第4話 母親
母が学校に来るまでの時間は、思ったより短かった。
職員室のパーテーションで囲まれた応接スペースのようなところのソファーに座らされ、圭介は「待て」と言われた。
叱責も、説教も、まだ来ない。先生たちは動いているだけだ。電話、書類、養護教諭の早足、学年主任の低い声。
現実が慌ただしい。圭介の胸は静かだ。
(心臓が鳴らないのに、時間だけは進む)
それが妙だった。
学年主任が戻ってきて、圭介を別室に移した。会議室のような部屋。壁の時計。誰かのため息。
小林が隣に座るが、圭介と目を合わせない。さっきまでの“先生の顔”ではなく、何かに怯えている人の顔だ。
「……宮坂」
小林がようやく口を開いた。
「お母さん、今向かってる。すぐ来る。……その前に確認する。どうして、あんなことをした」
圭介は少し考えた。
考えた、というより、言葉の順番を並べ直した。
「……怖くなかった」
「それはさっきも聞いた。宮坂、それじゃ説明にならない」
圭介は小林を見た。
小林の眉間の皺。喉が乾いているのが分かる唾の動き。
焦っている。自分の責任が問われるのが怖いのだろう、と圭介は理解した。
「……試したかった」
小林が眉を上げる。
「試すって……人を殴ることを?」
圭介は頷いた。
「逆を」
小林の口が開いて、閉じた。
理解できないものを見る顔だった。
理解できないから、恐れる。
恐れがあるから、責める。
圭介はそれをぼんやりと眺めた。
会議室のドアがノックされた。
「失礼します」
明るい声がした。
圭介の中で、ほんの少しだけ何かが動いた。薄い痛み。薄い罪悪感。
家の明るさの中心が、ここに来る。
ドアが開く。
母が入ってきた。
黒のスーツ。コートを腕に抱え、髪はきっちりまとめている。
なのに表情は、いつもと同じ明るさが残っていた。
笑顔というより、場を整える営業の顔。けれどそれは冷たくない。人を潰す笑顔ではない。
「お世話になっております。宮坂圭介の母です。……まず状況を伺ってもよろしいですか?」
学年主任が立ち上がり、名刺のやり取りをするような動きで頭を下げた。
小林も慌てて立ち、椅子を勧める。
母は座る前に圭介を見た。
「圭介」
名前を呼ばれただけで、圭介は胸の空洞を意識した。
いつもなら、その一言で泣きそうになったかもしれない。
今日は泣けない。泣くための水路が薄い。
母は圭介の顔色を見て、一瞬だけ眉を寄せた。
触れたいのに、ここでは触れられない。そういう手の止まり方をした。
「……大丈夫?」
圭介は頷いた。
大丈夫、という言葉が何を意味するのか、自分でも曖昧だった。
学年主任が説明を始めた。
「本日、ホームルーム中に、宮坂くんがクラスメイト二名に暴力を振るいまして……」
「暴力」
母がその言葉を繰り返した。明るさが一段落ちる。
けれど声は落ち着いている。
「怪我の状況は?」
「一人は鼻骨骨折の疑いで病院へ搬送されました。もう一人は頬部の打撲です。どちらも、保護者へ連絡済みです」
母は「そうですか」と短く言い、次に質問した。
「経緯を教えてください。誰が見ていましたか。記録はありますか?」
営業課長の質問だった。
感情ではなく、事実を拾う質問。
学年主任が少し言葉に詰まった。
「誰が見ていたか」は簡単だ。教室全員が見ている。
でも「経緯」と「記録」は、学校が一番答えたくないところだ。
「……教室内で、突然立ち上がり、相手の席まで行って……」
「突然、ですか?」
母の声は強くない。
でも「突然」という言葉だけをそっとつまむ。
「……はい。小林が止めようとしましたが……」
母が小林を見る。小林は視線を下げる。
「止めようとした、というのは具体的に?」
小林が喉を鳴らした。
「……声をかけました。席に戻るように、と」
母は頷いた。責めない。
責めない代わりに、次の質問へ進む。
