第11話 空気
廊下に出た瞬間、空気が軽くなった。
教室の中の息苦しさが、ドア一枚で切り替わる。
それでも足は止めない。止める理由がない。
背後で、ドアが勢いよく開く音がした。
「ちょっと待って!」
黒川ミオの声だった。
廊下に響く声。教室の中では上手に抑えていた音量が、外に出ると乱暴になる。
圭介は振り返らずに歩いた。
速度は変えない。
黒川の足音が近づき、腕を掴まれた。
指は細い。力は強くない。
でも“止めようとしている”ことだけははっきりする。
圭介は足を止め、腕だけをゆっくり引いた。乱暴にはしない。
黒川は手を離さない。
「何それ……! いきなり学校に出すとか、意味わかんないんだけど!」
圭介は黒川の顔を見た。
黒川は怒っている。
怒っているのに、目が泳いでいる。
怒りの前に恐怖がある目だ。
圭介は淡々と言った。
「意味は分かるでしょ」
黒川が口を開く。
「は? だって――みんな見てるし。回ってるし。あんたも殴ったじゃん。自分だけ被害者みたいなの、キモいんだけど」
言葉が汚くなる。
汚くなるのは余裕がない証拠だった。
圭介は肯定もしない。否定もしない。
必要なことだけを言う。
「殴ったのは俺。悪い。処分も受けた。――それとこれは別」
黒川が笑ったような声を出す。
「別じゃないよ。全部繋がってるじゃん」
「繋がってる。だから止める」
声は変わらない。
変わらないから、黒川の言葉だけが浮く。
黒川が一歩踏み込んで言った。
「それ、私がやったって決めつけてるよね? 証拠あんの?」
圭介は答えた。
「確証はない」
黒川の目が一瞬だけ光る。
勝てると思った目。
圭介は続ける。
「でも、スクショは保存した。あとは学校が調べればいい」
黒川の顔が固まる。
「……は? そんなの、卑怯じゃん」
圭介は首を横に振らない。
「卑怯じゃないし、俺はただ止めたいだけ」
黒川が声を荒げる。
「止めたいってて、何それ。正義マン? てか、クラスの空気壊す気?」
“空気”。
黒川は空気で生きている。
圭介は短く言った。
「もう壊れてる」
その瞬間、黒川の手が緩んだ。
言い返す言葉が見つからない顔。
その時、背後から足音がした。
「何してる」
低い声。
学年主任だった。
黒川はびくっとして、掴んでいた手を離した。
離し方が露骨すぎて、答えみたいになる。
学年主任は圭介を見て、それから黒川を見る。
「黒川。今のは何だ」
黒川はすぐに笑顔を作ろうとした。
でも、怒りの歪みが残っていてうまく作れない。
「いや、別に……宮坂がなんか、急に――」
圭介が言った。
「SNSの投稿の件。スクショと画面録画を保存しました。これから提出しようと思っていたところを黒川が止めに来ました」
黒川が声を上げる。
「ちょっと! それ、言い方――!」
学年主任が黒川を制した。
「黒川、黙れ」
一言で、廊下の空気が変わる。
先生が個人名を出して止めるのは珍しい。だから刺さる。
学年主任は圭介に向き直った。
「宮坂、来い。職員室だ」
それから黒川に言った。
「黒川も来い。今すぐ」
黒川の顔が白くなる。
「え、待って……私じゃないし……!」
学年主任は取り合わない。
「それはこれからだ。今は来い」
職員室までの廊下が長く感じた。
圭介は普通に歩く。
黒川は少し遅れてついてくる。
途中で黒川がぽつりと言った。
「……なんでそこまでやるの」
圭介は振り返らずに答えた。
「終わらせたいから」
「終わらせたいって……。あんた、変わったよね」
圭介は短く言った。
「前から、変だった」
黒川は言い返せず黙った。
職員室の前で担任の小林が待っていた。
学年主任が状況を一言で伝える。
「SNSの件。この二人が廊下で揉めてた。今から確認する」
小林の顔色が変わる。
「……またか」
“また”。
学校側も繰り返しとして認識している。圭介はその事実だけを拾った。
応接スペースに通される。
教頭も入ってきた。
教頭はまず圭介のスマホを見る。
「見せて」
圭介は保存した画面録画とスクショを順に見せた。
投稿の文面、時間、アカウント、URL。
消しても残る形。
教頭の眉が動く。
「……悪質だね」
黒川が震える声で言った。
「私じゃないです。ほんとに。みんな見てるだけだし、回ってるだけだし……」
教頭が静かに言った。
「“見てるだけ”でも拡散に加担することはある。けど、今はまず事実確認をする」
学年主任が黒川に言った。
「黒川。スマホを出せ」
黒川が固まる。
「……え」
「任意だ。拒否するならそれでもいい。その代わり、保護者を呼ぶ。学校として正式に扱う」
黒川の唇が震えた。
空気じゃ逃げられない場だ。
黒川はゆっくりスマホを机の上に置いた。
指が離れる瞬間が、妙に重い。
教頭は黒川のスマホにはすぐ触れず、先に言った。
「これは学校として正式に調査する。記録を残して、学年で対応する。――君の保護者にも連絡する」
黒川の目が揺れる。
“保護者”は、黒川の居場所を壊す言葉だ。
小林が低い声で言った。
「……黒川。冗談で済ませる段階はもう過ぎてる」
黒川が何か言いかけて、飲み込む。
飲み込んだのは、言ったら終わると分かったからだ。
学年主任が続けた。
「それから――さっきの投稿に篠原が写ってたな。こっちは今、初めて把握した。黒川の確認が終わり次第、篠原にも話を聞く。必要なら保護者にも連絡する」
教頭が頷く。
「同じアカウントで複数人を狙っているなら、対応の重さが変わる。ここで止める」
圭介は思った。
復讐は、殴ることじゃない。
終わらせる仕組みを動かすことだ。
教頭が圭介に向き直る。
「宮坂くん。君がやったのは“犯人探し”じゃない。止めるための記録だ。学校として受け取る」
圭介は頷いた。
「はい」
教頭が言った。
「黒川さんはここで待機とし、連絡と確認を進める。宮坂君も教室に戻りたくなかったら、保健室や相談室で休んでていい」
圭介は立ち上がり
「いえ、教室にもどります」
と伝えた。
黒川だけが、何も反応できずに固まっていた。
そしてその沈黙の中で、圭介のスマホの画面だけが、淡々と時間を進めていた。




