潰してみよう。
「…誘拐、ねぇ…」
ぼそりとつぶやく修司に重なるように、夕子は警戒心をむき出しにして男を見る。
「あなたはいったい誰なんですか」
「真面目にお堅く成長して、末が刑事か。いいな、それ。かつての誘拐被害者の女の子が健気に守る側やってるなんて、いいネタになるよ」
ずいっと、男は夕子に顔を近づけた。
「あんた、おれと一緒に出版社へ行かないか? ちょっとしたコネがあるんだ。報酬の半分くらいはくれてやるからよ」
修司は目を細めたままだ。夕子を庇おうとはしない。彼にとって夕子は庇護の対象ではないからだ。そこで制止を掛けたのは、ずっと黙っていた相沢だった。
「あなた。その辺にしておきなさい」
「あ? 黙ってろよ、たかが警備員が」
「あなたこそ黙りなさい。彼女は被害者よ。これ以上追い詰めないでちょうだい。黙らないならあなたを詐欺罪で告訴するわ。偽の名刺を掴まされたって。この名刺には指紋もばっちり付いているしね。なんなら、高林洋子に対する犯人隠避罪も付けるけれど、どうする?」
数秒のにらみ合いのあと、男は面白くなさそうな顔で夕子から離れた。
「帰りなさい。高林洋子は送検になるでしょう。今度来るときは堂々と弁護士としておいでなさい。そう出来ないなら、この件にも夕子ちゃんにも二度と立ち入らないでちょうだい」
厳しい顔と口調で言われ、男はもう一度舌打ちする。
「あなたは誰なんですか。答えてください」
夕子の言葉にも、男は不貞腐れた様子を見せるだけ。その瞬間、修司は思い当たった。この様子、そっくりではないか。
「あなた、もしかして柳瀬さんですか。高林洋子のお兄さん?」
男は、ふんと鼻を鳴らした。
「さっきから鋭いね、兄ちゃん」
それは問いかけに対する是だった。
ああ、と夕子が声を漏らす。
「そういえば…。なにかの折りにお兄さんがいるということは聞いていたような気がします。失念していました。弁護士になっていたんですか。でも確か、お兄さんは東京へ出て行ったと」
「東京で弁護士事務所クビになったんだよ。見りゃ判るだろ」
「お兄さんならご存知ですよね。洋子さんは、ご主人からなにか酷い目に遭わされているんじゃないんですか?」
その言葉に、嗤い出したい気分になったのは修司だ。
ここにきて、夕子はまだ洋子の心配をしている。これを嗤わずになにを嗤えばいいというのか。
しかし実際に嘲笑したのは修司ではなく、柳瀬兄の方だった。
「暴力は絶対にないから安心しな。お優しい同級生が心配してくれてたって伝えとくよ」
「どうして言い切れます」
「あんたが出版社に付き合うってんなら教えてやってもいい」
「あなた、いい加減に――」
「暴力をふるえるような状態じゃないから、じゃないのかな」
止めようとした相沢にかぶさるように、口を挟んだのは修司だ。全員の視線が彼に集まる。
「どこか心身に支障をきたしていて暴力をふるえないか…。ひょっとして、介護が必要な状態なんじゃないの?」
「お前、なんでそれ…」
驚愕した柳瀬に、修司は意地悪く笑って見せた。
「それを教えてやるほど、俺もお人好しじゃないんで」
先ほど柳瀬が放った言葉を、そのまま返してやる。柳瀬はあからさまにむっとした顔を見せた。ますます妹とそっくりだ。
「そろそろ本当に出て行った方がいい。兄がいかさま弁護士で妹が窃盗犯なんて、さっきも言ったけど笑い話にもならないよ。それとも…」
修司はゆっくりと続けた。
「俺に対する暴行罪で逮捕されたい?」
「暴行だと?」
「腐っても弁護士なら知ってるだろ。暴行罪は、相手を驚かすつもりで目の前に石を投げただけでも成立する。今すぐここから出て行くなら、俺の襟首掴んだことは忘れてやってもいい。捕まるか出ていくか、好きな方を選びなよ。ま、決めるのは俺だけど」
怒りで顔を真っ赤にしていた柳瀬だが、やがてソファを蹴り飛ばすようにして出て行った。ドアがばたんと閉まる。
男の気配が完全になくなってから、夕子が息を吐いていた。
うつむく夕子を、修司は細めた目で見降ろしている。と、夕子が顔を上げた。彼女と目が合う瞬間、修司の表情がいつもの飄々としたものに代わる。
「あの、渡辺さん」
「んー?」
「どうして、本物の高林さんに介護が必要だと分かったんですか?」
「ああそれ、わたしも聞きたいわ」
夕子からの当然の疑問に、相沢も乗ってくる。面倒くさがらずに、修司は答えた。
「総合的に考えた結果だよ。なんで離婚しないんだろうって不思議に思ってたんだけど、しないんじゃなくて出来ないのなら説明が付くなと。というか、さっき夕子ちゃんの言葉にあいつ自身が言っていたしね。「出来ねぇよ」って。「しねぇよ」ではなく」
「確かに…」
「それで、高林氏は奥方の万引きを諫められない状態にあると仮定したんだよ。兄とはいえ、あんなチンピラ弁護士にもみ消しを依頼することしか出来ない。あの兄貴のことだから法外な値段を吹っかけてくるだろうに。つまり金はあるんだ。なのに離婚はしていない。奥方の万引きが会社にばれたら出世どころじゃないのにね。万引きを黙認してもなお傍に置いておきたいと思うほど魅力的な女にも見えないし」
