第5話 応接室の攻防
早苗は応接室の前で、コートのボタンを指先でなぞった。
無意識の癖だ。呼吸を整えるための癖。
校舎の廊下は乾いていて、どこか冷たい。暖房が効いているはずなのに、足元からじわじわと冷えが上がってくる。
早苗は仕事の現場でも、修羅場の前には必ず同じ感覚になる。空気が薄くなる。言葉が硬くなる。目の前の人の呼吸が見える。
でも今日は、仕事じゃない。
相手は顧客じゃない。
そして何より、話題は“商品”でも“契約”でもなく――圭介の拳だ。
(落ち着け)
早苗は一度だけ息を吐き、「失礼します」と言って扉を開けた。
応接室の空気は、思った以上に固かった。
ソファが二つ。低いテーブル。白い湯飲み。
窓の外の校庭は冬の光で白いのに、ここだけ影が濃い。
向こうのソファに座っているのは二組。
一組は高橋家。
母親は怒りを丁寧な表情で包んでいる。父親は腕を組んで黙っている。本人は病院だと聞いた。
もう一組は斎藤家。
母親は目が赤い。隣に座る少年の頬には湿布が貼られていた。――斎藤颯太。目を合わせない。
学校側は学年主任と小林。
小林は応接室に入った瞬間、さらに顔色が悪くなった。学年主任は背筋が伸びている。早く終わらせたい姿勢が見える。
早苗はソファの前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「本日は大変申し訳ございません。宮坂圭介の母です。怪我をさせてしまったこと、親として心よりお詫び申し上げます」
謝るべきところは先に謝る。
逃げない。逃げないことで、相手の感情の出口を確保する。そうすれば話が進む。これは仕事でも家庭でも同じだ。
高橋の母親が、間髪入れずに言った。
「……申し訳ない、じゃ済まないですよ。うちの子、鼻、折れてるかもしれないって。顔ですよ? 顔!」
高橋の母親の声は、正しい怒りだった。
早苗はそれを否定しない。
「はい。重く受け止めています。治療費等、必要な費用は責任を持って対応します。改めて具体的にご相談させてください」
高橋の父親が低い声で続けた。
「息子に何かあったら、警察も考えてます」
学年主任が咳払いをして挟みかけた。
学校はこういう言葉が出ると、途端に“穏便”の方向へ舵を切りたがる。責任を引き受けたくないからだ。
早苗は、学年主任より先に答えた。
「もちろん、その権利はあります。もし介入が必要な状況になった場合でも、こちらは逃げません。必要な対応をいたします」
淡々と。
脅しに怯えた態度を見せると、場は“勝ち負け”になる。勝ち負けになった瞬間、子どもの未来は踏み潰される。
斎藤の母親が涙声で言う。
「うちの子も……頬、すごく腫れてて……。なんでこんなことに……」
颯太が、口を尖らせるように言った。
「俺、なんもしてねーし。いきなり来て殴られたし。意味わかんねー」
“被害者”の言葉。
そこに乗れば、圭介だけを悪者にして終わらせられる言葉。
学年主任が待ってましたとばかりに言った。
「本件は、まず暴力の事実が重大です。学校としても厳正に――」
早苗は頷いた。
「はい。暴力が重大であることは、その通りです。圭介には処分も受けさせます。謝罪もさせます」
相手側の表情がほんの少し緩む。
“折れた”と感じたのだろう。
(ここからだ)
早苗はその緩みのまま、続けた。
「その上で確認させてください。今日のホームルーム中、圭介に対して“容姿をからかう言葉”があった、という認識はありますか?」
高橋の母親が眉を上げる。
「……え?」
斎藤の母親が困った顔で颯太を見る。颯太が目を逸らす。
学年主任が言いかける。
「その点は、現在調査中で――」
早苗は学年主任を見ない。
ここは学校の都合ではなく、相手の親の“現実”を動かす場だ。
「私は暴力を正当化したいわけではありません。ただ、原因が原因として扱われないと再発します。今日、殴ったのがうちの子で、殴られたのがそちらのお子さんでした。でも次は逆かもしれない。次は、もっと深刻かもしれない」
高橋の父親が鼻で笑った。
「原因? いじめがあったって言うんですか」
早苗は小さく頷く。
「圭介から、先ほど聞きました。ずっと、容姿を理由にからかわれていたと」
高橋の母親の表情が一瞬固まる。
でもすぐに、整った怒りの顔へ戻る。
「……そんなの、誰でもあるでしょ。からかいなんて。うちの子だけ悪者みたいに言うのやめてもらえます?」
早苗は「はい」と言わなかった。
代わりに質問する。
「“誰でもある”というのは、何を指していますか? 日常会話としての軽口ですか? それとも、特定の相手を継続的に笑いものにする行為ですか?」
言い切らせれば、相手は自分の言葉で線を引く。
線を引けば、そこから先の“責任”が生まれる。
高橋の母親が言葉に詰まる。
その沈黙の隙間に、颯太が小さく言った。
「……別に、みんな笑ってたし。先生もさ」
早苗の視線が、颯太へ向く。
責める目ではない。確認する目。
「先生も、というのは……小林先生ですか」
颯太は黙った。
黙るのは肯定に近い。
小林の喉が動く。顔色がさらに悪くなる。
学年主任の口元が引きつる。
早苗は学年主任へ向き直った。
「学校として、教室内での容姿いじりを“冗談”として放置していた可能性があります。私は、それを確認したいです。生徒への聞き取りはいつ、どのように実施しますか?」
学年主任が言葉を選ぶ。
「……本日中に、関係する生徒から順次――」
「“関係する生徒”というのは、どこまでですか?」
早苗はすぐに聞いた。
「教室にいた全員が目撃者です。笑った人、止めた人、止めなかった人。全員が関係者です。私は全員への聞き取りが必要だと思います」
