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第2話 薄ら笑いの中で

チャイムが鳴った。


いつもなら、その音は救いだった。

「もう始まる。先生が来る。ここからは“授業”になる」

そう思えば、少しだけ楽になれた。いじめは、授業が始まれば露骨には続かない。続くとしても、紙を丸めて投げるとか、聞こえるか聞こえないかの小声で笑うとか、そういう“薄さ”に変わる。


今日は、その救いの感覚がない。

チャイムはただの音だった。一定の周波数の、一定の時間の振動。


圭介は机の上のプリントを揃えた。

指が冷たい。紙が湿ったみたいに吸いつく。自分の体が冷えているせいで、そう感じるのかもしれない。


教室の前のドアが開いて、小林が入ってくる。

担任の小林は、いつも通りの顔で「おはよう」と言い、出席簿を開いた。

それが、少しだけ滑稽に見えた。


――昨日、俺は死んだ。

――なのに今、ここで“いつも通り”が始まる。


圭介は自分の胸に手を当てた。静かだ。

心臓の音がない。その静けさの中に、教室のざわめきが流れ込んでくる。


「相沢、遅刻」


小林が名前を呼び、誰かが「またかよ」と笑う。

薄い笑いが生まれる。泡みたいに、すぐ消える。


「……次、宮坂」


圭介は短く返事をした。


「はい」


自分の声が平坦だとわかる。

けれど、それが恥ずかしくない。声色を気にする感覚も薄い。


小林が出席簿に印をつけて、顔を上げた時だった。

前の方から、少し大きめの声が飛んできた。


「おい宮坂。今日、弁当二個? 朝から仕上げてきた?」


言ったのは高橋だ。

席は中央列の真ん中。いつも中心。視線の集まる場所。

高橋の声には自信があった。あの自信は、誰かを笑いものにしている時に一番強い。


教室に薄い笑いが広がる。

クラスの空気が、ひとつの方向に傾く。

圭介は、その傾きを“物理”として感じた。


「いや、宮坂はさ、今から食っても授業終わるころには腹減ってるだろ。燃費悪そうだし」


「燃費って」


どこかで小さくツッコミが入る。

それが笑いを増幅する。


圭介は、自分が笑われているのを理解した。

理解したのに、胸が縮まらない。

喉が固くならない。

胃が痛くならない。


(……何も起きない)


それが不思議だった。

“嫌だ”が湧かない。

“やめてくれ”が湧かない。

“恥ずかしい”が湧かない。


湧くのは、確認だけだ。


(俺は今、笑われている)

(それを見て、みんなは笑っている)

(先生は止めない)


小林は出席簿を閉じる手を止めないまま、口角だけを少し上げた。

笑ってはいない。

でも否定もしない。


その微妙な表情が、圭介には昨日よりずっと鮮明に見えた。

“止めるほどのことじゃない”という空気の合意。

それが教師の顔にも、教室の隅にも、机の上のペンケースにも染み込んでいる。


(……こんなもんだったのか)


圭介は思った。


今までの自分は、この薄ら笑いに殺されていた。

薄いからこそ逃げ場がなかった。

大声の暴力なら、怒れる。泣ける。助けを求められる。

薄い暴力は、訴えた瞬間に「気にしすぎ」「冗談」「ノリが悪い」で終わる。


だから圭介は、ずっと耐えるしかなかった。

耐えるしかないと“思い込んで”いた。


でも今、その思い込みを支える感情がない。


怖さがない。

羞恥がない。

自分の尊厳が削られる痛みが薄い。


代わりに――


(逆のことをしたら、どうなる)


その考えが、ゆっくり浮かび上がった。


圭介は高橋を見た。

高橋は笑っている。

笑わせている。

自分の言葉で、教室の温度を上げている。


その温度が、圭介には妙に滑稽に見えた。

笑いが、規則正しい反応にしか見えない。


(ボタンを押すと、笑う)


そんな玩具みたいだ、と。

本当ならそこで怒りが湧くはずなのに、圭介は怒らなかった。


ただ、興味が湧いた。


――もし、ここで俺が立ち上がったら?


想像する。

高橋の顔が止まる。

腰巾着の笑いが途切れる。

先生の「ちょっとやめろよ」が出る。

教室が静かになる。


(面白い)


圭介は、自分がそう思ったことに驚いた。

“面白い”という感情が、まだ残っている。薄いけれど、確かにある。

達成感も、快感も、ゼロではない。微かな火種みたいに残っている。


圭介は机の下で、拳を握った。

冷たい。

冷たいのに、筋肉は動く。


(力加減って、どうなってるんだろう)


そんなことまで考えた。

いつもの自分なら、考えない。考えた瞬間に怖くなって、やめる。

でも今日は、やめる理由が出てこない。


高橋が、さらに畳みかける。


「先生ー、宮坂さ、体育の持久走、校庭一周で救急車いるかも。あ、救急車はデブ運べないか」


笑いが濃くなる。

男子が笑い、女子が困った顔で笑い、誰かが机に突っ伏して笑う。

その笑いが、圭介の中で音として整理されていく。


薄ら笑いの合奏。

一つの合意。


小林が小さく咳払いをした。


「はいはい、そのくらいにし――」


言いかけて、止めた。

止め方が弱い。空気に負ける止め方。

高橋が「すみませーん」と笑って、また教室が笑う。


圭介は小林を見た。

小林の目が一瞬だけ、圭介と合った。

すぐ逸れた。

見なかったことにする目。


圭介の中で、最後の確認が終わった。


(ここには、味方はいない)

(でも、俺はもう怖くない)

(なら、何をしてもいい)


“何をしてもいい”という考えは、本当は危険なはずだ。

でも危険だと感じる感情が薄い。

だから考えがそのまま通る。


圭介は、ゆっくり息を吐いた。


呼吸は静かだ。

心臓は鳴らない。

それなのに、胸の奥に小さな熱がある。


好奇心が、熱だった。


圭介は、椅子の背もたれに手をかけた。

立ち上がるための角度を作る。


椅子が床を擦る音が、少しだけ鳴った。


笑いが途切れた。

何人かが「ん?」という顔でこちらを見る。


圭介は立ち上がった。

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