老婆と猫
当直班から日勤への申し送りが終わり、修司は帰り支度をする。歪んでいようが綻んでいようが、修司も人間である以上休息は取らなくてはいけない。一日や二日の徹夜で壊れるような身体作りはしていないが、それでも夜通し職場にいれば疲れる。何故なら職場には妹がいない。
「じゃ、失礼します」
型通りの挨拶をして、あと一歩踏み出せば刑事課から出る、まさにそのとき。
刑事課の電話が鳴った。
「………」
一瞬止まりかけたが、修司は聞こえなかったふりをしてそのまま歩き出そうとし――寺川に捕まった。
「なーに帰ろうとしてんだ」
「いや、だって当直明けたし。かわいい妹が待ってるし。眠いし」
「渡辺。刑事とは」
「市民の皆様が安心して暮らせるよう、身を粉にして働く公僕であります」
「いい答えだ」
「しかし刑事は公僕であっても神ではないのであります。っつーか帰りたいです。妹に会いたいです。一刻も早く」
「今日平日だろ。妹さん、学校は」
「行っているでしょうね」
「帰ってくるのは」
「夕方でしょうね」
「市民の中に妹さんは」
「もちろん入りますね」
「もう一度聞くが、刑事とは」
「妹の為だけに身を粉にして働く妹の下僕であります」
わざとらしく敬礼した修司に、寺川は黙って手刀を下ろした。
「いったいな。なんですか、後輩いびりですか」
そうこうしているうちに、修司と同じく帰ろうとしていた同僚たちがため息をつきながら席に戻っている。
「え、みんな働くんですか。なんで?」
「なんでってお前…」
「渡辺くん」
そこで、席から立ちあがって二人のもとへやってきたのは、課長である神崎だ。彼は困ったように笑っている。
「当直明けに申し訳ないのですが、手伝ってもらえませんか?」
「……喜んでー」
「居酒屋か」
修司はへらりと笑って見せた。
自分は完全なる社会不適合者だと自覚しているからこそ、この程度のじゃれ合いを演じるのはお手の物だ。
本当の修司は、暗くて深くて冷たいどこか遠くでこの世界を蔑視している。ただひたすらに、冷酷な視線で。他人が人生で躓いて怪我をするのを眺めている。
彼が「普通の人間」を演じるのは、ひたすらに自分と妹の為。その平穏を護る為。兄の歪みを知られれば妹まで奇異な目で見られるから、普段は「行き過ぎたシスコンで、それなりに軽い性格をした若者」を完璧に演じている。それは、妹に対しても。
そうやって修司は生きて、そして死んでいくのだ。
きっと、独りで。
「誘拐事件です」
捜査三課全員を集め、神崎課長はそう言った。三課の面々はざわついた。何故なら誘拐事件を扱うのは捜査一課の特殊犯罪捜査班であって、三課ではないからだ。
ざわめきを落ち着かせるように、静かに課長は続けた。
「ただし、器物誘拐です」
「ペットですか」
三課の同僚が言って、課長はうなずいた。
「はい。ペットが消えたそうです。飼い主のもとに脅迫状が届いています。ペットを返して欲しければ金を払えという内容です」
修司は眉を寄せた。ペットという命ある「生き物」を「器物」扱いするこの国の法律の是非はさておき、当直明けの修司たちまで呼び止めて三課を全員集める事件ではないように思えたからだ。しかし、続いた言葉で納得した。
「これは、同時多発器物誘拐事件です。同様の通報が、報告されているだけでも四件あがってきています」
落ち着いていたざわめきが再び起きた。
「四件か。多いな」
寺川がつぶやく。
「状況的に見て同一犯だと思われます。悪戯にしてもあまりに悪質です。ペットは大切な家族ですから、捨ておくわけにはいきません」
課長の口調はいつも通り穏やかだが、少しだけ力が入っているように修司は思えた。聞いたことは無いが、自身もなにかペットを飼っているのかもしれない。
「手分けして被害者宅へ向かって、詳しい事情を聴いてください。共通点があれば犯人にたどり着けるでしょう。誘拐されたのは、犬が二件、猫とウサギが一件ずつです。近くのドッグランや動物同伴が出来るカフェレストラン、動物病院なども当たってください」
その後、全員が二人一組となってそれぞれ被害者宅やドッグランなどに向かうことになった。修司は同じ班の先輩と、夕子は寺川と組むことになったのだが、そこで寺川が待ったをかけた。
「どうしました?」
