第13話 記録
翌朝、県立鷺宮高校の校門は、昨日より静かだった。
静かというより、音が遠い。
生徒たちが声を抑え、笑いを小さくし、視線だけが忙しい。
圭介はその中を歩いた。
「ゾンビ」
「鷺宮」
「炎上」
誰も口に出さない。
けれど空気の中には浮かんでいる。
浮かんでいるのに、圭介の胸は動かない。
昇降口で靴を履き替えるとき、指先が少しだけ震えた。
寒さの震えだと判断して、気にしないことにした。
教室に入ると、誰かが息を止める気配がした。
昨日の“ざまあ”は消えた。
代わりに残ったのは、慎重さだ。
黒川ミオの席は、今日も空いていた。
そこだけが、教室の欠けた歯みたいに見える。
小林が教卓に立つ。
「……連絡がある。黒川は、当面別室で過ごす。篠原についても、学校として対応する。詮索するな」
“詮索するな”
それがこの教室の現実だった。詮索はすぐに刃になる。
圭介はノートを開いた。
授業が始まる。
黒板の字が増える。
ノートが埋まる。
感情が動かない分、作業は正確になる。
一時間目の途中、窓の外でカラスが鳴いた。
その鳴き声だけが、妙にくっきり聞こえた。
休み時間、圭介は席を立たず、水筒の水を飲んだ。
冷たい水が喉を通っても、体の内側が温まる感じがない。
指先が冷たい。
机の木目が冷たい。
いつもなら、ここで「寒い」と思う。
圭介は思わない。
“寒い”という言葉の意味だけがある。
「宮坂」
小さな声がした。
振り向くと、斎藤颯太が立っていた。
颯太の目の下には薄い影がある。
寝ていない顔。
それでも、今日は目を逸らさなかった。
「……何」
圭介が言うと、颯太は短く息を吸った。
「昨日のやつ。黒川のこと、言っただろ。……あれ、やめろよ」
“やめろよ”
颯太の言葉は強いようで弱い。
頼みの形をしている。
圭介は頷かない。
「何を」
颯太は舌打ちしそうになって、飲み込む。
「みんな、怖がってる。お前、覚えてるとか言うから」
圭介は言った。
「覚えてるのは事実」
颯太の眉が寄る。
「脅してんの?」
圭介は首を横に振らない。
「脅してない。忘れないだけ」
颯太が一瞬だけ言葉を失う。
「……お前、気持ち悪い」
圭介はその言葉に反応しない。
反応しないのが、颯太には余計に気持ち悪いらしい。
颯太は続けた。
「お前さ、黒川潰したんだから、もういいだろ。次は俺らか?」
圭介は静かに言った。
「次はない。止まる」
颯太が笑う。
「は? 何それ。お前が止めるの?」
圭介は答えた。
「学校が止める。僕は記録する」
その言い方が、颯太の顔を変えた。
“記録する”は、暴力より怖い。
颯太は拳を握って、ほどいた。
「……高橋、キレてたぞ」
圭介は「そう」とだけ言った。
颯太は唇を噛む。
「高橋、鼻のヒビもまだ痛いって。親もキレてて。お前のこと――」
圭介は遮らずに聞いた。
聞いた上で言った。
「それは高橋の問題」
颯太は何か言い返したかったが、言い返せない。
正義でも悪でもなく、ただ事実で切られるからだ。
颯太は最後に、ぼそっと言った。
「……篠原のこと、ほんとに知らなかった」
圭介は頷いた。
「知らないなら、今知った。――それでいい」
颯太はそのまま去っていった。
背中が少しだけ軽くなったように見えた。
昼休み、圭介は弁当を開けなかった。
食欲がない。
ないのに、困らない。
困らないのが、少しだけ不自然だ。
誰かが机の横を通って、声を落として言った。
「……宮坂、痩せたのに、なんか怖いよな」
別の声が笑いそうになって、笑わずに消えた。
圭介は聞こえたふりをしない。
聞こえたことは、頭の中に残るだけだ。
午後、最後の授業が終わる頃、教室の扉がノックされた。
「失礼します」
養護教諭だった。
落ち着いた声と、ゆっくりした歩き方。
小林が立ち上がる。
「どうしました」
養護教諭は小林にだけ聞こえる声で言った。
「篠原さん、今日は少し話せました。……宮坂くんに、ひとことお礼を言いたいそうです」
小林が圭介を見る。
圭介は一度だけ頷いた。
教室の外。
廊下の端の、窓際。
人の通りが少ない場所。
篠原まどかが立っていた。
肩が内側に巻いているのは変わらない。
でも、今日は顔を少しだけ上げている。
圭介は言った。
「……大丈夫?」
篠原は小さく頷き、声を出した。
「……ありがとう、って言いたくて」
圭介は「うん」とだけ返した。
篠原は一度、言葉を探してから言う。
「私、ずっと……“私が悪いのかな”って思ってた。
でも先生が、記録があるって言って……私のせいじゃないって」
圭介は頷いた。
記録が、責任の所在を動かす。
篠原は続けた。
「でも……宮坂くん」
圭介が篠原を見る。
篠原は、勇気を出すみたいに息を吸って言った。
「宮坂くん、優しいけど……冷たい」
圭介の胸は静かだった。
でも、その言葉の意味は理解できる。
篠原は慌てて付け足した。
「嫌って意味じゃない。……助かった。
でも、宮坂くん自身、大丈夫なのかなって……」
圭介は答えを探さなかった。
探さなくても、言えることはある。
「大丈夫かは分からない」
篠原が不安そうに眉を寄せる。
圭介は続けた。
「でも、止める。もう止まる」
篠原は小さく頷いた。
その頷きが、祈りみたいに見えた。
篠原が去ったあと、圭介は窓に手を当てた。
ガラスが冷たい。
指が、もっと冷たい。
ふと、圭介は自分の手の甲を見た。
血の色が薄い。
青白い肌の下で、血管だけが浮いている。
ポケットのスマホが震えた。
また知らないアカウントからのDM。
【鷺宮のゾンビ、まだ生きてる?】
【会いに行っていい?】
圭介は画面を閉じた。