「その前に、会話はありましたか? からかい、挑発、言葉のやり取り、そういうものは」
学年主任の目が一瞬泳いだ。
小林が口を開く。
「……ええ、まあ……クラス内の冗談のようなやり取りが……」
「冗談のような、ですね」
母はゆっくり言う。
言葉の輪郭を揃えるみたいに。
「小林先生。冗談のような、というのは“誰が”“誰に”“何を言った”ですか?」
圭介は母の横顔を見た。
怒ってはいない。
でも、逃がさない。
母は圭介のために戦っている。
その事実が、圭介の中で少しだけ重い。
重いのに、涙が出ない。涙の代わりに、喉の奥に冷たいものが溜まる感じだけがある。
学年主任が咳払いをして、言葉を整えた。
「……からかいがあった可能性はあります。ただ、こちらとしてはまず暴力が重大で……」
母は頷いた。
「もちろん、暴力は重大です。怪我をさせたことについては、親として謝罪します。被害に遭われたご家庭にも、こちらからご連絡させてください」
そこで一度、母は頭を下げた。
深く、丁寧に。
謝るべき所は先に謝る。逃げない。
それから顔を上げて続けた。
「その上で確認です。からかいの内容が“容姿”に関するものであった場合、それは指導対象ですよね?」
学年主任が答える。
「……はい。もちろんです」
「では、記録を取りましょう。今日は教室にいた生徒全員が目撃者です。各自から聞き取りをして、事実関係を整理してください。いつから、どの程度、誰が主導し、誰が同調していたか。学校の方針として、いじめ認定をするかどうかを決めるためにも必要です」
母の声は穏やかだ。
なのに、会議室の空気が変わった。
“面倒”が現実になった瞬間の空気。
学年主任は即答しない。
学校は面倒を嫌う。面倒の先に責任があるからだ。
「……その点は、慎重に……」
母は微笑んだ。
笑顔が戻る。けれど温度は変わらない。
「慎重に、で構いません。ただ、“暴力だけ”を切り取って結論にするのは避けてください。原因が原因として扱われないと、次が起きます。次が起きた時、もっと大きい事故になります」
小林が、小さく言った。
「……宮坂くん、最近、何か……家庭で変わったことは……」
母が小林を見る。
「家庭は変わっていません。父はもういませんが、それは数年前です。圭介も弟も、日常は……明るい方だと思っています」
その「明るい」が、圭介には少しだけ刺さった。
刺さるのに、涙が出ない。
泣く代わりに、胸の静けさの底が、わずかに重くなる。
母は圭介を見て、言った。
「圭介。あなた、どうして殴ったの?」
真正面の質問だった。
母は答えを知りたいのではない。圭介に言葉を出させたいのだ。
圭介は口を開き、閉じた。
いじめのことを言えばいい。
容姿いじり、SNS、金、笑い、先生の薄い顔。
全部、言えばいい。
でも、言葉が整列しない。
感情が薄いから、訴えるための熱が足りない。
そして、もうひとつ。
(言ったら、母は笑えなくなる)
その予測だけが鮮明だった。
母が立ち上がりかけた、その時だった。
圭介は、口を開いた。
自分でも驚くほど、声が出た。
「……母さん」
母が振り返る。
明るいままの目が、圭介をまっすぐ捉える。
圭介は言葉を探した。
いつもなら、ここで喉が詰まって涙が出て、何も言えなくなる。
今日は涙が出ない。喉も詰まらない。
ただ、言葉の順番だけを選べる。
「……言えなくて、ごめん」
母の眉が、ほんの少しだけ寄った。
怒りではない。心配の皺。
「何を?」
圭介は一度だけ息を吸った。
「……いじめられてた」
その一言が部屋に落ちた。
落ちたのに、圭介の胸は静かなままだった。
静かなまま、現実だけが進む。
母の表情が、動いた。
笑顔が消えるわけじゃない。
明るさが消えるわけでもない。
ただ、笑いと泣きが同時に浮かぶみたいな、奇妙な表情になった。
「……やっぱり」
声が震えた。