「悪いが、渡辺。こっちと代わってくれ」
「…構いませんが。なんでです?」
「おれは夕子ちゃんと一緒には行けない」
それを聞いて、不安そうな顔をしたのは夕子だ。
「すみません。わたし、なにか失礼を」
「いや、そうじゃない。ただ……猫アレルギーだから」
「………」
「………」
夕子はきょとんとし、修司は吹き出しそうになるのをこらえた。寺川の顔はいかつい。体格も大きい。目つきも悪い。声質はがらがらだ。その寺川が、猫アレルギーとは。
「渡辺。お前、今笑っただろ」
修司は笑った。この上なく爽やかに。
「俺は、常に笑顔を絶やさず生きていこうと心がけています」
「つまり笑っただろ」
「笑顔は百薬の長です」
「結局笑っただろ。もういい、笑いたきゃ笑え」
「あはははははは!」
「笑うな!」
「どっちですか!」
「わ、渡辺さん。そのように笑うのはさすがに失礼では…」
「そこまでにしましょう」
課長の神崎が割って入る。修司はくつくつと笑いながら、それでもはーいと返事をした。
「では、寺川さんと渡辺くんが交代ということで、それぞれ現場に向かってください」
手を叩いてそう言われ、三課の面々は各々上着を持って寒空の下に向かったのだった。
運転は、修司が担当することにした。修司は、極力他人の運転する車には乗らない。誰も信用していないからだ。そうとは知らない夕子が隣で通報内容を読み上げる。
「通報者の名前は橘佐和子さん。七十二歳、一人暮らし。息子家族は海外赴任中。誘拐されたのは愛猫マキ。一昨日の夕方から姿が見えず、いつもの散歩かと思っていたら今朝になって脅迫状が届いたので通報したとのことです」
「ふぅん。そのマキって猫の特徴は」
「三毛猫だそうです。五歳だと書いてあります」
「…五歳で誘拐、ね」
修司のつぶやきには他意があった。夕子はあからさまに気分が落ち込んでいる。
「橘さんや猫自身、どれほど不安でしょうか…」
「それはきみが一番よく解るんじゃないの?」
「わたしは、自分の事件のことをよく覚えていないんです。そのせいで、当時捜査員だった寺川さんや神崎課長たちを困らせてしまい、今でも申し訳なく思っています」
「困らせたのは犯人であってきみじゃないでしょ」
「でも、わたしがもっとしっかり犯人につながる記憶や遺留品を持っていれば」
「そうやって自分を責め続けることで犯人が捕まると思うなら、一生そうしていればいいけどね」
突き放した言葉に、夕子がびくりとしたのが分かった。
「…すみません。固く考え過ぎているとはよく言われるのですが。不愉快でしたね。失礼しました」
「別に、真面目なのは悪い事じゃないよ」
「はい…」
落ちた沈黙の中、カーナビが被害者宅の近いことを告げる。その家につくまで、二人はずっと無言だった。
目的地は、見るからに純日本家屋だった。平屋のようだ。家の前にある駐車場が空いていると事前に聞いていたので、駅前の駐車場には行かずに済んだ。家の前にバックで駐車する。
車中では聞こえなかったが、どこかで工事があっているらしき音が響いてきた。そうでなければ、普段は閑静なのだろうと修司は想像した。実際、住宅街に入ってからはほとんど通行人を見かけていない。平日の午前中であることも、一つの理由と言えそうだが。
「これが、その脅迫状です」
挨拶もそこそこに、橘佐和子はそう言って三つ折りにされたB5サイズの紙を二人に差し出した。床の間に通されたが、二人とも上着は脱いでいない。今日は晴天だ。縁側をサンルーム化したようで、そこから日差しが届いている。
「確かに…。脅迫状ですね」
手袋をはめて、修司が紙を受け取る。そこには、愛猫マキは預かっている。返して欲しければ五百万円用意しろと書かれてあった。警察には連絡するな、とも。
老婆は迷ったという。しかし、一人では対処出来なかった。
「犯人に心当たりはありませんか?」
夕子の問いかけに、老婆は泣きそうな顔で首を振った。
「まったく無いんです。そりゃあまあ、これだけ生きていれば他人様にご迷惑をお掛けしたこともありますけれど、まさかこんな…。こんなことをされるような心当たりなんて」
「御察しします。マキという猫は、いつも散歩に出ていたんですよね。そのことを知る人物は?」
