表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/14

第4話 母親

母が学校に来るまでの時間は、思ったより短かった。


職員室のパーテーションで囲まれた応接スペースのようなところのソファーに座らされ、圭介は「待て」と言われた。

叱責も、説教も、まだ来ない。先生たちは動いているだけだ。電話、書類、養護教諭の早足、学年主任の低い声。

現実が慌ただしい。圭介の胸は静かだ。


(心臓が鳴らないのに、時間だけは進む)


それが妙だった。


学年主任が戻ってきて、圭介を別室に移した。会議室のような部屋。壁の時計。誰かのため息。

小林が隣に座るが、圭介と目を合わせない。さっきまでの“先生の顔”ではなく、何かに怯えている人の顔だ。


「……宮坂」


小林がようやく口を開いた。


「お母さん、今向かってる。すぐ来る。……その前に確認する。どうして、あんなことをした」


圭介は少し考えた。

考えた、というより、言葉の順番を並べ直した。


「……怖くなかった」


「それはさっきも聞いた。宮坂、それじゃ説明にならない」


圭介は小林を見た。

小林の眉間の皺。喉が乾いているのが分かる唾の動き。

焦っている。自分の責任が問われるのが怖いのだろう、と圭介は理解した。


「……試したかった」


小林が眉を上げる。


「試すって……人を殴ることを?」


圭介は頷いた。


「逆を」


小林の口が開いて、閉じた。

理解できないものを見る顔だった。


理解できないから、恐れる。

恐れがあるから、責める。

圭介はそれをぼんやりと眺めた。


会議室のドアがノックされた。


「失礼します」


明るい声がした。


圭介の中で、ほんの少しだけ何かが動いた。薄い痛み。薄い罪悪感。

家の明るさの中心が、ここに来る。


ドアが開く。


母が入ってきた。


黒のスーツ。コートを腕に抱え、髪はきっちりまとめている。

なのに表情は、いつもと同じ明るさが残っていた。

笑顔というより、場を整える営業の顔。けれどそれは冷たくない。人を潰す笑顔ではない。


「お世話になっております。宮坂圭介の母です。……まず状況を伺ってもよろしいですか?」


学年主任が立ち上がり、名刺のやり取りをするような動きで頭を下げた。

小林も慌てて立ち、椅子を勧める。


母は座る前に圭介を見た。


「圭介」


名前を呼ばれただけで、圭介は胸の空洞を意識した。

いつもなら、その一言で泣きそうになったかもしれない。

今日は泣けない。泣くための水路が薄い。


母は圭介の顔色を見て、一瞬だけ眉を寄せた。

触れたいのに、ここでは触れられない。そういう手の止まり方をした。


「……大丈夫?」


圭介は頷いた。

大丈夫、という言葉が何を意味するのか、自分でも曖昧だった。


学年主任が説明を始めた。


「本日、ホームルーム中に、宮坂くんがクラスメイト二名に暴力を振るいまして……」


「暴力」


母がその言葉を繰り返した。明るさが一段落ちる。

けれど声は落ち着いている。


「怪我の状況は?」


「一人は鼻骨骨折の疑いで病院へ搬送されました。もう一人は頬部の打撲です。どちらも、保護者へ連絡済みです」


母は「そうですか」と短く言い、次に質問した。


「経緯を教えてください。誰が見ていましたか。記録はありますか?」


営業課長の質問だった。

感情ではなく、事実を拾う質問。


学年主任が少し言葉に詰まった。

「誰が見ていたか」は簡単だ。教室全員が見ている。

