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花嵐の夜  作者: 露刃
3/25

手紙

 季節は廻る。紫陽花は、咲いたと思ったら枯れていた。向日葵は、存分に存在感を発揮してからうなだれた。彼岸花は、毒々しいまでの紅を焼き付けてから斃れていった。コスモスは、愛らしさを遺して踏み潰された。今はもう、寒椿がつぼみを膨らませている。

 結局、紫陽花の時期は忙しくて花見どころではなかった。それに、修司と夕子は休みが合わなかった。

紫陽花が完全に枯れてしまってから、修司は夕子に「残念だったね」とだけ声を掛けた。夕子はずっと修司を見ては申し訳なさそうな、けれどどうすればいいのかと困ったような表情を向けていた。その表情を自分が作ったのだと思うと、修司は愉快だった。それでも仕事は完璧にこなしていたのだから、中々芯のある女性だ。ただ、雑談タイムになると修司を意識していることが面白かった。その表情は怯えにも似ていて、修司は満足した。自分の言動で他人が右往左往している様は、こんなにも面白い。

 そうこうしている間に、年が明けた。せっかく咲いた寒椿は、首を落として雪にまみれた。

 どうせ散るなら咲かなければいいものを。


 現在、美鷹署の刑事課には、二人の神崎がいる。神崎夕子と三課課長の神崎博之だ。二人に血縁関係はなく、偶然同じ苗字なだけなのだが、古参のとある刑事が「ややこしい」と一言発した為に夕子が下の名前で呼ばれることになった。

 夕子の身長は百六十センチほど。そこに少し高さのある靴を履くので、仕事中はプラス五センチの高さになる。漆黒の髪は、下ろせば肩につく程度。仕事中は一つにきっちりまとめている。仕事内容によってはラフな服装も必要になるが、基本的にはいつもスーツだ。動きやすいパンツスーツを着てきて、何があってもいいようにロッカーに一着予備も置いている。制服も置いている。こちらはめったに着る機会はないが。今の寒い時期は、チェスターコートも椅子に掛けている。出動要請が来てからロッカーに取りに行っていては遅いからだ。

 同じく、修司もオーバーコートは椅子に掛けている。彼の場合はそっちの方が早く帰れるからだ。

「夕子さん、郵便が届いています」

 修司が珈琲を片手に席に戻ろうとしていると、総務課の女性が夕子に封筒を手渡ししているところだった。わざわざ立ち上がって礼を言ってから、夕子はそれを受け取った。どうでもいいが、総務課の人間までいつの間に夕子を名前で呼ぶようになったのだろう。修司には関係無いので、特に訊ねることは無いが。

 夕子が受け取ったのは、なんの変哲もない、どこにでもある長3サイズの茶封筒に見えた。机の上に珈琲を置いてからなんとなく彼女を見ると、宛名書きはパソコン打ちだということが判った。夕子はそれを裏返してから首を傾げている。差出人の名前が無いのだ。

 やがて夕子は、ペーパーナイフを使って封を開けた。中に入っているのは手のひらに収まるほどの小さな紙切れだ。二つ折りにされたそれを開くと、なにかがひらりと落ちてきた。目で追うと、それはなにかの花びらのようだ。色褪せていてなんの花びらなのかは判らない。

 もう一度首を傾げつつ、彼女はそれを拾う。それから改めて、折りたたまれた紙を広げた。夕子の背中が壁になって、修司からはその内容が見えない。

 それでも、夕子がひゅっと息を飲んだのが分かった。全身に力が入っている。そのまましばらく経ってから、修司はやっと声を掛けた。「普通の同僚」なら、声を掛けるのだろうから。