それでも母は、次の言葉を明るい音で繋ごうとした。
「やっぱり、そうだったんだね」
母は椅子を引く音も立てずに立ち上がって、圭介のところへ来た。
迷いなく距離を詰める。
そして、抱きしめた。
温かい。
母の体温が、圭介の冷たさを包む。
その温度差が、はっきりわかる。
圭介は抱きしめ返さなかった。
返せないわけじゃない。
ただ、抱きしめ返したいという衝動が薄い。
けれど、抱きしめられて“嫌じゃない”は確かだった。
母の声が耳元で揺れた。
「……ごめんね。気づけなくて、ごめん」
圭介は首を横に振った。
「……言わなかった。言えなかった」
母が、息を吐く。泣き笑いのまま。
「うん。言えないよね。……だって、圭介はそういう子だもん」
その言い方が優しかった。
自分で自分を責める言い方じゃなくて、圭介の事情を認める言い方だった。
母は圭介の背中を叩かなかった。
ただ、しっかり抱きしめるだけだった。
「圭介。今言ってくれて、ありがとう。ほんとに……ありがとう」
圭介はその言葉を聞いて、初めて“罪悪感”が輪郭を持った気がした。
でも涙は出ない。
涙の代わりに、胸の静けさが少しだけ重くなる。
母は圭介の顔を覗き込んだ。
青白い頬。冷たい皮膚。
母はそれにも気づいたはずなのに、今はそこを追及しない。
「大丈夫。今は、私がやる。あなたは……まず、ちゃんと息して」
圭介は頷いた。
息はしている。心臓は鳴らない。
それでも、母は“生きてる”扱いで抱きしめてくれる。
学年主任が小さく咳払いをした。
会議室の空気が、少しだけ現実に戻る。
「……宮坂さん。先方の保護者の方が来校されました。応接室へご案内しています。……謝罪の場を設けたいと」
母は圭介から離れ、立ち上がった。
目尻が少し濡れている。
それでも声は整っていた。
「分かりました。私が伺います。まずは謝罪を」
母は学年主任へ向き直り、続けた。
「その上で、改めてお願いです。暴力への対応は受けます。必要なら受診もします。ただ、原因の調査と指導も同じ速度で進めてください。容姿いじりが冗談で済まされる環境は、教育現場として正常ではありません」
学年主任は言葉を飲み込んで、頷いた。
反論は難しい。反論してしまえば、学校が何を黙認していたかを自分で言うことになる。
母がドアの前で振り返り、圭介に笑った。
家で見せる笑顔に近い、明るい笑顔。
「圭介。大丈夫。……大丈夫だからね」
“大丈夫”の中身は分からない。
でも母は、その言葉で場を支える人だった。
母が出ていき、会議室が静かになる。
小林がようやく、小さく言った。
「……宮坂。君、最近……体調は……」
圭介は自分の手を見た。
冷たい掌。心臓の音がしない胸。
それを“体調”と呼んでいいのか分からない。
「……悪くない」
圭介はそう答えた。
嘘ではない。本当に悪くないのだ。
ただ、戻れないだけで。
その時、圭介のスマホが震えた。
家のグループチャット。弟から。
《兄貴、今日ハンバーグ?》
絵文字つきで、妙に可愛い。
圭介は画面を見て、ほんの少しだけ口元がゆるんだ。
その“微笑ましさ”も、まだ残っている。
(守りたいものはある)
その事実だけが、圭介をこの椅子に座らせたまま、次へ進ませる気がした。
会議室の外の廊下で、誰かが早足で歩く音がする。
応接室の方から、遠くで母の声が聞こえた。
「本日は大変申し訳ございません。怪我の件、まずは心よりお詫び申し上げます――」
謝る声。
筋を通す声。
明るさを保ったまま、逃げない声。
圭介はその声を聞きながら、静かに思った。
(母は、強い)
そして、胸の静けさの底で、もうひとつの問いが生まれる。
(俺は、何なんだろう)
悩みにはならない。
ただの確認事項として、そこに残る。
時計の秒針が進む。
圭介の心臓は鳴らない。
それでも時間は進む。
そして、次の結果がやってくる。




