第3話 加減
圭介が立ち上がると、教室の空気が一瞬だけ薄くなった。
薄ら笑いは止まらない。止まりはしない。
ただ、笑いの輪郭が揺れた。
「いつも通り」に小さな亀裂が入る。
高橋が圭介を見上げた。
「……ん? なに宮坂。立ってどうした。発表?」
言い方が軽い。いつもの軽さ。
空気を元に戻すための軽さ。
圭介は返事をしなかった。
返事をしても意味がない。そういう確信があった。
(歩いてみよう)
ただ、それだけだった。
圭介は一歩踏み出した。
窓際の最後列から、中央列の真ん中へ向かう距離。
いつもなら視線が刺さって足が重くなる距離。今日はただの距離だった。
ざわつきが起きる。
「え、なに」
「宮坂、どした」
「やばくね」
小林が言った。
「宮坂、席に戻――」
“戻れ”の声は弱かった。
止める声じゃない。形だけの声。
圭介には、それがはっきりわかった。
だから、止まらなかった。
高橋の机の前に立つ。
近い。
高橋の顔がよく見える。鼻の穴がわずかに広がり、口角が引きつっている。
人が怖いときの顔だ、と圭介は知識として思い出した。
(お前も怖いんだ)
勝ち誇る感情は湧かない。
ただ、観察が進む。
圭介は拳を握った。
冷たい。ひんやりしている。
でも筋肉は動く。
そして――どこまで力を入れていいのか、わからない。
(力加減って、どうなってるんだろう)
そう考えている自分が、少しだけ変だと思えた。
変だと思う“感情”が残っているのが、逆に妙だった。
圭介は言った。
「……試す」
高橋が意味のわからない顔をした。
「は? なにを――」
圭介の拳が高橋の顔に吸い込まれた。
乾いた音がした。
肉の音じゃない。硬いものが折れる音。
高橋の頭が横に弾け、椅子ごと倒れた。机が揺れ、ペンケースが落ちた。
高橋は鼻を押さえ、指の隙間から赤いものが落ちる。
鼻血。
それだけじゃない。鼻の形が、少し歪んでいる。
教室の音が消えた。
薄ら笑いが終わった。
ざわめきも消えた。
呼吸だけが残る。数十人分の呼吸。
圭介は自分の拳を見た。
腫れていない。痛くない。
痛いという信号が、薄い。遅い。あるいは、いらない。
(……力、入れすぎた)
反省ではなく、評価だった。
高橋が遅れて声を上げた。
「いってぇ……! おま、何――」
その声が、教室に音を戻した。
「やばっ」
「え、鼻……」
「血、血!」
誰かが立ち上がり、誰かが後ろに下がる。
女子の一人が口を押さえた。
腰巾着の男――斉藤が叫んだ。
「おい宮坂お前何してんだよ!!」
叫び声が大きい。正義の声みたいに響く。
圭介はその声を聞いて、斉藤の顔を見た。
斉藤は高橋の横にいた。
いつも高橋の笑いの隣にいて、タイミングよく笑い、タイミングよく煽る男。
“空気”の速度を上げる役。
圭介は高橋から視線を外し、斉藤を見た。
高橋が崩れた今、空気を立て直そうとしているのは斉藤だ。
(次は、こっちか)
思考は滑らかだった。
怒りではない。
復讐でもない。
ただ、手順を確認するみたいな感覚。
圭介は斉藤の方へ歩き出した。
斉藤の叫びが、少しだけ詰まった。
「……え、ちょ、な、なに。こっち来んなって!」
一歩。
二歩。
斉藤が後ろへ椅子を引く音がする。
圭介は近づきながら、さっきの拳の軌道を思い出した。
速度。角度。距離。
「折れる」という結果が、何によって起きたのかを、頭の中で分解する。
(今度は折らない)
折る必要はない。
必要、というより――比較がしたい。
斉藤が両手を上げた。
「いや、待てって! 冗談だろ!? 先生!!」
小林がやっと椅子を蹴る音を立てた。
「宮坂!! やめろ!!」
“やめろ”が、今度は本気の声だった。
遅い。
でも、確かに本気だ。
圭介は止まらなかった。
止まる理由が、まだ薄い。
拳を握る。
