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花嵐の夜  作者: 露刃
8/25

平和の綻び

 渡辺修司は歪んでいる。

 そして、その歪みを自覚している。

 しかし、その歪みを正そうとは微塵も思わない。

 それこそが、彼を彼たらしめている大きな核だ。


 今から二十二年前、六月十日。

 神崎夕子は当時五歳。幼稚園のイベントで外に出ている時に忽然と姿を消した。程なく、幼稚園へ夕子を誘拐した旨の電話が入る。身代金は五千万円。園側は、もちろんすぐに警察へ通報した。非常線が張られ、園にも神崎家にもそうと知られないよう捜査員が侵入し、次の電話に備えた。

 しかし、電話は二度と掛かってこなかった。

 この日からちょうど一週間、夕子は行方が知れなかったのだ。

 五日目に、警察は公開捜査に踏み切った。夕子の父親も取材を受けた。そこで彼は言った。


――なにが五千万だ。卑劣な人間に渡す金は一銭も無い。


 毅然とした、と言えば聞こえの良い態度だった。だがそれは、夕子の身を案じる母親や捜査員たちと事前に打ち合わせした言葉ではなかった。

 生放送で、彼はさらに言った。


――娘の為にも屈服するつもりは無い。


 放送は、そこで打ち切られた。

 それからさらに二日後。美鷹市内の紫陽花が咲き誇る公園で、犬の散歩の為に通りかかった老人に夕子は発見された。六月の雨に濡れ疲労と衰弱は見られたものの、食事は与えられていたらしく健康状態に問題は無かった。暴力をふるわれた痕もなく、不明少女発見の報せに日本中から安堵のため息がこぼれた。

 結局、犯人からの接触は最初の一度、幼稚園に掛かってきた電話だけだった。事件のショックからか記憶が混乱している夕子からも、ろくな証言が得られない。つまり、手がかりが少なすぎた。夕子の身体や衣服に遺留物は無く、目撃情報も無く、捜査員が動き出してからは電話が無かったので当然だが逆探知も出来ず、そもそも本当に五千万円を手に入れたかったのかどうかも定かではない。もちろん神崎家に恨みがある者の悪質ないたずらという可能性も浮かんだが、どれも決定打に欠けた。

 一週間、他人の子どもを監禁なり軟禁なりしていたのだ。どこかに遺留物があっても良かった。しかし捜査員がどんなに探しても、手がかりは出てこなかった。

 そうして時間だけが過ぎ、その間に夕子は幼稚園を変えさせられ、両親は離婚し、夕子は父親の元に残った。その後で父親は再婚し、やがて時効を迎えた。


 以上が、修司が見たり聞いたりして頭の中でまとめた神崎夕子誘拐事件の概要である。

 大体のあらましを確認して、修司が発した言葉は「ふぅん」だけだった。

 手に持っていた当時の捜査資料を、机の上に放つ。公開捜査をしていたのなら、神崎夕子の名前は当時全国に知れ渡っていた。あのチンピラ弁護士が知っていてもおかしくなかったわけだ。まして、同じ地元で妹の同級生ならなおのこと。いや、当時はまだ夕子と洋子は出会ってもいなかっただろうが。しかし未解決誘拐事件の被害者と学校が一緒になったのなら、話題にはなっただろう。

 二十二年前なら、修司はそのころ小学校の低学年。当時すでに他人を偽ることを知っていて、パフォーマンス程度にニュースも見ていたが、夕子の名前は憶えていなかった。さほど興味が無かったのだろう。

 ぎいっと音を鳴らして、修司は椅子の背もたれに寄りかかった。

 時刻はそろそろ夜明けを迎えようとしている。当直中である。同じ班で当直の仲間たちは仮眠中だ。もう間もなく起き出してくるだろう。

 高林洋子が略式起訴されてから、三週間が経っていた。結局、罰金刑となったようだ。彼女の家庭環境に、修司は毛ほども興味が無い。従って、夕子から報告されたことは、なんとなくしか覚えていない。ただ、彼女の夫に襲い掛かってきた事故は、昇進で済むような程度のものではなかったらしい。会社から多額の退職金をもらって退職させられていた。彼は今も病院で寝たきりの状態だそうだ。一応、形だけの昇進はしていた。もし、会社に復帰することがあれば専務の椅子を用意すると。そうやって、会社は高林に口封じをしたということだった。中々のブラック企業である。

 多額の慰謝料と退職金と障碍者年金。そして、民間の保険会社から支払われた保険料。それで高林洋子は養われているそうだが、その口座の持ち主は夫の母親だ。なにがどうなって妻ではなく母親になっているのかまでは判らない。

 そして、修司の推論は少し間違っていた。洋子は、夫の両親と同居していたのだ。あの日は、たまたま両親が遠方まで出かけていた日だった。洋子はその隙をついて外出し、窃盗を犯して逮捕されたということである。鬼の居ぬ間に、ということだったらしいが、彼女が行ったのは洗濯ではなく窃盗だ。同情の余地は無い。