「近所のみなさんが知っておられます。でも万一保健所に連れていかれたときの為、首輪にうちの住所や連絡先を書いた紙を入れていますので、それを見ればうちの猫だということは判ります」
「そうですか…」
では犯人は、橘家のことを調べたのではなくたまたま見かけただけなのかもしれない。同時に四件も誘拐事件を起こしたのは、どこか一件でも金を払うなら儲けものとでも思ったのか。
「この脅迫状には、いつどこに金を持ってこいとは書かれていません。この手紙以降、犯人からの接触はありませんか?」
冷静な修司の言葉に、老婆はやはり首を振る。
「ありません。だからもう、どうしたらいいのか…」
肩を落とす老婆。夕子はどうだか知らないが、修司は冷静そのものだ。家の中に視線を走らせて、彼は訊く。
「では、最近になってなにかおかしいと思われたことはありませんか。見張られているとか、家の中でなにかを物色された痕跡があるとか…」
その質問にもやはり否定が返ってきた。
「なにも…。いえ、正直申しますと、判らないんです」
「お引越しのご予定があるからですね? 家の中が散らかっていて、判らないと」
修司の言葉に、老婆は驚いた様子を見せた。
「まあ、どうして?」
「廊下を通った時に台所が目に入りまして。新しい段ボールが紐に縛られた状態でありました。この床の間も、ずいぶんと物が少ないご様子です。テレビ台はあるのにテレビも無い。それに、わたしたちにご用意くださったこの座布団、圧縮袋から出したばかりですよね? 跡がついているし、あなたの分の座布団が無い。この部屋の広さに対して座布団が二つしかないのは不自然です。やってくる刑事の分だけ慌てて袋から出したのではないかと」
「はい…。はい、おっしゃる通りです」
「ではやはり、お引越しを?」
「ええ、海外赴任中の息子が呼んでくれておりましてね。引っ越す予定でした。とは言っても、海外赴任が終わる三年ほどですが」
「でした、というと」
「そのつもりで用意をしておりましたが、取り止めました。やはり、主人のお墓の近くにいたいと思い直したもので。それに、先ほど判らないと申し上げたのは、引っ越しで散らかっているからだけではありません」
橘佐和子は、そっと息をついた。
「わたし、少し前まで病気で入院しておりましてね。そのことも、ご近所の方々は知っておられます。倒れた時、引っ越しの準備を手伝うと言って息子が帰国していたことは、幸いでした。一人なら死んでいたかもしれません。それからしばらくは息子が付き添ってくれていたのですけれど、どうしても仕事で向こうに戻らなくてはいけなくなって、数日間だけご近所の特に信用のおける方に鍵を預けて、空気の入れ替えとマキちゃんのご飯とお水を頼んでいたんです。ですから、その間に忍び込まれていたとしても、判りかねるのです。ただ、帰ってきたときに違和感はありませんでしたし、鍵を預けていた方は、変わったことは無かったとおっしゃいましたけれど」
「なるほど。あとで、その方からもお話を伺いましょう」
その住人の連絡先を聞いてから、整理をさせてください、と修司は言った。
「引っ越し準備、ご病気で入院、引っ越しの取り止め、退院、愛猫の誘拐。この順番に間違いはありませんね?」
「いえ、少し違います。引っ越しの取り止めは退院してからです。主治医と息子と、両方に相談しながら迷っておりましたので」
「なるほど。ちなみに、息子さんが帰ってきてらしたのはいつからいつでしょうか?」
老婆は少し考えたが、答えるまでさほど待たせなかった。
「帰国したのは三週間ほど前でしょうか。倒れたのは翌日です。意識はすぐに戻ったのですが、しばらくの入院と通院が必要になりました。海外では医者にかかるのも大変だと主治医がおっしゃって…。でもせっかく息子が呼んでくれているしとだいぶ悩みました。結局、残ると決意したのはつい先日…退院した日です。三日ほど前になります。息子たちは、また迎えに来ると言ってくれたのですが」
「息子たち、とおっしゃいますと?」
「嫁です。面倒見が良くて、優しいお嬢さんです。先日、引っ越しを取り止めると伝えたときには、定期的に自分だけでも帰ってきますと言ってくれました。これを機に携帯電話も買ってくれるそうで。本当に、わたしにはもったいないくらい出来た息子と嫁です。すみません、自慢に聞こえますでしょうか」