これはつまり修司の好みではない、というだけのことだが。夕子も相沢も口を挟まずに聞いている。
「ってことはもう、高林氏は自分の意思を通すことも出来ないんじゃないかなって考えたんだ。最悪、植物状態で話すことすら出来ないのかもしれない。彼は、名刺では建築会社の専務ってことになってるけど、あの兄貴を見た時からあんな大手の専務にしては若いなと思ってたんだよね。いや、あいつはさっき彼を差して「洋子より歳も立場も下」とか言っていたから、同級生の夕子ちゃんよりも若いってことだ。いささか若すぎる。会社経営陣の親戚かなんかで飛び級出世という可能性も考えたけど、それならチンピラ弁護士とは縁を切りたがるはず。もみ消し依頼なんかしない。名刺なんか絶対に貸すはずがない。それでも、事実として名刺は持っていた。多分本物。名刺の偽造なんかしたら罪状が増えるからね。なら、残る可能性は?」
あ、と相沢が声を発した。思い当たったらしい。同時に夕子も気が付いたらしく、もしかしてとつぶやいた。
「会社が手掛ける建築現場で事故に遭って、障がいが残ったのなら納得できる。彼は事故の代償に昇進したけど、もう離婚届にサインも出来ないんだよ。たぶん」
相沢が何度もうなずいた。
「大手建築会社勤務で、もともと高給取りで、それに加えて会社から事故の補償金が出るなら、洋子の方は完全に自由ね。離婚する理由が無いわ」
「で、でも!」
夕子は声を上げた。
「さっき渡辺さんは言っていましたよね。洋子さんに質素な生活を求めている誰かがいるって」
「言ったね。あの時点では旦那だと思ってたよ。けど今はそうは思わない。……夕子ちゃん、高林洋子が財産もしくは遺産目当てで離婚せず、それなのに介護もろくにしていないとしたら、一番業腹なのは誰だと思う?」
夕子は考えるそぶりを見せた。それはほんの一瞬だった。彼女も頭の回転は速い方なのだ。だからこそ、柳瀬兄の演技に気が付いた。
「…ご主人の、実家のご家族…?」
修司はうなずいた。
「そう。舅や姑、もしかしたら小姑とか甥姪とか。そういう人たちが定期的に敵情視察に来るんじゃないかな。遺産を盗られないように、彼らの前では質素で誠実な良い奥さんを演じなきゃいけないんだよ」
「で、でも、わざわざそんな日に万引きなんて…」
「そんな日だからこそってこともあるよ。嫌なことを乗り切るために、先に発散しておこうとした、とか。そもそも敵情視察は明日なのかもしれないし」
もっとも、物心ついた時から周囲の大人たちに自分を演じてきた修司にしてみれば、高林兄妹の演技には「甘い」と断じるほかないのだが。
「わたし、本人に確認してきます!」
走り出そうとした夕子の手首を、修司は掴んだ。
「確認してどうするの」
「どうって…それは」
「別に彼女は、旦那に対して法を犯してるわけじゃないでしょ」
「でも彼女は、さっきわたしにDVだと」
「言った? 彼女が、はっきり旦那に暴力をふるわれているって? 言ったなら偽証になるけど」
「………」
夕子はしばし黙ってから、弱弱しく首を振った。
「…言って…いません」
その答えに、修司も夕子の手首を放した。
そう。DVという言葉を使ったのは夕子だけで、洋子自身は暴力をふるわれているとは一言も言っていない。夕子の誤解を訂正しなかっただけで、それが意図的であるにしても嘘は吐いていないのだ。「今は」怪我していないのも本当だ。「過去にも」怪我をするようなことはされていなかったと教えてやる義理は、洋子には無かったのだろう。
完全に、夕子は洋子の掌で踊らされていたわけだ。
「あの女、性根が腐ってるわね」
面白くなさそうに、相沢がそう言った。
「同感です。送検が多少はお灸になるでしょう。すみません、相沢さん。付き合わせてしまって」
「いいのよ。こういう緊張感も久々だわ」
修司に答えてから、相沢は腕時計を確認した。
「もう戻らなくちゃ。――夕子ちゃん」
「は、はい」
「そんな人間には、もう関わらなくていいわ。時間の無駄だから放っておきなさい。わたしはもう行くけど、本当に、いつでも連絡してね。なにか美味しいものでも食べに行きましょう」
夕子がうなずくのを待ってから、相沢はにっこり笑って去っていった。
そうして、応接室に二人が残る。
修司は、力なくうなだれる夕子を見下ろした。
「誘拐…ねぇ」
ぼそりとつぶやくと、夕子は肩を震わせる。
顔を上げない夕子に、修司の声のトーンはいつもと変わらない。
「さっき寺さんが話すかって聞いてたのは、このこと?」
「はい」
「で、寺さんも相沢さんも当時の担当捜査員だったわけだ。もしかして課長も?」
「そうです」
消え入りそうな声で答える夕子は、本来の体格よりもずっと小さく見える。
この小さな生き物を、修司は自分の手でぷちっと潰してしまいたい衝動に駆られた。潰される時、彼女はどんな声を上げるだろう。それを想像するだけで、黒い笑みがこぼれそうだ。
「大変だったんだね」
修司は優しく微笑んだ。
潰してみよう。
ただ、潰すならもっと張りのある時がいい。
優しくして、元気にさせてから、急に掌を返して潰してみよう。その鳴き声を、耳元で聞いてみたい。
ひそやかな楽しみを胸に、修司は微笑んでいた。