懲戒
本当に、痛みで眠れなかった。傷口を下にしないように身体の向きに気を付けていたのだが、このせいでほかの部分も強張って辛かった。
看護師が一度巡回に来たときは、寝たふりをしてやり過ごした。誰とも話したくなかったからである。頼めば痛み止めを処方してくれただろうが、なんとなくこの痛みに耐えなければならないような気がした。変態か俺は、と自嘲した。
空が白んできても、修司はまんじりとして外を見つめていた。夜明けよりも夕焼けの方が好きだ。と思っていたら夕子のことを思い出して眉間に皺が寄った。彼女の性格に皺を付けたいのに、彼女のことを思って自分に皺を寄せてどうする。
同じ病院のどこかで、今も夕子は固く目を閉じているのだろう。修司は起きているのに、彼女は眠っている。このまま修司が回復しても、彼女は眠り続けるのだろうか。それこそ、永遠に。
「…面白くないな」
口に出してから、修司は上半身を起こした。動くたびに傷が痛むが、動かなくても痛むなら動いていたい。
当然ながら扉には手が届かないので、なにか適当なものを探した。割れないものがいいと思っていたら枕があった。むんずと掴んでそれを扉に投げつけると、すぐさまノックがして扉が開かれた。課長が言っていた通り、見張りがいるのだ。
「渡辺刑事、どうしました?」
「おお、きみか。久しぶり」
そこにいたのは、以前老婆の猫が誘拐された時に会って話した駐在だった。応援に駆り出されているらしい。
「あのさ、車椅子借りてきてくれない? ちょっと散歩に行きたいんだよね」
「はい、かしこまりました! すでにご用意しております」
敬礼して返答した駐在は、脇に置いてあったらしい車椅子を引き寄せる。準備の良さに、修司は拍子抜けした。
「え、いいの? 課長から、死んでも俺をここから出すなとか言われてないの?」
「神崎課長は確かに渋い顔をしておられました。ですが、出さないと言えば窓から飛び降りるかもしれないので、要請があったら出してやれと寺川警部より言われております」
「うーわ、それもばれてるの」
「ただ、行先は限られております」
「なに、どこ?」
「神崎巡査部長の病室のみであります」
「別に俺はそんなとこ行きたくないんだけど」
「と言われたら簀巻きにして窓から捨てろとも言われております。寺川警部いわく、「あいつは自分で飛び降りる分はいいが他人に投げ捨てられるのは我慢ならないだろう」と。やるなら怪我をしている今だとおっしゃっていました。なんなら医者に頼んで眠らせてでも連れて来いとも厳命されております!」
「……あっそ」
まったく、年の功には敵わない。
「それで、どうされますか。行かれますか、神崎巡査部長のところへ」
修司はため息を吐いて、窓の外を見た。東雲色の空が、夜明けを連れてこようとしている。
……この夜明けを、夕子と見るのは悪くない。
「頼もうかな」
はっともう一度敬礼して、駐在は車椅子を押して病室に入ってきた。彼は枕を拾うのも忘れなかった。
夕子の病室を、修司は知らない。意地になって一度も聞かなかったからだ。だから、黙って車椅子を押されていた。
エレベーターで最上階まで行き、その病室にたどり着いた時、病室の前にいたのは寺川だけだった。夕子の両親は席を外しているらしい。間宮兄妹には、夕子のことはまだ知らせていない。タイミングを見て、課長が話すのだと聞いた。
廊下にある横長のソファに座っていた寺川が、修司を見て立ち上がった。
「やっと来たか」
「遅れて登場するなんて、物語の主人公みたいでしょう」
口角を上げながら言うと、寺川が呆れたように苦笑した。
「調子が戻って来たみたいじゃねぇか」
だが、その笑いはすぐに引っ込められた。
「物語の主人公なら、間に合っただろうにな」
「……寺さん。夕子ちゃんの、両親は?」
「今後のことを、相談しにな。医者と話してるよ。なるべく早く連れて帰りたいって親父さんが言ってた」
「………」
「渡辺。…会ってやれ」
低い声で言われ、修司は咄嗟に反応が出来なかった。
駐在が扉を引いてくれたので、修司は自分で車椅子を操作して病室に入った。修司がいた部屋よりも広い。そして空気が重い。
夕子は固く目を閉じて、白いベッドに横たわっていた。
「…夕子ちゃん」
