第10話 戻ってきた顔
教室のドアが開いた瞬間、空気が一度だけ止まった。
止まって、すぐに動く。
誰かが咳払いをして、椅子がきしんで、視線が散る。
止まったままだと“何かが起きた”ことになってしまうから、みんな必死で普通に戻そうとする。
圭介は教室に入った。
一週間ぶりの教室。
自宅待機と、二日間の別室登校。
書類と面談と、母の早いメモと、悠斗の無言の気遣い。
それらを一枚に畳んで持ってきたような朝だった。
視線が刺さる。
刺さるのに、痛くない。
その代わり、刺さり方が変わっていた。
「……え」
小さな声が前の方から漏れた。
次に聞こえたのは、もっと小さい。
「……痩せた?」
圭介の制服は、確かに前より余って見えた。
ウエストが浮き、袖が少し長い。
何より顔が違う。頬の肉が落ちて、顎の線が出ている。
家では「ちょっと痩せた?」程度だった。
毎日見ているから変化が連続で、驚くほどじゃない。
でも教室の連中は一週間ぶりだ。間が空くと、変化は跳ねる。
小林が教室に続いて入ってきて、圭介を一度だけ見た。
「……宮坂」
その呼び方の後に「大丈夫か」と続きそうで、続かなかった。
先生の目が一瞬揺れる。心配と、言ってはいけないという自制が混ざった揺れ。
小林は咳払いをして、教室に向けて言った。
「席、変えてある。宮坂、窓側の前から二番目。行け」
圭介は頷いて歩き出す。
歩くと、机の列の間が妙に広い気がした。
避けられているというより、触れたくない感じ。
“面倒になりそうなもの”に近づきたくない空気。
それでも、圭介は前に進む。
怖くないと、歩くのは簡単だった。
途中で高橋と目が合った。
高橋は鼻のテープを外していた。
骨折ではなくヒビ。けれど顔の中心に傷を作ったという事実が、本人の誇りを削っているのが分かった。
高橋は一瞬だけ圭介を見て、すぐ視線を逸らした。
逸らし方が怒りじゃない。
逃げだ。
斎藤颯太は、もっと分かりやすかった。
圭介と目が合いそうになる前に、視線を机の上へ落とした。
早い。
“見ない”を選んでいる。
圭介は指定された席に座った。
机の角が冷たい。
その冷たさが、指先に馴染む。
馴染むことが、少しだけ気持ち悪い。
小林が教卓に立った。
「……話がある」
黒板に短く書く。
【ルール】
字が大きい。
いつもより大きい。
「まず、SNS。学校の中で撮ったものを上げるな。もう一回出たら、学年で扱う。クラスの問題じゃなくする」
教室がわずかにざわつく。
誰かが喉を鳴らす。
心当たりがある音だ。
「次。人の身体、容姿、家のことをネタにしない。冗談のつもりでも、相手が嫌ならアウトだ」
“冗談”。
その単語に、何人かが顔を動かした。
目を伏せるやつもいる。
「最後。今日からまた普通に授業をする。余計なことはするな」
余計なこと。
それは攻撃だけじゃない。
過剰な同情や、噂話も含む。
小林はそこで一度言葉を切って、教室を見回した。
「……宮坂。お前も」
圭介が顔を上げる。
小林は少しだけ言い方を変えた。
「殴ったことは悪い。二度とするな。――それ以外のことは、学校がやる」
圭介は頷いた。
それは約束だ。
約束が守られるかどうかは分からない。
でも、約束が出た事実は残る。
一時間目が始まった。
黒板の字が頭に入る。
入るのに、心は動かない。
それでも手は動く。ノートは埋まる。
休み時間になると、教室は一気に音が戻った。
笑い声。椅子の音。廊下へ出る足音。
圭介の周りだけ、音の密度が低い。
一歩だけ距離がある。
その距離は、以前の嘲笑よりは安全だった。
ただ、温度がない。
圭介は机の中からペンケースを出し、シャーペンの芯を補充した。
