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第1話 心臓の音がしない朝

目が覚めたとき、最初に思ったのは「遅刻する」だった。


スマホのアラームは鳴っていない。画面には、いつも通りの時刻。

ベッドのシーツは、いつも通りの匂い。洗剤と、少しだけ人の体温の残り香。


それなのに――胸が静かだった。


宮坂圭介は上体を起こして、自分の胸に手を当てた。

服越しに触れる骨の硬さ。皮膚の冷たさ。

そして、ない。


心臓の鼓動が、ない。


「……え?」


声が出た。普通に。喉も動くし、舌も回る。

圭介は呼吸をしてみた。吸って、吐く。問題ない。

それが、妙に滑らかだ。


昨日の夜、確かに――


思い出すまでもない。

首に巻き付いた感触。視界の端が暗くなる速度。

ベッドの端に倒れ込む自分の影。

最後に浮かんだのは、母の笑い声だった気がする。弟のゲームの音だった気がする。


死んだ。

確かに死んだ。


なのに、朝が来ている。


圭介は立ち上がった。足は床に沈む。体は重い。

でも、重さに紐づくはずの「だるい」とか「しんどい」が薄い。

まるで、重い荷物を持っているだけのことのように、ただ重い。


洗面所の鏡の前に立つ。


顔が、青白い。

血の気が引いたというより、最初から血が少ないみたいな色。唇も薄い。


鼻をつまんでみる。匂いはする。

口を開ける。息も普通だ。腐った臭いもしない。

皮膚を指でつまむと、冷たい。ひんやりしている。昨夜、体が冷えたのとは違う。もっと均一で、もっと深い。


圭介は蛇口をひねった。水が出る。

指先に当たる冷たさが、わかる。

でも、その冷たさが自分の体の冷たさと同じ種類に見えて、少しだけ笑いそうになった。


笑いそうになった、というより、笑うという筋肉の動かし方を思い出した、に近い。


――感情が、遠い。


悲しいはずなのに、悲しくない。

怖いはずなのに、怖くない。

「死んだのに生きている」という異常を前に、動揺するはずなのに、動揺が湧いてこない。


代わりに、頭の中に浮かぶのは確認事項みたいなものだけだった。


(体温が低い)

(心臓が動いてない)

(息はできる)

(腐ってはいない)


ゾンビ。

そんな単語が浮かぶ。マンガみたいだ、と突っ込む感情すら薄い。


圭介は制服に着替えた。シャツのボタンを留める指が、少しだけぎこちない。

でも「緊張してるから手が震える」じゃない。単に、冷たくて、滑りが違う。


廊下に出ると、台所から母の声がした。


「圭介ー!起きてる? 今日、味噌汁ね、具いっぱいにしたから!」


明るい。

いつも通り。昨日までと同じ明るさ。


圭介は一瞬だけ、立ち止まった。

胸の奥に、薄い膜みたいなものが触れる。

これが“罪悪感”なのか、“申し訳なさ”なのか、圭介には判別がつかない。ただ、ここだけはまだ完全に平坦じゃない。


台所に行くと、母はエプロン姿でフライパンを振っていた。スーツのジャケットが椅子にかかっている。

朝から仕事の準備をしている。大手企業の営業部課長。家でも動きが速い。


「おはよ。顔色……あれ? 寝不足?」


母が圭介の頬に手を伸ばしかけて、止めた。

触ったら冷たい、とわかる気がしたからだろうか。母は笑って、誤魔化すみたいに味噌汁をよそった。


「ま、食べな。今日はね、ハンバーグの残りでサンド作ったから」


リビングから、弟の声がする。


「おはよ……兄貴」


少し間があって、言い直したみたいな声。

圭介は思わず口元がゆるんだ。最近、弟は「兄ちゃん」をやめて「兄貴」と言いたがる。アニメかドラマの真似だ。


「……また兄貴?」


弟がソファから顔だけ出して、真剣な顔で言う。


「べ、別に。兄ちゃんって、なんか……子どもっぽいし。兄貴のほうがカッコいいじゃん」


「カッコいいって」


圭介が笑うと、弟は照れ隠しにクッションを抱えて目を逸らした。


この光景が、妙に遠い。

遠いのに、壊したくない、という感覚だけは残っている。

圭介は味噌汁を口に運んだ。味はする。でも「うまい」が薄い。


(満足って、こういうふうに薄れるのか)