高橋の父親が苛立ったように言う。
「ちょっと待ってくださいよ。話がすり替わってる。うちの子は怪我してるんだ」
早苗は頷く。
「すり替えていません。怪我の対応はします。責任も取ります。その上で、“なぜこうなったか”を扱うのは親として当然です」
高橋の母親が声を荒げた。
「じゃあ、うちの子がいじめっ子だって言いたいの?」
早苗は首を横に振る。
「ラベルを貼りたいのではありません。事実を整理したいだけです。事実が整理できれば、必要な指導と、必要な謝罪と、必要な再発防止ができます」
学年主任が、ようやく学校の言葉を出す。
「宮坂さん。いじめ認定などは慎重に……」
早苗は微笑む。
それは営業の笑顔だ。でも、人を折るための笑顔ではない。
「慎重に、で構いません。ただ、調査しないことだけは避けてください。調査しないなら、私は外部にも相談します。教育委員会でも、法律相談でも。……これは脅しではなく、私の手順です」
“手順”。
それは感情ではなく、ルールだ。学校が一番嫌う種類の言葉でもある。
小林が小さく息を呑む。
学年主任が額に汗をかく。
空気が、学校の都合から、現実の責任へ移った。
斎藤の母親が恐る恐る言った。
「……颯太。あんた、何か言うことないの?」
颯太が目を逸らしたまま、ぼそっと言う。
「……冗談だったし。あいつも、いつも黙ってたし」
早苗はその言葉を、静かに拾った。
「“黙ってた”は、同意ではありません。黙るしかない状況だった可能性があります」
そこで早苗は、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
圭介の顔が浮かぶ。青白い頬。妙に落ち着いた目。抱きしめた時の、冷たい体温。
(気づいていたのに)
早苗は息を吸い直し、続ける。
「……うちの子が黙っていたのは、多分、私たちに心配をかけたくなかったからだと思います」
目尻が熱くなる。
でも声は崩さない。ここで崩すと、話が“情”の戦いになる。
高橋の父親が少しだけ声を落とした。
「……で、うちとしてはどうなるんですか。処分とか、謝罪とか」
学年主任がすぐ頷く。
「本日中に、宮坂くんからの謝罪文、保護者からの謝罪、そして必要なら面談を――」
早苗は頷いた。
「謝罪文も面談も、対応します。治療費も対応します」
そして、すぐ続ける。
「ただし、今日は本人を同席させていません。学校の判断で、まずは保護者同士で整理を、と。私もその判断は理解します。相手のお子さんの体調もありますから」
“本人がいない”ことをここで明確にする。
それで「逃げている」印象を先に潰す。
「その上で、本人の直接の謝罪は、相手方のご希望と体調に合わせて改めて設定してください。校長同席でも構いません。――そして、その面談は“暴力の件”だけで終わらせないでください。教室内の状況についても、同じ場で整理させてください」
学年主任が口を開け、閉じた。
学校は面談を“謝罪の場”にしたい。原因の話は持ち込みたくない。
でも、分けた瞬間に原因は消える。消えた原因は必ず繰り返す。
高橋の母親が口元を引きつらせた。
「……じゃあ、うちの子が悪いってことになるじゃないですか」
早苗は首を横に振った。
「悪い、で片付けません。責任と影響の話にします。誰がどんな言葉を言い、どんな空気ができ、誰が止めず、何が起きたか。そこを整理しましょう」
応接室に沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、早苗はもう一度だけ頭を下げた。
「改めて、怪我をさせてしまったことをお詫びします。……本当に申し訳ありません」
謝罪は、逃げではない。
前へ進むための入り口だ。
学年主任が沈黙を破る。
「……分かりました。学校として、聞き取りを本日から始めます。必要な資料はまとめます。面談の場も改めて調整します」
早苗は頷く。
「ありがとうございます」
その「ありがとうございます」は勝ち誇りじゃない。
次の手順に進めることへの確認だ。
高橋の父親が言った。
「……治療費の件、連絡先、交換しましょう」
早苗は名刺を出した。相手も出す。
高校の応接室で、妙に社会人みたいなやり取りが生まれる。
名刺を受け取った時、早苗は視線だけで小林を見た。
責めない。
でも見逃さない。
小林は小さく頷いた。
それが本当の反省なのか、恐怖なのかはまだ分からない。
応接室を出た廊下で、早苗は一度だけ肩の力を抜いた。
それでもすぐに顔を上げる。
(圭介は、今日までずっと一人でこれをやってたのか)
早苗は会議室へ戻った。
ドアを開けると、圭介が椅子に座っていた。
表情は平らだ。
でも、目だけはどこか遠くを見ている。
早苗は隣に座り、声を落として言った。
「圭介。謝ることは謝った。責任も取る。……でも、原因も学校に扱わせる。ここからは、ちゃんと整理するよ」
圭介は頷いた。
頷き方が、妙に静かだった。静かすぎた。
早苗は圭介の手をそっと握った。
その瞬間、指が止まる。温度差が刺さる。
(冷たい)
でも早苗は顔に出さなかった。
ここで問うべきは体温じゃない。まずは守る順番だ。
握る力を少しだけ強くする。
「帰ろう。今日は」
圭介が立ち上がる。
早苗も立ち上がる。
廊下の窓の外で冬の光が白く揺れている。
早苗はその白さを見ながら、心の中で繰り返した。
(私は、遅れた)
(でも、今からやる)
(明るいまま、逃げずに)
圭介の拳が壊したものを、圭介の未来が壊されない形で片付ける。
それが今日からの早苗の仕事になった。




