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花嵐の夜  作者: 露刃
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かわいそうな夕子ちゃん

 その後、高林洋子は、すべて修司の言う通りだと素直に罪を認めた。その豹変ぶりには夕子も戸惑うほど。

「で、旦那はなんて?」

「すぐに来ると言っていました。三十分ほどで到着するとのことです」

「ふぅん」

 夫の連絡先も素直に白状し、夕子が連絡したのだ。暴力を受けているなら夫のもとには返せない。だが逮捕されている以上、家族に連絡をしないわけにもいかない。夫が到着したら、夕子は二人で話をするつもりだった。民事不介入が警察の原則とはいえ、放っておくという選択肢は夕子には無い。

 そうして、きっちり三十分後。夕子よりもだいぶ年かさの男が受付の女性警官に案内されて刑事課にやってきた。

 トレンチコートの下に嫌味なくスーツを着こなしたその男は、高林健吾と名乗った。夕子たちよりも一回り年上だという。

「妻がご迷惑をお掛けしました」

 夕子が自己紹介すると、うなずいた彼は開口一番、そう言って深々と頭を下げた。ぱっと見では、洋子に暴力をふるうような男には見えない。だが、前述のとおりヒトは見かけによらない。

「妻を捕まえた警備員さんというのは…」

「応接室にいます。彼女からも聴取が必要ですので」

「そうですか。いや、本当にご迷惑をおかけして申し訳ない。ご挨拶は出来ますか?」

「聴取が終われば可能です。もうそろそろかと思います」

「ではご挨拶をさせていただいてから、デパートへ行ってお詫びをしてきます。妻が万引きしたフロアはどこでしょうか。盗ったという財布の値段に見合うお詫びをしなくては」

 高林からの質問に答えながら、夕子はどこか違和感を覚えていた。暴力性を感じないからではない。他人の前では穏やかで、裏の顔では暴力性が高いという人間はいくらでもいる。そうではなく、この男はどこか、違和感があるのだ。

「高林さん、わたし、実は洋子さんの同級生なんです。高校まで」

「そうでしたか。いや、同級生がこんなことになって、あなたもショックでしょう。申し訳ない」

「それは謝ってもらうことではありませんが…。あの、彼女は前にもこういうことが?」

「ええ。お恥ずかしながら…。なんというか、一種の病気のようで。心療内科を勧めたこともあるのですが、本人が頑なに拒否いたしまして。しかしやはりまた繰り返してしまいました。本格的に手を打たなければ…」

 うなだれるその様子は、演技には見えない。しかし、違和感は募るばかり。

「あの」

 言いかけたところで、応接室の扉が開いた。聴取を取っていた修司と相沢が出てくる。にこやかに談笑していた二人に声を掛け、今度は高林を連れて四人で応接室に入った。相沢と高林を先に応接室に入れた修司に、夕子はそっと声を掛けられる。

「どうかした?」

「え」

「表情が硬い。あの旦那になんか言われたの?」

「あ、あの…。いえ、なんというか…」

 違和感があるのだと、夕子は答えた。その漠然とした言葉に、修司はふぅんと応じた。


 応接室は、ローテーブルを挟んで二人掛けのソファが向かい合っている。高林が奥に腰かけると、相沢が向かいに座った。夕子をその隣に座らせてから、修司は立っていることにする。高林の隣に座る気にならなかったということが一つ。もう一つは、彼を観察する為だ。

「………」

 もしかしたら、と思っている。

 手で口元を隠して、修司は口角を上げた。

 トレンチコートとマフラーを外した高林は、まず深々と頭を下げた。

「このたびは、妻がご迷惑をお掛けしまして…」

 頭を上げてから、修司たち三人に名刺を配る。高林は、大手建築会社の専務という肩書だった。

 相沢が自己紹介をすると、高林は「あなたが」と言って彼女を見つめた。

「大変申し訳ありませんでした」

「いえ。わたしは自分の仕事をしただけですから」

 前述の通り、相沢は姿勢が良い。高林の方がかなり背は高いはずなのに、座っているという状況を差し引いてもさほど差を感じさせない。

「相沢さん。詳しく状況をお尋ねしたいのですが、あなたは妻が財布を手に取るところを見たのですね?」

「はい」

「そして、バッグに入れるところも見た?」

「いいえ。その瞬間は見ていません。先ほど聴取でも話しましたが、私は奥さんの右手側から見ていて、バッグは奥さんの左手側にありました。ですので、財布を手に取るところは見えましたがバッグに入れた瞬間は見えなかったのです」

 高林の目が、一瞬光ったように見えた。修司の視線には気づかず、彼は続ける。

「しかしあなたは、妻に声を掛けた」

「はい。彼女は財布を手に取った後、棚に戻す動作はしませんでした。そこで店を出る彼女を追いかけ、バッグの中を確認しました。そこに、値札の付いた財布がありました。それで、今に至るわけです」