「夕子ちゃん、どうかした?」

 名前を呼ばれて、彼女はびくりと肩を震わせた。それから、ゆっくりとした動作で振り向く。おや、と修司は思う。彼女の顔色が白い。

「顔色悪いよ。貧血? 駄目だよー、ご飯はしっかり食べなきゃ」

「……あ、いえ、あの…」

 震える唇で、夕子は言葉にならない音を発する。その動揺ぶりから、軽口を叩いている場合ではないようだと修司は判断した。声のトーンを少し低くして、訊ねる。

「どうした?」

「あの、これ…」

 紙切れを握る両手に力が入って、くしゃりと音がした。

「なにそれ」

「あ、いえ!」

 がたんと音を立てて、夕子は立ち上がった。その勢いに、一歩引いたのは修司の方だ。

「そこの二人、どうしたー?」

 声をかけてきたのは、古参の刑事だ。修司の向かいに席のある彼の名を寺川という。彼こそが、「ややこしい」の一言で夕子を名前で呼び始めた刑事である。

「夕子ちゃん、渡辺になんかされたなら被害届受理するぞー」

「寺さん、俺をなんだと思ってるんです。なんかするならもっとばれないようにしますよ、俺は」

「いえ、違うんです、渡辺さんは声をかけてくださっただけで、被害なんてなにも」

「ほら、真に受けちゃってるじゃないですか。いたいけな女性警官をからかって悪い先輩ですよね」

「お前に言われたくないわ」

 この程度の応酬はいつものことだ。立ち上がったまま、夕子が息を吐くのが分かった。その瞬間。

「あっ!」

 修司は隙をついて夕子の手から紙切れを奪った。

「わ、渡辺さん!」

 取り返そうとする夕子の手をするりと躱し、修司は紙切れを自分の頭上にかざした。二人には十五センチほどの身長差があるので、夕子には奪い返すことが出来ない。

 紙切れには、たった一行パソコンで書かれた文字があった。


――六月十日


「……「六月十日」? なにこれ、暗号?」

「そ、それはたぶん、なにかのいたずらで…」

「日付だけ書いて寄越すのがなんのいたずらになるの?」

「それは、ええと…。いえ、それよりも、他人宛の郵便物を勝手に見るなど」

「六月十日?」

 もう一人、その日付に反応するものがいた。寺川だ。座っていた席を立ち、ずかずかと歩み寄ってきて修司が持つ紙切れを覗き込んだ。まじまじと紙切れを見つめてから、眉を寄せて口を開く。

「この日付っていやぁ…」

「寺さん、なにか心当たりがあるんですか」

「夕子ちゃん宛ての郵便物なんだな?」

 修司には答えず夕子に聞いた寺川に、夕子は小さくうなずいた。諦めたらしく、紙切れが入っていた封筒も渡す。ベテラン刑事の寺川は、それをハンカチで受け取った。

「いたずらにしちゃあ、笑えねぇな」

「……はい。あれはもう、時効も…」

「時効?」

「あ、いえ、あの…」

「いまさら、なんだってんだろうな」

「ちょっと、なんで二人だけ納得してるんですか。六月十日がどうしたんです?」

「どうしたっつーか…。夕子ちゃん、どうする。話してもいいか?」

 黙り込んだ夕子の顔を、寺川が覗き込んでいる。二人の視線が自分には向いてないことを確認した上で、修司は目を細めた。あーあ、と声には出さずに口だけを動かしながら。


――失敗した、かもしれない。


 その冷たい目に気付かれる前に、修司はへらりと笑ってみせた。

「まあ、そんな話しにくいことならいいですよ。夕子ちゃん、悪かったね」

 ぽんと夕子の肩に手を置いたが、よほど動揺しているのか夕子はなにも答えなかった。

 修司が自分の席に戻ろうとした瞬間、課長の机上にある電話が鳴った。なんてことはないいつもの電話なのに、夕子はやはり大げさなほど身を竦ませた。

「夕子ちゃん」

 寺川が心配そうにしている。別に修司は気にならなかった。修司が気にするのはいつも妹のことだけで、妹と自分に害の無いことは森羅万象どうでもいい。

 課長の神崎が電話を取り、少し話して受話器を置く。呼ばれたのは修司たちのいる三課だった。これ幸いと、修司はいまだ固まっている夕子から離れて課長席へ行く。

「お取り込み中でしたか?」

 部下が相手であっても丁寧語で話す壮年の神崎課長に、修司はにこりと笑った。

「いえ、全然」

「では、美鷹駅前交番へ行ってきてもらえますか」

「交番?」

「はい。ショッピングモールで万引きをして捕まった女性が、だいぶ厄介な相手だそうで。駐在さんが手を焼いています。反省の色なし。かなり悪質で、余罪がある可能性もあります。迎えに行ってあげてください」

 修司たちが所属する捜査三課は、主に窃盗、すり、空き巣、ひったくりなどの事件を担当する。小さな所轄署なので人数は少ない。

 修司はやれやれとため息をついた。

「迎えに行くなら万引き犯よりも万馬券のほうがいいですね」

 修司の言葉に、課長は困ったように笑った。

「僕もそう思いますよ。万馬券が当たれば、みんなで美味しいものを食べに行きたいですね」

 いや、俺は妹と贅沢が出来ればほかの人間はどうでもいいです。

 とは言わず、修司は口の端を上げるだけにとどめた。

「ちなみに課長、競馬のご経験は?」

「生まれてこの方、博打の類をしたことがありません。保守的に生きています」

「健全な生き方ですよ」

 修司は笑ってそう答えた。そんな修司に、神崎課長は続ける。

「それと、今回は婦警の同行は必要ありません」

「え、でも」

「被疑者を捕まえたデパートの警備員さんが女性で、しかも警察OBです。偶然、僕の先輩にあたる方で、彼女に同行してもらうことになりました。取り調べの時だけ婦警に同席をお願いします」