 夕子からの報告に、ああそうと、修司は気のない返事をしただけだった。

 夕子は落ち込んでいたように思う。確信が無いのは興味が無いからだが、まあ夕子が落ち込んでいようが元気いっぱいでいようが修司には関係が無いのだから仕方がない。

 ただ、彼女はぽつりと漏らしていた。

「学生時代も、よく言われました。「あんたを見ているとイライラする」と。それがなぜなのかは、今でも解らないのですが。なにかが気に障っていたのでしょう」

 それは高林洋子の問題であって、夕子の問題ではない。そんなようなことを寺川が言っていた。

 神崎夕子宛ての差出人不明の手紙は、あれから一通届けられた。中身はやはり、手紙と花びら。手紙には、今度は夕子が解放された日が印刷してあった。鑑識課は、どちらの手紙からも手がかりを見つけられないでいる。無理もない。大量生産大量消費のどこにでもある茶封筒に、白い紙。パソコン打ち。指紋は丁寧に拭き取られ、手袋紋すらも付いていない。投函されたのは、一通目は美鷹市唯一の大型ショッピングモールにある郵便ポスト。高林洋子が捕まったモールのことだ。だが、毎日ただでさえ大量の人が流れ手紙が流れているモール内で、そのポストは待ち合わせ場所の目印になることも多い。つまり絶えず人がいる。人がそれだけいれば、当然防犯カメラに死角も出来る。特に土日は多種多様の人間で溢れ返っているから、よほど挙動不審でなければ怪しい人間を見つけることなどほぼ不可能だ。

 二通目は美鷹市内の住宅街にある郵便ポストから。住宅街に防犯カメラは付いていないので、こちらについては目撃情報に頼るしかない。しかし聞き込み捜査は行われていない。何故なら、このことはまだ事件化されていないからだ。刑事課に手紙が来る、それだけのことで捜査員を動かすことは出来ない。夕子は脅迫されているわけではないのだ。これを上層部に訴えたところで、なにを捜査していいのかも分からないと、笑われるか怒られるかのどちらかだろう。

 枯れた花びらについてはもっと漠然としている。「おそらく紫陽花」ということしか判っていないのだ。日々事件の証拠確認に追われる鑑識に、これ以上の期待はするほうが酷というものだった。寺川は枯れていることに何か意味があるのではと言っていたが、ではどんな意味かというと、見当もつかないらしい。

 妹は寝ているな、と思いつつ修司はスマートフォンを操作する。待ち受け画面は妹の写真ではなく、この機種を買ったときのままのスタンダードなものだ。修司の妹は写真を撮られるのが好きではないし、修司自身、万一スマートフォンを紛失した場合に妹の写真が流出しても困る。

 大切なものは、他人に知られない方がいい。

 そもそも修司は、刑事課を希望してはいなかった。なるべく定時で帰れる課を希望していたのだ。経理課でも総務課でも備品管理室でも、とにかく警察手帳を持ちさほど危険でもなく早く帰れるところならどこでも良かった。刑事課も「内勤」扱いになるということは調べたので知っていた。だが上司との面接の際に「定時で上がれるとこ」と馬鹿正直に言うわけにもいかず、なんの因果か修司は刑事課に配属され、もう五年が経とうとしている。

 移動願を出さないのには、いくつか理由がある。

 修司と妹には両親がいない。まだ学生の妹が、学校の馬鹿な連中に家庭環境を指摘された時に「兄貴が刑事である」方が抑止力になると思ったのが一つ。

 刑事を経験しておけば確実に人脈が広がり、いずれ利用できると思ったことが一つ。

 そして、もう一つ。これは完全に修司の趣味嗜好の為だ。

 つまり、被疑者をいたぶれる。

 柔剣道の習得は警察官にとっての義務。ここに逮捕術も加われば、少々の相手には引けを取らない。合法的に他人に力をぶつけることが出来る。修司にとってはそれだけでも、刑事をしておく理由になっていた。

 配属されたのが三課だったことも幸運と言えた。忙しさでは他課に引けを取らないものの、一課に比べれば切った張ったという場面に出くわすことは少ない。実際、一課の面々は、一週間前に管轄内で起きた宝石強盗事件の捜査のため、今日も寝る間を惜しんで働いている。犯人が四人組だということ以外はなにも分かっていないらしく、捜査は難航しているようだ。

 修司は両腕を天井に向けて伸びをした。もう数時間もすれば、夕子たち日勤も出勤してくるだろう。その前に、捜査資料を戻しておかなくては。当時の合同捜査本部が立ち上がったのが、ここ美鷹署で良かった。ほかの所轄であれば、なにかしらの理由を付けて見せてもらわなければならなかった。