やることを作ると、余計な衝動が薄れる。
そのとき、斜め前の席の女子が、ちらっとこちらを見た。
黒川ミオ。
笑うのが上手い。
目立つほど派手じゃないのに、いつも中心にいる。
空気の温度を変えるのが上手いタイプ。
黒川は圭介を見ると、すぐに視線を外した。
そして友達の耳元で、何かを小さく言う。
友達が、笑いそうになって、笑うのを飲み込む。
その“飲み込み方”が妙に上手かった。
圭介はそれを見た。
胸は静かだ。
でも、視線の動きと口元の形から、何が起きているかは予測できる。
――話題にしている。
――しかも、面白がっている。
圭介はスマホに手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに、机の上の消しゴムを角で削った。
白い屑が少しだけ机に落ちる。
昼休みが近づくころ、廊下がざわついた。
走る足音。
スマホを隠すような動き。
そして、息を切らした声。
「……やば。見た?」
別の声が続く。
「また回ってる。宮坂のやつ」
圭介はペンを止めた。
“また”の中身は、想像がつく。
復帰した顔。痩せた制服。青白い肌。
そして、誰かがそれをネタにする。
怖くない。
でも、放っておく理由もない。
圭介は立ち上がった。
教室の隅でスマホを覗いていた男子が、圭介の方を見て固まる。
圭介はその画面を覗き込んだ。
画面には、短い動画が流れていた。
――廊下から教室に入ってくる圭介の後ろ姿。
――制服が浮いて見える。
――その上に文字が乗っている。
【ゾンビ、帰還】
【痩せてて草】
【顔、意外とイイの悔しい】
笑いのスタンプ。
投稿者は匿名。けれど、使っている言葉の癖がある。
内輪向けの、薄い毒。
圭介は画面を見たまま言った。
「保存して」
男子が「え?」と言う。
圭介は繰り返した。
「スクショ。投稿時間。アカウント。全部」
男子の手が震える。
怖いからじゃない。
“面倒に巻き込まれる”のが怖いのだ。
圭介は平坦な声で言った。
「巻き込まれたくないなら、協力して。協力しないなら加害者側ってことになるかもしれない」
男子は唇を噛んで、言われた通りにスクショを撮った。
圭介は自分のスマホも取り出した。
画面を見ないようにしていた指が、今は正確に動く。
保存。
保存。
時間。
URL。
圭介はスクショの中に、別の投稿を見つけた。
同じアカウント。
同じノリ。
同じスタンプ。
そこには、自分じゃない子の写真があった。
教室の端で、プリントを抱えて立っている女子。
小さくて、顔を上げない子。
【今日の空気】
【存在うすくて逆に才能】
笑いのスタンプ。
圭介は、その子の名前を思い出すのに少し時間がかかった。
篠原まどか。
普段、声を聞いた記憶がほとんどない。
だからこそ、こういう“観客の餌”になりやすい。
圭介の指が止まった。
胸は静かだ。
でも、判断が一つ増えた。
これは、自分の話だけじゃない。
黒川ミオの方を見る。
黒川はすでにスマホを机の下に隠していた。
顔だけが笑おうとして、笑えていない。
圭介は、保存した一覧を一度だけ確認して、スマホをポケットにしまった。
それから、教室の真ん中に届く声量で言った。
「黒川。このスクショ、学校に提出するから」
言い終わった瞬間、教室の空気が“冷える”というより、“切れた”。
誰も笑わない。
咳払いもしない。
椅子のきしみすら止まる。
黒川の口が少し開いた。
何か言おうとして、言葉が出ない。
圭介はそれ以上何も言わず、教室のドアを開けた。
廊下の光が差し込み、教室の中に線が引かれる。
圭介は振り返らずに出ていった。
背後で、誰かがようやく息を吸う音がした。