答えは無い。きっと、もう二度と。
会わなかったのはたかだか二日間だというのに、ずいぶんと久しぶりに顔を見るような気がした。こんな顔を、この子はしていただろうか。こんな、血の気の無い顔を。本当に、染みの一つも見当たらない。
薄暗い病室だというのに、その青白い肌が際立っていた。夕子からは、すでに酸素マスクは外されている。頭に包帯が巻かれ、腕には点滴のあとがあり、寝巻から覗く鎖骨は浮き上がっている。そして彼女の胸は、小さく上下していた。
「………ん?」
そう、彼女の胸は小さく上下している。つまり、呼吸している。
修司の後ろから、ぶはっと吹き出す声がした。
「…寺さん…」
寺川が、腹を抱えて笑い出すのを堪えていた。一応、明け方の病院だということに配慮しているらしい。それでも、長い時間は堪え切れずに彼は笑い出した。
「ぶっくっくっく…」
「寺さん」
「どうだ、渡辺、たまに担がれる気分は!」
「最悪です。もう、本当に心から最悪です」
「ぐははは、ざまぁ見ろ、これが懲戒だ!」
「こんなふざけた懲戒、聞いたことありませんよ」
寺川の奥で、駐在はぽかんとしている。なにも聞かされてなかったのだろう。修司は顔を引きつらせながら寺川に問いかけた。
「間に合わなかったって、つまり目を覚ます瞬間にってことですか」
「おう。お前に説教してからここに戻ってきて、空が白んで来たころだな。少し前まで会話も出来たんだよ。今は疲れて眠っちまってるが」
「じゃあ、夕子ちゃんの両親は」
「だから、医者と今後のことを相談中だよ」
「連れて帰る云々は」
「家で休ませてやりたいってことだ」
修司は沸々と怒りが湧いてきた。
「性質が悪過ぎやしませんかね」
「お前の単独行動よりはマシだ。それに、おれは夕子ちゃんの容体についてなんも言ってねぇよ。会ってやれって言っただけだ。お前がいつも使っている手だろ。嘘は吐かずに真実は言わないってのは」
言い返せない。舌打ちして、修司は夕子の方を振り返った。
「もう、大丈夫ってことですか」
「意識が戻れば大丈夫って話だ。しばらくは入院して絶対安静だが、職場復帰も出来るってよ」
「…そうですか」
思ったよりも情けない声が出て、修司は深く長い溜息をついた。心底安堵している自分には、ちゃんと気付いている。
いまだくつくつと笑いながら、寺川はさてと、と外に向かって歩き始めた。
「じゃあおれは、夜明けのコーヒーでも買ってくるか。しばらく帰ってこないけど、お前夕子ちゃんにいらんことすんなよ。相手は怪我人だからな」
「俺だって怪我人ですよ。そもそも俺は、そういうことには万全の態勢で臨む主義です」
「…おい」
「冗談ですよ。……二割は」
「少ねぇよ。あとの八割どこ行った」
「さぁ?」
振り返った修司は、にやりと笑って見せた。
いつもの、他人を小馬鹿にした笑みだった。
「ったく…。夕子ちゃんも、大変な奴に目を付けられたな」
「それは困りましたねぇ」
「お前のことだよ」
「寺さん、夜明けのコーヒーが寺さんを呼んでいますよ。さっさと行ったらどうですか。そこの駐在くんも連れて行ってくださいね」
やれやれ、と大げさに言ってから寺川は出て行った。いまひとつ状況を把握していない駐在も連れて。
修司は夕子に向き直った。彼女を間近で見る機会などこれまで無かったが、改めて見てみると中々整った顔立ちをしている。スーツ姿を見慣れているので、寝巻では雰囲気が違うような気がした。もっとも、修司もいまは同じ格好なのだが。
「夕子ちゃん。ちょっと、起きてくれないかな」
つんつんと、夕子の腕を突いてみる。深く寝入っているのか、まったく反応は無い。
「眠り姫だな」
古今東西、眠り姫を起こす役割の王子がやることは決まっている。
痛む脇腹を抑えて、修司はベッドへ身を乗り出した。そっと彼女に手を伸ばす。そして――夕子の頬をぎゅむっとつねった。
「…変な顔」
小さく笑ってそう言うと、夕子が身じろぎした。
「夕子ちゃん」
頬から手を放して、修司は呼び掛ける。
「夕子ちゃん。俺さ、きみと夜明けを見ようと思ってここまで来たんだよね。起きてくれない?」
修司の言葉はどこまでも自分本位だ。いまさらそう簡単には変われない。
「ゆーこちゃーん」
何度目かの呼び掛けで、夕子の瞼が震えた。
「………」