でも「経緯」と「記録」は、学校が一番答えたくないところだ。


「……教室内で、突然立ち上がり、相手の席まで行って……」


「突然、ですか?」


母の声は強くない。

でも「突然」という言葉だけをそっとつまむ。


「……はい。小林が止めようとしましたが……」


母が小林を見る。小林は視線を下げる。


「止めようとした、というのは具体的に?」


小林が喉を鳴らした。


「……声をかけました。席に戻るように、と」


母は頷いた。責めない。

責めない代わりに、次の質問へ進む。


「その前に、会話はありましたか? からかい、挑発、言葉のやり取り、そういうものは」


学年主任の目が一瞬泳いだ。

小林が口を開く。


「……ええ、まあ……クラス内の冗談のようなやり取りが……」


「冗談のような、ですね」


母はゆっくり言う。

言葉の輪郭を揃えるみたいに。


「小林先生。冗談のような、というのは“誰が”“誰に”“何を言った”ですか?」


圭介は母の横顔を見た。

怒ってはいない。

でも、逃がさない。


母は圭介のために戦っている。

その事実が、圭介の中で少しだけ重い。

重いのに、涙が出ない。涙の代わりに、喉の奥に冷たいものが溜まる感じだけがある。


学年主任が咳払いをして、言葉を整えた。


「……からかいがあった可能性はあります。ただ、こちらとしてはまず暴力が重大で……」


母は頷いた。


「もちろん、暴力は重大です。怪我をさせたことについては、親として謝罪します。被害に遭われたご家庭にも、こちらからご連絡させてください」


そこで一度、母は頭を下げた。

深く、丁寧に。

謝るべき所は先に謝る。逃げない。


それから顔を上げて続けた。


「その上で確認です。からかいの内容が“容姿”に関するものであった場合、それは指導対象ですよね?」


学年主任が答える。


「……はい。もちろんです」


「では、記録を取りましょう。今日は教室にいた生徒全員が目撃者です。各自から聞き取りをして、事実関係を整理してください。いつから、どの程度、誰が主導し、誰が同調していたか。学校の方針として、いじめ認定をするかどうかを決めるためにも必要です」


母の声は穏やかだ。

なのに、会議室の空気が変わった。

“面倒”が現実になった瞬間の空気。


学年主任は即答しない。

学校は面倒を嫌う。面倒の先に責任があるからだ。


「……その点は、慎重に……」


母は微笑んだ。

笑顔が戻る。けれど温度は変わらない。


「慎重に、で構いません。ただ、“暴力だけ”を切り取って結論にするのは避けてください。原因が原因として扱われないと、次が起きます。次が起きた時、もっと大きい事故になります」


小林が、小さく言った。


「……宮坂くん、最近、何か……家庭で変わったことは……」


母が小林を見る。


「家庭は変わっていません。父はもういませんが、それは数年前です。圭介も弟も、日常は……明るい方だと思っています」


その「明るい」が、圭介には少しだけ刺さった。

刺さるのに、涙が出ない。

泣く代わりに、胸の静けさの底が、わずかに重くなる。


母は圭介を見て、言った。


「圭介。あなた、どうして殴ったの?」


真正面の質問だった。

母は答えを知りたいのではない。圭介に言葉を出させたいのだ。


圭介は口を開き、閉じた。

いじめのことを言えばいい。

容姿いじり、SNS、金、笑い、先生の薄い顔。

全部、言えばいい。


でも、言葉が整列しない。

感情が薄いから、訴えるための熱が足りない。

そして、もうひとつ。


(言ったら、母は笑えなくなる)