「いいえ。あなたのお人柄の賜物ですよ。今回お嫁さんは、息子さんと一緒に帰国していたわけではないのですね?」
「息子夫婦には子どももおります。学校がありますので、帰ってきたのは息子だけです」
なるほどとうなずきつつ、修司は質問を続ける。
「ご近所の方には、残ることは話されましたか?」
「ええ、お見舞いに来てくださった方には、大体。快気祝いを持ってお邪魔したときに」
修司の隣で、夕子が時系列を手帳に控えている。
「マキちゃんがいなくなって、この手紙が届いた時には倒れた時よりも心臓が止まる思いでした。それでも悪戯かもと思って、心当たりは探したんです。お気に入りの公園や、いつもかわいがって下さるお宅。それに、今ご近所で改修工事があっていましてね。そこの資材置き場にでも閉じ込められてやしないかと聞いてみたのですが…おりませんでした」
結果、今に至るのだ。
「哀しいです。日本に残ると決めたのはわたし自身ですけれど、やはり息子が近くにいないのは寂しくて。寂しさを埋めてくれるのはマキちゃんしかいないんです。どうか、お願いいたします。うちの子を取り返してください。お金なら用意いたします。わたしは、あの子が無事ならそれで…」
顔を覆って、橘佐和子はとうとう泣き出した。修司の隣に座っていた夕子が立ち上がり、老婆の背中を優しく撫でる。
ペットの為に五百万円を用意する人間もいれば、実の娘の為に一銭も用意しない親もいる。
返してくれ、と泣く老婆。娘の為にも屈服しないと断言した父親。
夕子の心情を慮るような感情を、修司は持っていない。あくまで冷静に、老婆に問いかける。
「五百万、すぐに用意出来るんですか。失礼ですが、貯蓄があるということでしょうか?」
訊ねられた方はあいまいにうなずく。
「老後の為にと取っておいたお金です。年金暮らしですからお金に余裕があるわけではございませんが、すべてを投げ出せばなんとか…。ぎりぎりですが」
その言葉に、修司は少し考えた。
五百万円。決して安い金額ではない。必死になって働いても、年収では賄えない人も多いだろう。
しかし、命の値段としては安すぎる。富裕層を狙った誘拐なら、もっとふっかけてもよさそうだ。しかもこの老婆によると、用意できるぎりぎりの金額になるらしい。
早急に、ほかの被害者の話を聞かなくてはならない。早いとここの事件を片付けたいのだ。妹に会うために。
「ちなみに、五百万円なら用意出来ることを知っているのは?」
「息子くらいのものです。ご近所にも話しませんよ。いつなにが起こるか分からないご時世ですもの」
「まあ、そうですよね。最近、マキちゃんを連れてどこかへ出かけませんでしたか?」
「あの子を連れて外出するのは、動物病院くらいのものです。でも、最後に行ったのは二ヶ月ほど前になります」
「カフェはいかがです? モールの近くにペット同伴可能なカフェがありますが」
「わたしは車を持っておりませんので、一度も行ったことがありません。電車はこの年になると億劫ですし、ケージに入れていても動物を嫌がる方もおりますでしょう」
「車はお持ちではない。では、お宅の前の駐車場はご主人か息子さんが使っていらしたんですね?」
「ええ、主人は車が好きだったものですから。わたしは、二年前に免許を返納いたしました」
「そうですか。では一応、動物病院の名前と連絡先を教えてください」
修司がそう言うと、橘佐和子は財布から診察券を取り出した。素早くメモを取る。ペンを走らせている途中で、修司と夕子、それぞれのスマートフォンにメールの着信があった。
三課全員に送られてくるグループメールだ。三十分後に署で対策を練るので帰ってくること、犯人から次の指示があるかもしれないから一人は被害者宅に残ることなどが簡潔に書かれている。
メールを読んで、修司と夕子はうなずき合った。この場に残るのは夕子だ。相手が老婆である以上、女性警官が残っていた方がいい。そのことを、二人は言葉にせずに確認し合った。
その後、いくつかの確認をしてから修司は橘家を辞した。ひゅんと一際冷たい風が吹いてきて、一瞬身を固くする。この寒い中どこからか聞こえてくる工事の音は、老婆が言っていた改修工事なのだろう。