軽い天然記念物
修司が署に戻ってくると、夕子と寺川の姿が無かった。それはどうでもいいが、何故か課長の表情も硬い。これは面倒くさいことになりそうだと内心で思っていると、後ろから二人分の足音がした。思った通り、席を外していた二人だった。
部屋に入ってきた夕子が、うつむきがちだった顔を上げた瞬間に目を丸くした。修司に対してではない。何故なら夕子は、修司の横にいる、被疑者の女を見ている。
「あ…」
思わず、といったような声を夕子が上げた。
「やだ、あんた…」
被疑者の方も夕子に気が付いた。
「神崎? 神崎でしょ?」
女は、赤い唇を歪めて笑った。
修司は黙って二人を交互に見た。どうやら知り合いのようだが、あまり嬉しい再会でもないだろう。なにせ、刑事と被疑者だ。
「知り合い?」
夕子を見下ろしながら聞くと、彼女は小さくはいとうなずいた。
「柳瀬洋子さんです。小学校から高校まで、同じ学校に通っていました」
「へぇ。そうなの」
「まあ、たまたま学校が一緒だったってだけなんだけどねー」
「万引きって…。あなたが?」
戸惑いがちに問う夕子に、洋子はあははと場違いに笑う。
「実家の親から聞いてはいたけど…。あんた、本当に刑事になってたの? 真面目すぎて笑うしかないんだけど。ねぇあんた、刑事ならちょっと話聞いてよ」
馴れ馴れしく話しかけている洋子とは対照的に、夕子の表情は硬い。
「もちろん話は聞きます。これから、取調室で」
「だからそうじゃなくて。あたし、万引きなんかしてないんだってば」
「ええ。ですから、それを取調室で伺います」
「やだもう、相変わらずつまんない。友だちなんだからさー、そんなことするはずないわよねって言って解放してくれたらそれでいいのよ」
「…昔、わたしのことを友だちじゃないと宣言したのはあなたですが」
「ああ、言ったっけ。まあどっちでもいいわ。友だちじゃなくても同級生が困ってるんだから助けなさいよ。刑事ならそれくらい出来るでしょ?」
「そんなわけないでしょう」
そこで口を開いたのは、女性警備員だ。修司とはすでに交番で名刺交換をしている。名を、相沢という。元警察官とあって、とても姿勢がよく、はっきりとした口調の女性だ。警察を退官して再就職ということはそれなりの年齢のはずだが、若々しくてそうは見えない。現役と言われても誰も疑わないだろう。
「あなたは現行犯で捕まっています。防犯カメラにも映っています。すぐには解放出来ませんって何度言ったら分かるの?」
「おばさん、うるさい。あんたさっきから本当にうるさい」
不貞腐れたように、洋子は口をとがらせる。課長が厄介な相手だと言っていた理由を、修司はすでに理解していた。交番の駐在が手を焼くわけだ。
「同級生、ねぇ…」
修司はつぶやいた。先ほど、駐在から大体の身元は聞いてきた。身分証と言えるものは無かったが、バッグの中身も確認したし、年齢は本人から聞いた。だがこうして夕子と洋子が並んで立っていても、同級生には見えない。夕子が童顔というわけではなく、洋子の化粧や服装が派手だからだ。
「ねぇ、刑事さん」
不貞腐れていた洋子が、そっと修司の腕を撫でた。飾り気のない爪が、二の腕まで上がってくる。
「あたし、立ってるの疲れちゃった」
しなだれかかってくる洋子に眉一つ動かさず、修司はそれを無視する。口を開いたのは、夕子に対してだった。
「夕子ちゃん。もしかして、これが「ヒトを見る目が無いヤツ」?」
「え、あ…」
「おい、そらぁどういうこった」
静観していた寺川が修司に尋ねる。
「なんか、夕子ちゃんのコトをずっと「つまんない」とか言ってきた無礼なヤツがいるらしいんですよ。そいつヒトを見る目が無いねーって話を前にしたんですけど」
「あー確かにそりゃ見る目が無いな。うん、無い。皆無だ」
「ですよねぇ? こんなに面白い子に「つまんない」ですよ? アホかと思いました。というかアホですよね」
「アホだな。正しいぞ、渡辺。非常に正しい」
修司と寺川の会話を聴きながら、夕子は目を丸くしている。もしかしたら、修司があの時の会話を覚えていることが意外だったのかもしれない。確かめようとは思わないが。
一方で、面白くなさそうな声を上げたのは洋子のほうだ。
「ちょっとぉ。なにヒトを無視してんのよ。神崎、あんた相変わらずつまんないクセに男に取り入るのだけうまくなったわけ? サイッテー」
「え、そういうわけじゃ」
「本当つまんない。あんたがここにいるだけで腹が立つんだけど。しかも刑事とか。クソ真面目にもほどがあるっつーのよ」