さっきより力を抜く。
肩からじゃなく、肘から。
当てる場所も変える。鼻じゃなく、頬骨の下。
骨を折る角度を避ける。
(たぶん、これ)
圭介の拳が、斉藤の頬に当たった。
音は小さい。
鈍い音。
斉藤の顔が横に飛び、椅子が倒れた。
斉藤は床に転がって、息を詰まらせた。
鼻血は出ない。
でも目が潤む。痛みで顔が歪む。
人が“痛い”ときの表情。
圭介は一歩引いて、斉藤を見下ろした。
(……このくらいか)
感想が浮かんだ。
「ちょうどいい」という言葉が、驚くほど自然に出てきた。
(折らない。倒れる。泣く。声が出なくなる)
結果が揃う。
比較ができる。
教室は完全に凍っていた。
誰も笑わない。
誰も喋らない。
ただ、息をしている。
小林が圭介の腕を掴もうとして、掴めなかった。
怖いのだ。触れるのが。
「宮坂……! もういい、やめろ! そこに立ってろ!」
圭介は小林を見た。
小林の顔は青い。目が泳いでいる。
昨日まで圭介が毎日していた顔だ、と圭介は思った。
高橋が鼻を押さえたまま、泣きそうな声で言った。
「ふざけんな……! お前、死ねよ……!」
圭介はそれを聞いて、静かに思った。
(昨日、死んだ)
“死ね”はもう届かない。届きようがない。
その事実が、圭介の中でただの情報として並んだ。
保健委員の女子が震える手で高橋の肩を支え、養護教諭を呼びに走る。
斉藤も床で呻いている。頬を押さえて、涙目だ。
小林が叫んだ。
「誰か! 職員室! 学年主任呼んで! 救急車――いや、まず保健室!!」
“救急車”の単語が出た瞬間、教室の現実感が跳ね上がる。
冗談の皮が完全に剥がれる。
圭介はその現実感を、冷静に受け取った。
(ああ、これはもう“いつも通り”には戻らない)
そう思った。
怖くない。
ただ、戻らない。
廊下に出されるまで、圭介は抵抗しなかった。
抵抗する理由がない。逃げる理由も薄い。
ただ結果を見たい。
職員室の前に立たされる。
ガラス越しに先生たちが動き回るのが見える。電話、走る足、プリント。
校内放送が短く鳴って、誰かが「養護!」と叫ぶ。
遠くからサイレンが聞こえ始めた。
圭介は窓の外の白い冬の光を見た。
(心臓が鳴らないのに、世界はうるさい)
その対照が、少しだけ面白い。
学年主任が出てきた。
眉間に皺。声が低い。
「宮坂圭介。……君、何をしたかわかってるか」
「殴った。二回」
圭介は淡々と答えた。
学年主任の顔が引きつる。
「……なぜそんなことを」
圭介は少しだけ考えた。言葉を選ぶ。
「……怖くなかったから。試したかった」
学年主任が言葉を失った。
小林が、圭介を見られない。
学年主任は深く息を吸って、現実の手順に戻る。
「いいか。これは重大だ。病院に行く。怪我の程度によっては警察もあり得る。――双方の保護者に連絡する」
「保護者」
その言葉だけが、圭介の中で少し重くなった。
母の明るい声。
忙しい朝。
弟の、背伸びした「兄貴」。
その明るさの中に、この話題を落とすイメージが、嫌だった。
嫌だ、という感情は薄いはずなのに、ここだけ薄くない。
(心配させる)
圭介は静かに思った。
小林が職員室の電話を取る。番号を押す。コール音が鳴る。
その音はやけに大きい。
受話器の向こうで母が出るまでの数秒が、圭介には長く感じた。
長いと感じる感情が、まだ残っていることに気づく。
小林が言った。
「……宮坂圭介さんのお母さまですか。鷺宮高校の宮坂君の担任の小林と申します。至急、お話がありまして――」
圭介は廊下の窓から校庭を見た。
冬の光が白い。
白さが、現実を少しだけ遠くする。
自分が生きているのも、現実感がない。
でも現実は進む。勝手に進む。
圭介は拳を開いた。
冷たい掌。
その掌が、さっき人を殴ったという事実だけが、はっきりしていた。