 被疑者に対応するのは必ず二人以上で、さらに相手が女性被疑者の場合は婦人警官も同行することになっている。別に法律でそう決まっているわけではないが、後になってセクハラ行為を訴えられない為の暗黙のルールだ。三課にいる女性警官は夕子だけなので、必然的に夕子は誰かと組むことが多い。その夕子の手がふさがっている場合は、ほかの課や係に応援を頼むことになっている。

 修司は心の中で安堵していた。今の状態の夕子と二人になるのは面倒くさい。

「んじゃ、行ってきます」

 椅子に掛けてあるオーバーコートを手に取り、いつものように軽く言ってから、刑事課を出た。しかし、いつものような行ってらっしゃいの声は聞こえなかった。夕子が固まっていたからである。

 ああ、そういやまだ固まっていたんだっけ。後から思ったがどうでも良かった。夕子と寺川、二人には目もくれなかった。


 修司が出て行ってから十分ほど。

夕子は落ち込んでいた。

 私情で取り乱し、出ていく同僚に行ってらっしゃいの一言すらも言わなかった。挨拶だけは、どんな時でも欠かしたことは無かったのに。

 夕子たちは刑事だ。殺人事件や強盗事件を扱う一課よりは凶悪事件と出会うことは少ないとはいえ、それでもいつ、どんな危険に身をさらすともわからない身の上だ。だからこそ、どんな時でも「行ってらっしゃい」と声をかける。「お帰りなさい」と迎えられるように。

「夕子ちゃん、大丈夫かい」

「はい。もう平気です。すみませんでした」

 心配してくれる寺川に、そう言って頭を下げる。動揺は収まっていなかったが、受け答えくらいは出来る。夕子は刑事だ。もう、あの頃のような子どもではない。

「…渡辺さん、お気を悪くされたでしょうね。声も掛けないで…」

「いやあ、気にするこたぁないさ。というか、あいつは気にしてないよ、絶対」

「なぜ、言い切れるんですか?」

「なぜってそらぁ…」

 言いかけて、寺川はぼりぼりと頭をかいた。夕子は首を傾げる。そんな夕子の肩を、寺川はぱしっと叩いた。

「年寄りの勘だよ。あいつも帰ってくる頃には忘れてるさ。そんなことより、今はこの手紙だ。鑑識に回すぞ。いいな」

 寺川は、その手紙に素手では触れていない。最初からそのつもりだったようだ。夕子は眉を寄せた。

「それは大げさでは」

「大げさなことあるか。何かしらの脅迫かもしれねぇんだぞ。刑事に脅迫たぁ、いい度胸じゃねぇか」

「いえ、まだそうと決まったわけではありませんし」

「あれを時効にしたのは、おれにも責任がある」

 きっぱりと言われ、夕子はたじろいだ。それを言われるとなにも言い返せない。

「約束だから、もう謝らん。ただ、確かにあの時のことはもう罪には問えねぇが、犯人見つけ出して土下座くらいはさせてやるさ」

「わたしは、そんな…」

 今更謝ってほしいだなんて、夕子は思っていない。思っては、いないけれど。

 ただ、理由くらいは知りたいと思う。

「とにかく、鑑識だ。――おーい、課長」

 ほかの部下と話していた課長は、その呼びかけにはいと穏やかに答えた。大股で歩いていく寺川の後ろに、夕子も付いて行く。

 事情を話すと、いつも穏やかな課長も表情を変えた。腕を組んで、低くうなる。

「それは…。無視は出来ませんね」

「鑑識に回してもいいですな?」

「そうしてください。夕子さん、手紙はこの一回だけでは終わらないかもしれません。一応、身辺に気を付けてください」

「はい…」

「この日付をピンポイントで夕子さんに送りつけてくる以上、当時の関係者としか思えませんが…。ああ、いえ、絶対にそうとも言い切れませんね」

「それが厄介なところだな」

 課長の言葉に寺川もうなずいて、夕子はうつむいた。

 刑事である以上、いつどこでどんな恨みを買っているかわからない。このネット社会、夕子の過去など、調べようと思えばどうにでもなる。ことさらに隠しているわけでもないし、当時夕子の名前は全国に知れ渡っていた。未解決事件で検索すればヒットするのかもしれない。となれば、手紙の送り主は見当もつかない。

 愉快犯なのか、関係者なのか。

「とにかく鑑識だ。夕子ちゃん、行くぞ」

「はい」

 うつむいたままうなずいて、夕子は寺川とともに歩き出した。

 地面が揺らいでいるような気がした。

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