そんなことを考えながら、圭介は弁当袋を持って家を出た。


外の空気は冷たい。

でも、冷たいのに、体が縮こまらない。

寒さを感じるはずのところに、感情の反応が遅れている。


駅まで歩く。息が乱れない。

太っている体にとって、それはあり得ないはずなのに、息の上がり方がない。

ただ、脚が重い。重いのに、しんどくない。


電車に乗る。


いつもなら、視線が刺さる。

太っていることを見られるのが嫌で、肩をすぼめて、呼吸を小さくして、なるべく存在を薄くしようとする。


今日は、視線が視線として認識されない。


人の目は、光の点にしか見えない。

「見られている」ことが、自分の価値を削る感じがない。

誰かが圭介をちらりと見て、すぐスマホに戻る。たったそれだけのことが、今日の圭介には“ただの動き”に見える。


(俺は、今まで何に怯えてたんだろう)


疑問は出る。

でも、そこから先の“悔しさ”や“惨めさ”が、続いてこない。


電車の窓に映る自分を見る。

青白い。目の下が少し暗い。顔色が悪い。

けれど、それを「やばい」と思って隠そうともしない。


コンビニに寄った。


お茶をレジに持っていくと、店員が「袋はいりますか?」と聞く。

圭介は「はい」と答える。声のトーンが自分でも平坦に聞こえた。

店員が一瞬だけこちらを見る。顔色を気にしたのかもしれない。


普通なら、その一瞬で心がざわつく。

「変だと思われた」

「気持ち悪いと思われた」

そういう想像が勝手に膨らむ。


今日は膨らまない。

膨らませるエンジンが、止まっている。


代わりに、圭介はレジ横の鏡に映る自分の首筋を見た。

昨夜の痕が、うっすら残っている。赤い線。

ただの擦り傷みたいに見える。なのに、思い出は本物だ。


(死んだのに、生きてる)


不思議だ、という言葉だけが浮かぶ。

怖い、ではない。嬉しい、でもない。


学校の門が見えた。


いつもならここで、胃のあたりが重くなる。

教室に入った瞬間の空気を思い出して、呼吸が浅くなる。

それが今日、ない。


ただ、歩く。

ただ、靴を履き替える。

ただ、階段を上がる。


教室の扉の前に立った。

中から声がする。笑い声。うすら笑い。

聞き慣れた音。自分を切り刻んできた音。


圭介はドアノブに手をかけた。

冷たい指が金属に触れる。


――おかしい。

――でも、悪くない。


そんな感想が、淡々と浮かぶ。


扉を開けると、何人かの視線がこちらに向いた。

いつもなら、その視線が痛い。今日は痛くない。


圭介は窓側の一番後ろ、自分の席に向かって歩いた。

机に座り、鞄を置き、プリントを出す。


ホームルームが始まるまで、あと少し。


圭介は自分の胸に、もう一度だけ手を当てた。

静かだ。

なのに、世界は動いている。


その静けさが、圭介の中でゆっくりと形を変えていくのがわかった。

怖さが消えた場所に、別の何かが芽を出し始めている。


好奇心。


それが、妙に明るい。


教室の前方で、誰かがいつもの調子で言った。


「おい宮坂、今日も肉まんかよ」


薄い笑いが起きる。


圭介は、返事をしなかった。

ただ、その声を聞いて、自分の中に何も起きないことを確かめた。


チャイムが鳴る。


小林が入ってくる。

ホームルームが始まる。

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