「それでは妻が本当に盗ったかどうか判りませんよね。誰か良からぬ輩にバッグに勝手に入れられたのかもしれない。ほかに怪しい人間はおりませんでしたか」

「店内には確かにほかのお客様もおりました。けれど、見るからに怪しい人物は見なかったように思います」

「見るからに怪しい人間なんて、そうはいませんからね。ちなみに、防犯カメラには、妻がバッグに財布を入れる瞬間が映っていましたか?」

「いいえ。角度的にはっきりは」

「では、警備員からも防犯カメラからも死角にあったということですね」

 やれやれ。

 修司は息を吐いた。ここまでにしてもらおう。

「高林さん」

 言ってから見下ろせば、修司を見上げる夕子と目が合った。彼女もまた何か言いたそうにしている。しかしヒトの話に口を出してはいけないとでも思っているのか、黙ったままだ。

 さっさとこの茶番を終わらせるために、修司は高林に視線を戻して続けた。

「つまり、奥さんは冤罪であるとおっしゃっているんでしょうか? 彼女は自白をしていますよ」

「その自白、信憑性はありますか?」

「はい?」

 高林は、修司をじっと見上げてきた。

「妻は大変に気の小さい女です。取調室に押し込められ、男性刑事に強く自白を迫られたら、やっていないことでもやったと言ってしまいそうです」

「気の小さい…ですか」

 修司は思わず吹き出しそうになったが、なんとか我慢した。

 高林は続ける。

「やはり、取り調べの可視化は早急に整備されるべきですね。まあ、妻に前科はありませんし、警備員が決定的瞬間を見たわけでもなく防犯カメラに映っているわけでもないなら、今回は不起訴処分でしょうが…。妻の傷ついた心を思うとやり切れません」

「なにを…おっしゃっているのですか?」

 そこで声を上げたのは、修司ではなく夕子だった。

「先ほど、奥さんには前にもこういったことがあったと…。心療内科を勧めているとおっしゃっていたじゃないですか」

「はて。こういうこと、というのはどういうことでしょう。誰も妻が前にも万引きしたとは言っていませんよ。いえ、これははっきり言わなかったわたしも悪いですね。妻には虚言癖があり、やってもいないことを自分がやったと言うことがあるのです。それで心療内科を勧めただけですよ」

「そんな。さっきはそんなこと」

「まあまあ、落ち着いて」

 反論しようとした夕子を、修司がにこやかに止める。

「こちらさんも、自分と奥さんの経歴に傷を付けまいと必死なんだよ。あまりに滑稽すぎてもはや気の毒じゃないか」

 わざと爽やかに言ってのけた修司に、高林がぴくりと反応する。

「奥さんの経歴に傷が付けば、自分の経歴にも傷が付く。大手建築会社専務の奥方が万引き常習犯なんて、笑い話にもならないからね。しかもさっきから聞いていれば警備員や防犯カメラの死角だの前科が無いから不起訴処分だの取り調べの可視化だの、重箱の隅を突くように粗探し。健気じゃないか。泣けてくるよ、笑いすぎで」

「わ、渡辺さんっ」

「こちらの方はね、起訴じゃなく送検そのものを見送らせたいんだよ。それで、色々聞き出そうとしてるの。デパートへ行くのもお詫びなんかじゃない。金色の菓子持って行ってどうか穏便にって言うだけなんだよ」

「渡辺さん…とおっしゃいましたか。いささか失礼な物言いでは?」

「あれ、事実と違いましたか?」

 修司が切り返すと、高林は一瞬言葉に詰まる。しかしすぐに反論した。

「もちろん財布代は支払うつもりです。それなりのお詫びもします。しかしそれはただの誠意。誤解があるなら解きたいというだけです」

 ふっと、修司は笑った。今度は堪え切れなかった。まだバレていないと思い込んでいるのが、おかしくて仕方がない。

「今まさに誤解を植え付けようとしている人がなに言ってんですか。誤解っていうかもう詐称ですよね。警察官と警察OBを三人も前にして、大した度胸だ。その度胸だけは認めてもいいかな」

「な、なにを…」

「本物の高林さんはどこです? まだ会社ですか?」

 今度こそ、高林――と名乗っていた男は固まった。

「渡辺さん、なにを言って…」

 問いかける夕子に、修司はちらりと視線を向ける。そうしてすぐに目の前で固まる男にその視線を戻した。

「その左手薬指の指輪。高林洋子のものと違いますよね。彼女は指輪を外していたからデザインまでは知りません。けど、彼女の指輪の跡とあきらかに幅が違う。それと、そのスーツの胸元。なにかしらのバッジを付けていた跡があります。警察署に入るから社章を外したのかとも思ったけど、会社を隠したい人間は名刺なんか死んでも出さないはず。…あなた、高林洋子が言っていた「身内の弁護士」ですね? それも、あんまり評判の良くないタイプの」