いや――まあ、それなら別に見なくてもいいか。

 あっさりそう納得して、修司は席を立った。


 その、三時間後。刑事課に一番早くに出勤してきたのは夕子だった。オフホワイトのチェスターコートの下にぴっしりとグレーのパンツスーツを着こなし、黒髪を頭の後ろでまとめ、嫌味にならない程度の化粧をしてきている。当直だった修司たちの班に、教科書通りの「おはようございます」を告げると、彼女は自分の机にバッグを置いた。昨日は非番だというのに呼び出され、夜まで仕事をしていたのにまったく疲れを感じさせない。

 その一連の動作すべてに一本筋が入っているようだ。まるで洗い立ての真っ白いハンカチにきっちりアイロンをかけたかのように、隙が無い。

 性格にアイロン。

 自分の発想が面白くて、修司は口角を上げた。


……ああ、いや。

――そんな性格矯正の便利道具があるなら、必要なのは俺か。


 あったところで使いはしないだろうが。

 修司は背もたれに左腕を乗せて、後ろを振り返った。夕子のすっと伸びた背筋を、手遊び程度に少し歪めたくなった。

「ねえ、夕子ちゃん」

「はい」

 振り向いた夕子に、修司はにっこりと笑った。

「ここにね、糊が効いた真っ白いハンカチがあるとして」

「…はい?」

「そこに、絶対に消えない染みを付けようと思ったら、なにが一番効果的かなぁ?」

「ハンカチに染み…ですか。ええと…」

 唐突すぎる修司の問いにも、夕子は真剣に答えを出そうと考えている。

「最近の漂白剤はかなり優秀ですから、絶対に消えない染みとなると…」

 ぶつぶつ言いながら、考えている。修司はおかしかった。きみのことだよ、と言いたくなる。

「墨汁…いえ、油性ペンでしょうか。口紅も落ちないと聞きます。あ、あと、カレーの染みは中々消えませんね。カレーうどんと白いシャツは絶対に共生できません。彼らは一緒にいてはいけない運命だと思います」

「運命って」

「それと、コーヒーも中々消えません。あとは、ええと」

「血は?」

 少しだけ低くなった声に、夕子は気づかなかったようだ。

「ちって…。血液ですか。落ちますよ」

 あっさり言われ、修司は肩透かしをくらった気分だった。

「え、落ちるの?」

「浸け置きでほとんど落ちます。あまりに時間が経っていたら完璧には落ちないかもしれませんが…。でもよくよく見ないと分からない程度には落ちます」

「なんだ。つまんないな」

 思わずそう言ったら、夕子の表情に影が差した。

「つまんない…ですか…。すみませっ!?」

 反射的に謝ろうとした夕子が、突然の衝撃に額を抑えた。修司が指で弾いたからである。

「あ、あの…。すみませ…」

「そうじゃないでしょ」

 弾いた指を、修司は夕子の眼前に突き付けた。

「誰もきみがつまんないなんて言ってないよ。きみはつまんなくないの。いい加減自覚しなさい。俺はただ、血がそんな簡単に落ちるなら、洗濯に張り合いがないなぁとそういう意味で」

「そうでしたか。失礼しました。でも、あの…。洗濯に張り合い、必要でしょうか?」

 真正面から聞かれ、修司はしばし考えた。

「…生きていれば、洗濯に張り合いの一つや二つ必要になる日も来るよ。たぶん」

 沈黙が落ちる。

「そ、そうですね。たしかに、何事にも緊張感を持って当たるというのは正しいと思います。私にも、普段から気を抜かないようにしろと、そういうことですよね。たとえ染み抜き一つでも」

 修司は再び考えた。それは一秒にも満たなかった。彼は笑った。

「うん、そう。それ。そういうこと」

「若い男女が朝から染み抜き談議か。もうちょっと色気のある話は出来ないもんかね」

 二人の頭上から声が降ってきて、顔を上げると寺川がいた。

「あ、寺さん。おはようございます」

「おはようございます」

「おう、おはよう。で、なんで染み抜きの相談なんかしてんだ」

「あー、なんか、白いものは汚したくなるなぁとか、そんな流れで」

「え、そんな流れでしたか?」

「そりゃどんな流れだよ」

「だからあんな流れだったんですよ」

「渡辺さん、その日本語はおかしいです。「あんな」というからには具体的に「どんな」ことがあったのか説明しないと」

 この時点で真顔なのは夕子だけだ。

「日本語は確かに難しいですが、我々日本人が日本語を諦めてはいけないと思うんです」

 ここでこの一連の会話は全部冗談だと告げたら、夕子はどんな反応をするだろうと修司は考えた。小言でもくれるだろうか。それともわたわたするだろうか。それはそれで見てみたい気もするが、想像通りの反応をされてもあまり面白くない。

「どうするのがいいかなぁ…」

 夕子をいたぶる手段については、まだ考え中だ。この四角四面で性格にアイロンがかかった女を、それこそ洗濯したまま放置されたハンカチのようにくしゃくしゃにしてみたい。

 最終的にぷちっと潰す瞬間は、ほかのどんな事象よりも甘美な瞬間に思えてならなかった。

 昏く歪な欲望を隠して、修司は今日も笑うのだ。

 修司自身が平和の綻びだと、解っていながら。

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