その予測だけが鮮明だった。


母が立ち上がりかけた、その時だった。


圭介は、口を開いた。

自分でも驚くほど、声が出た。


「……母さん」


母が振り返る。

明るいままの目が、圭介をまっすぐ捉える。


圭介は言葉を探した。

いつもなら、ここで喉が詰まって涙が出て、何も言えなくなる。

今日は涙が出ない。喉も詰まらない。

ただ、言葉の順番だけを選べる。


「……言えなくて、ごめん」


母の眉が、ほんの少しだけ寄った。

怒りではない。心配の皺。


「何を?」


圭介は一度だけ息を吸った。


「……いじめられてた」


その一言が部屋に落ちた。

落ちたのに、圭介の胸は静かなままだった。

静かなまま、現実だけが進む。


母の表情が、動いた。


笑顔が消えるわけじゃない。

明るさが消えるわけでもない。

ただ、笑いと泣きが同時に浮かぶみたいな、奇妙な表情になった。


「……やっぱり」


声が震えた。

それでも母は、次の言葉を明るい音で繋ごうとした。


「やっぱり、そうだったんだね」


母は椅子を引く音も立てずに立ち上がって、圭介のところへ来た。

迷いなく距離を詰める。

そして、抱きしめた。


温かい。

母の体温が、圭介の冷たさを包む。

その温度差が、はっきりわかる。


圭介は抱きしめ返さなかった。

返せないわけじゃない。

ただ、抱きしめ返したいという衝動が薄い。

けれど、抱きしめられて“嫌じゃない”は確かだった。


母の声が耳元で揺れた。


「……ごめんね。気づけなくて、ごめん」


圭介は首を横に振った。


「……言わなかった。言えなかった」


母が、息を吐く。泣き笑いのまま。


「うん。言えないよね。……だって、圭介はそういう子だもん」


その言い方が優しかった。

自分で自分を責める言い方じゃなくて、圭介の事情を認める言い方だった。


母は圭介の背中を叩かなかった。

ただ、しっかり抱きしめるだけだった。


「圭介。今言ってくれて、ありがとう。ほんとに……ありがとう」


圭介はその言葉を聞いて、初めて“罪悪感”が輪郭を持った気がした。

でも涙は出ない。

涙の代わりに、胸の静けさが少しだけ重くなる。


母は圭介の顔を覗き込んだ。

青白い頬。冷たい皮膚。

母はそれにも気づいたはずなのに、今はそこを追及しない。


「大丈夫。今は、私がやる。あなたは……まず、ちゃんと息して」


圭介は頷いた。

息はしている。心臓は鳴らない。

それでも、母は“生きてる”扱いで抱きしめてくれる。


学年主任が小さく咳払いをした。

会議室の空気が、少しだけ現実に戻る。


「……宮坂さん。先方の保護者の方が来校されました。応接室へご案内しています。……謝罪の場を設けたいと」


母は圭介から離れ、立ち上がった。

目尻が少し濡れている。

それでも声は整っていた。


「分かりました。私が伺います。まずは謝罪を」


母は学年主任へ向き直り、続けた。


「その上で、改めてお願いです。暴力への対応は受けます。必要なら受診もします。ただ、原因の調査と指導も同じ速度で進めてください。容姿いじりが冗談で済まされる環境は、教育現場として正常ではありません」


学年主任は言葉を飲み込んで、頷いた。

反論は難しい。反論してしまえば、学校が何を黙認していたかを自分で言うことになる。


母がドアの前で振り返り、圭介に笑った。

家で見せる笑顔に近い、明るい笑顔。


「圭介。大丈夫。……大丈夫だからね」


“大丈夫”の中身は分からない。

でも母は、その言葉で場を支える人だった。


母が出ていき、会議室が静かになる。


小林がようやく、小さく言った。


「……宮坂。君、最近……体調は……」


圭介は自分の手を見た。

冷たい掌。心臓の音がしない胸。

それを“体調”と呼んでいいのか分からない。


「……悪くない」


圭介はそう答えた。

嘘ではない。本当に悪くないのだ。

ただ、戻れないだけで。


その時、圭介のスマホが震えた。

家のグループチャット。弟から。


《兄貴、今日ハンバーグ?》

絵文字つきで、妙に可愛い。


圭介は画面を見て、ほんの少しだけ口元がゆるんだ。

その“微笑ましさ”も、まだ残っている。


(守りたいものはある)


その事実だけが、圭介をこの椅子に座らせたまま、次へ進ませる気がした。


会議室の外の廊下で、誰かが早足で歩く音がする。

応接室の方から、遠くで母の声が聞こえた。


「本日は大変申し訳ございません。怪我の件、まずは心よりお詫び申し上げます――」


謝る声。

筋を通す声。

明るさを保ったまま、逃げない声。


圭介はその声を聞きながら、静かに思った。


(母は、強い)


そして、胸の静けさの底で、もうひとつの問いが生まれる。


(俺は、何なんだろう)


悩みにはならない。

ただの確認事項として、そこに残る。


時計の秒針が進む。

圭介の心臓は鳴らない。

それでも時間は進む。


そして、次の結果がやってくる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