「柳瀬さん。そういう態度を取っていても心証が悪くなるだけです。きちんと反省しないと、釈放からはますます遠ざかります」
「だから、そうやってつまんないこと言うなって言って…痛っ!」
夕子に詰め寄ろうとした洋子の腕を捩じり上げたものがいた。
「おっと、失礼」
修司だ。
「ちょっと、なにすんのよ!」
「なにって。逃亡しようとしていた被疑者を確保したんだけど」
「誰も逃げようなんてしてないでしょ! 人権侵害で訴えるわよ!? あたし、身内に弁護士がいるんだから! 謝罪じゃ済まさないわ!」
「いやー、だって俺には逃亡しようとしているように見えたから、つい。ねぇ寺さん、逃亡を謀ろうとしているように見えませんでした?」
しれっと言う修司に、先輩刑事は一瞬呆れたようにしてから返答した。
「見えたな、見えた。うん、逃げようとしてた。つまりこれは公務だな」
「ほら、俺の気のせいじゃないみたいだよ」
「ふざけんじゃないわよ、警察がそんなことして許されると思ってるの?」
「はいはい。じゃあ取調室行こうか。夕子ちゃん、立会い頼むね」
突然の出来事に目を見開いていた夕子は、それでもはいとうなずいた。それからじっと修司を見上げてくる。
「ん? なに?」
「…彼女、逃げようとしていましたか? 今…」
「……えーと」
「すみません、わたし、まったく気が付きませんで、反応が遅れました」
「いや、夕子ちゃん」
「いくら彼女のことが苦手でも、目の前で逃げようとしていたことに気が付かないなんて…。もしもここにいるのがわたしだけだったら、被疑者に逃げられていたかもしれません」
夕子からは血の気が引いている。本気でそう思っているらしい。
すみません、と頭を下げる夕子を見て、返答に困ったのは修司と寺川だ。
「……どうしましょう」
「知るか。男なら自分の言動に責任を持て」
「責任感に男も女も関係ありませんよ。というかずるくないですか、それ」
小声で話す男二人に、夕子はますます表情を硬くした。
「申し訳ありませんでした。私情を挟んで逃亡に気付かないなんて…」
「だから逃亡なんてしてないって言ってるでしょう!」
「うん、そうかもね」
喚いた洋子に、修司が急に声を明るくする。
「すみません、俺の勘違いでした。ははは、痛かったですか? 湿布張りましょうか?」
「いやいや渡辺。湿布はおれが用意してやろう。おまえらは取り調べに行け。おれも勘違いしたしな、うん」
「勘違いで済まされると思ってるの!? 絶対に訴えて…っ」
さらに喚こうとした洋子は、しかしそこで止まった。
おぞましいほどに冷たい瞳が、彼女を見下ろしていたからだ。
「渡辺さん?」
夕子に振り返った時にはすでに修司はいつもの軽薄そうな表情に戻っており、へらりと笑った。
「じゃあ寺さん、湿布はお願いします。行こう、夕子ちゃん。逃亡は俺たちの勘違いだから、きみが謝るコトはないよ」
「え、え? でも」
勘違い勘違いと笑いながら、洋子を引きずるように取調室へ進んでいく修司に、夕子も慌てて後を追う。
「あの、渡辺さん」
「夕子ちゃん、自信を持て。君はどうあがいても面白い子だ。軽く天然記念物だ」
「それは…、褒め言葉ですか?」
はははと笑う修司に首をかしげながら、それでも夕子は後をついてくる。
「ねぇ、あなた」
と、取調室に向かう夕子に声をかけてくる者がいた。相沢だ。
「は、はい?」
「神崎、夕子ちゃんよね?」
「はい。そうですが…?」
ただならぬ女性警備員の気配に、修司もちらりと振り向いた。
うなずいた夕子に、相沢はそう、と口の中でつぶやいたようだった。
「あの時の、夕子ちゃんね。刑事になったとは聞いていたけど…」
……あの時の?
なんだろう。寺川といい課長といい相沢といい、夕子の周囲がなにかおかしい。
相沢は、ゆっくりと夕子に近づいている。
「大きくなったわね。立派になって…」
労わるようにそう言われて、夕子もなにか思い当たったらしい。
「もしかして…。あの時、捜査の担当をされていた刑事さんですか」
「ええ。相沢聡子と申します。…ごめんなさいね。結局、時効になってしまって」
「いえ…」
「今度、ゆっくりお茶でもしましょう。連絡先は課長の神崎くんに伝えておくから、都合のいい日を教えて。引き留めてごめんなさいね。さ、取調室へ」
送り出すように背中を押され、夕子は修司に追いついてきた。
あの意味不明な手紙に、「あの時」「捜査」「時効」という楽しくはない言葉。
何かの前触れのような気がしてならなかった。
それでも、修司には何も関係が無い。どうでもいい。
どうでもいいと思っていた。
この時点では。