 一気にそう言うと、夕子や相沢が呆気に取られているのが分かった。

「会社が雇っている正式な弁護士じゃないんでしょう。本物の高林氏もしくは被疑者本人が個人的に依頼した、裏の弁護士。名刺を預かってくるあたり場慣れしているようですが、演技力が足りていませんよ。せめて「妻に会わせろ」くらいは言わないと」

 そう言ってから、修司は夕子を見た。

「きみが覚えた違和感の正体はこれだよ。こちらの自称旦那さんは、一度も高林洋子の状態を聞こうとしなかったんでしょ。拘留中の被疑者には、家族といえども会わせられない。このヒトは弁護士としてそれを知っているからなにも言わなかった。でもそれは、家族としては不自然なんだよね。……いや。それ以前に、心配する様子すら見せなかったんじゃないの?」

 呆気に取られていた夕子だが、やがてうなずいた。

 男はちっと盛大に舌打ちをした。それは、修司の推測が当たっていることを示していた。

「けど、分かりませんね。なんでそうまでして別れないんです? 彼女が常習犯なら、そろそろ高林氏も愛想を尽かしていてもいい頃でしょう」

「んなこたあんたに関係ねぇよ」

 打って変わってぞんざいな態度で、男は言う。その態度はまるで、どこかのチンピラのようだ。

「ああ、知らされてないんだ。まあ、身内と言えどもそこまで信用するには値しないでしょうからね」

 しれっと言い放った修司に、男が顔を引きつらせる。

「とにかく、あの女は連れて帰らせてくれ。どうせ起訴猶予だろ。送検するだけ無駄だ」

「猶予するかどうかを決めるのは検察ですよ。犯罪者は送検するのが我々の仕事です」

「検察だって送られても困るだろうよ。あんな小者なんか」

 修司はまた噴き出した。

「ああ、失礼。類は友を呼ぶって言葉が浮かんだもので」

「この…っ!」

 腰を上げた男が、修司の襟を掴み上げた。間に入ろうとした夕子を片手を上げることで制し、修司は挑戦的に笑う。

「資格剥奪直前の弁護士が、警察を騙そうとした挙句に警察署内で暴力沙汰? いいね、明日の一面をマスコミに提供してあげれば、弁護士として最後にヒトの役に立てるんじゃないですか」

 ぎりぎりと襟首を掴んでいた男だったが、やがてくそっと吐き捨てて手を放した。襟元を正した修司が、優雅に右手を伸ばす。

「どうぞ。お帰りはあちらです」

 歯ぎしりの音が聞こえそうな形相で、男は修司を睨む。そんな男に、夕子が質問を投げかけた。

「本物の高林さんは、どんな方ですか」

「ああ?」

「洋子さんになにか…。辛く当たっているようなことはありませんか? もしかしたら、彼女はそれで心のバランスを崩してこんなことを」

 夕子の言葉に、男は声を上げて笑った。

「なんだそりゃ、暴力ってことか? ありえねぇな。そんなこと、あの小僧は出来ねぇよ。歳も立場も洋子より下だからな」

「あり得ないと言い切れますか? 何故ですか?」

「それを教えてやるほどおれもお人好しじゃねぇ。なんだ、あんた。警察は民事不介入だろ。ずいぶんお優しいな。同級生が心配ってか」

「いえ、それは…」

 夕子は言葉に詰まったが、すぐに顔を上げた。

「彼女になにか大きなストレスがあるなら、それを取り除かない限りずっとこんなことが続いてしまいます。誰の為にもなりません」

「はっ。誰の為にも…ねぇ。まるで正義の味方だな」

 馬鹿にしたように、男は笑う。

「心療内科を勧めたというのも嘘ですか? 彼女はなにか心に問題を抱えているんじゃないですか?」

 畳みかけるように言う夕子の肩に、修司が軽く手を置く。

「夕子ちゃん。それは本人の問題でしょ。病気は、自分が治そうと思わないと治らないよ」

「でも」

「…ゆうこ…?」

 そこで、男が笑いを引っ込めた。神妙な面持ちで夕子の顔をじっと見る。

「おい、あんた確か神崎って名乗ったよな。あの神崎夕子か? 洋子の同級生の神崎夕子?」

「そうですが…。あの、というのは」

 軽く身を引きながら夕子が答えると、男は盛大に笑い出した。

 呆気にとられる面々に、男は一通り笑い終えると夕子の顔を指さした。

「そうか、あんたがあのかわいそうな夕子ちゃんか!」

 修司の目がすっと細くなる。誰もそれに気付かない。

「あの…」

「あの時は大変だったなぁ、夕子ちゃん。誘拐されるわ親に身代金支払い拒否されるわ空き地に放置されるわ犯人は捕まらないわ親は結局離婚だわ。そんでクソ真面目になって自分だけは清く正しく生きようって決めたんだっけなぁ!」

 夕子が固まった。

 固まった夕子を、修司はただ後ろから見下ろしていた。

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