この家が壊れるかもしれない。


それが嫌だった。

これ以上、家族を心配させたくなかった。


「……ちょっと風邪気味かも」


母は圭介の顔を見て、頷いた。


「熱は?」


「ない」


「ちゃんと寝な。今日は」


圭介も頷く。

“ちゃんと寝る”という言葉が、どこか遠いのに、返事だけは自然にできた。


母はそれ以上聞かない。

多分、違和感は感じているだろう。でも、まさか死んでいるだなんて想像もつかないはずだ。


テーブルに皿が並ぶ。

ハンバーグの湯気。味噌汁の匂い。

家の匂い。


「いただきます」


母が言い、弟が続く。圭介も言う。


ハンバーグの味は分かる。

塩気も、肉の甘さも、ソースの酸味も。

でも“うまい”が薄い。

薄いのに、食べる。家族が食べるから。


母が箸を置いて、圭介を見た。


「明日からのことは、一緒に決めよう。学校のことも。……あなたのことも。一人で抱えなくていい」


圭介は頷いた。


その沈黙を、弟が不思議そうに見回した。

テレビの音だけが妙に浮いている。


「え? 何かあったの?」


弟の声は、探るというより、心配の形だった。


母が弟の方へ視線を移し、短く息を吸う。

言うか、言わないかの間。


「うん……圭介も、いいね?」


母は圭介に確認するみたいに言った。

圭介は少しだけ迷って、それでも頷いた。


「うん」


弟の箸が止まる。

でも、弟は大げさに騒がなかった。

顔だけが少し硬くなる。背伸びの“兄貴呼び”じゃなく、素の中学生の顔。


母は簡単に、事実だけを言った。


「学校で、ちょっとあってね。圭介が……嫌なことをされてた。今日それが表に出た」


弟は圭介を見た。

いつもの圭介と変わらないはずなのに、何かが違うと感じている目だった。


「……兄ちゃん」


弟が小さく呼ぶ。

その呼び方が、かっこつけじゃなくなっている。


圭介は弟を見て、言葉を選んだ。

怖くないのに、傷つけたくない。

その判断だけは残っている。


「心配すんな。……ちゃんと、終わらせる」


弟は一度だけ頷いた。

それ以上、根掘り葉掘り聞かない。聞けない。


母がそっと言う。


「今日はごはん食べよう。話は、また明日でもいい。大丈夫」


弟は「……うん」と言って、ハンバーグを口に運んだ。

噛む音が戻る。


圭介も口に運ぶ。

味は分かる。

でも“うまい”が薄い。

薄いのに、家族と同じ速度で食べられるのは、少しだけ救いだった。


窓の外は、まだ完全には暗くなっていなかった。

今日が長かったせいで、時間の感覚がずれている。


まだ大丈夫。


明日は来る。


そして圭介は、明日が怖くないことだけを、静かに確認していた。

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