ある晩春のこと。
それは、ある晩春のこと。時刻は二十一時をまわっていた。
パソコンに向かうのに飽きて、渡辺修司は思い切り両腕を上にあげて伸びをした。そうして、独りごとにしては大きな声を出す。
「あー、今年も花見に行けなかったなぁ」
背中合わせの席から何かしら答えがあると思ったのだが、何も無かったので今度は呼び掛けてみることにした。
「夕子ちゃんは行けた? 花見」
椅子の背もたれに左ひじを掛けて、修司は訊ねる。そうすると、同僚の神崎夕子はやっと振り向いた。背筋を伸ばしたまま、彼女は答える。
「いえ、わたしは…。あ、わたしも、行っていません」
「だよねぇ。忙しかったもんなぁ」
咄嗟になにか言葉を変えたらしいことに修司は気が付いたが、そのことには触れないことにした。凝り固まった肩をぐるぐると回しながら続ける。
「うちの妹がさぁ」
修司が話し出すと、夕子は黙ってうなずいた。聞いてくれるようだ。尤も、修司が妹のことを話すのは毎日のことなので、慣れているだけかもしれない。ただし、彼女はほかの同僚のように「またかよ」という顔はしない。少なくとも、修司は見たことが無い。
「少し前に作ってくれた夕飯がすげぇ美味かったんだよ。なんか豚肉煮たやつ。いや、あの子が作るものはいつもなんでも美味いけどね。まあそれはともかく、こんなに美味いんなら弁当箱に詰めて花見でも行くかって提案したんだけどさ。ほら、うちの妹は人ごみが苦手だから。別にいいって断られちゃって。でもあれ、違うと思うんだよね」
息もつかずにそう言うと、夕子は小さく首を傾げた。
「違う…とは、なにがでしょうか?」
「今度の休みに行こうって言ったんだよ。あれはたぶん、俺にとっては久しぶりの休みだから、休んでほしいって意味で断ったんじゃないかなぁ」
「……そうですか」
まあ、夕子には判断が出来ないだろう。修司が毎日話しているとは言え、面識もない相手のことだ。なにを考えての発言なのか、判るわけがない。それでなくともヒトの心など、図る術がない。だから、次の夕子の言葉には、修司は満足してうなずいた。
「そうだとしたら、優しい妹さんですね」
「そう。うちの妹は優しい。優しいし器量よしだし料理はもちろん家事一般はお手の物だし頭の回転も速いし手先も器用。どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹なんだよ。いや、俺はどこにも出す気はないけどね」
一人うなずきながら話す修司を、夕子は「もういいから」と遮ったりはしない。真面目な夕子のことだ。他人の話は、どんな話でもきちんと聞く。前にちらりと聞いたら、当然のようにそれが礼儀ですと答えた。賛同するにしても反論するにしても聞いておかないと何もできないのでは、と。
その場にいたほかの同僚は真面目だねぇと笑ったが、修司はふぅんと思っただけだった。
ここは、福岡県美鷹市にある美鷹警察署。福岡県の片隅にある田舎町の、小さな所轄署だ。今、刑事課の室内にいるのは捜査三課の当直である修司と、同じく三課で残業中の夕子だけだ。一課や二課の同僚たちは、少し前に電鈴があって出て行った。
「で、夕子ちゃん。そっちの書類は終わった? もう帰れそう?」
「あ、はい。そろそろ…」
「お疲れ。じゃあちょっと俺、電話してきてもいい?」
「私用でしょうか?」
言い当てられ、修司は軽く笑った。それぞれの机の上には、ちゃんと電話が設置されている。にも拘わらず、修司は立ち上がってスマートフォンを振った。つまり私用だ。一瞬でそれを見抜いた夕子は、わずかに眉を寄せている。
「…あの、仕事中の私語および私用電話は、あまり褒められたことではないと思います。緊急のものならともかく、そうでないなら休憩時間にされたほうが」
「まぁまぁ。通話した分だけ休憩時間削るから。ね? ちょっとだけ」
ものすごく適当にあしらって、修司はひらりと手を振ってさっさと部屋から出て行くことにした。夕子と問答している時間がもったいないからだ。一人残された夕子は、ため息の一つも吐いているだろう。
どうでもいい。たかが同僚女のため息の一つや千。修司には、妹のほかに大切なものなどないのだから。そろそろ寝る準備をしているころかな、と思いつつスマートフォンを操作した。
衝撃が待っていた。
妹と話していた時間は十分にも満たない。しっかりと家の鍵を閉めたことを確認し、おやすみと伝え、妹が電話を切るのを待ってからスマートフォンを上着に戻す。大きなため息をついた。
眩暈を抑えながら刑事課のフロアに戻り、ふらりふらりと自席に向かう。明らかに落ち込んでいることに気が付いたのだろう。夕子が話しかけてきた。
「渡辺さん、どうかしましたか?」
「妹が…」
「妹さんになにかあったんですか」
「同級生と会ったって」
「………。はぁ」
気の抜けた返事に、修司はがっくりと肩を落とした。
「野郎だよ? 俺は会うのを許可した覚えはない」
「妹さんは確か専門学校生でしたよね。同級生と会うくらいは…」
「中高生の時の同級生だよ!? もう会う必要ないだろう!」
「それはいわゆる、デートだったのでしょうか?」
「デートなんか死んでも許さん! そうじゃなくて、買い物帰りに偶然出会って荷物を持ってもらったって!」
「それはお礼を言うところではないでしょうか」
「いいや、あいつのことだから買い物に出る妹を待ち伏せしていたに違いない! 妹に会いたいときは俺を通せと百飛んでニ万回は言ったのに!」
「百飛んで二万回も言ったのですか。言う方も聞く方も大変でしたね」
「正確には百飛んで二万二回くらいは言ったね」
「それで…。その同級生の方は妹さんとお食事を?」
「いや? マンションまで送ってもらっただけだって。ヤツはバイトがあるからって帰ったらしい」
「………」
夕子はぱちくりと何回か瞬きをした。そこになんの問題が、とでも言いたいのだろう。修司にとっては大問題だ。修司には妹しかいないのに。
「夕子ちゃん、どうしよう。妹が急に「会ってほしいヒトがいるの」とか言い出したら…」
修司は文字通り、頭を抱えた。
「俺は死ぬ! 死んでしまう!」
シスコンで結構。大げさだと言われてもどうでもいい。妹がいなくなることは、修司の存在理由が無くなるに等しい。
夕子は、どうにか修司を宥めようとしているようだ。残業で書き終わったのであろう書類を手に持ったまま、おたおたとしている。
「あの、渡辺さん。とりあえず、わたしは書類を…」
「そうだ、書類だ。書類に印鑑を押すまでは結婚じゃない」
「いえ、その書類ではなく」
「妹を嫁に出すくらいなら俺が嫁に行く!」
現行の日本国憲法では無理だ。解っていても修司は叫ばずにはいられない。
「あのね、夕子ちゃん。うちの妹はね、昔はお兄ちゃんのお嫁さんになるって…」
「言っていたんですか」
「言われたことはないけど言ってくれていたらいいよね」
もう返す言葉も無いらしく、夕子は黙る。しかし実際に言われたことは無いのだから仕方がない。
「でもきっと妹はそう思ってくれていたよ。だってうちの妹だもん」
そのころの妹に、毎日でも会いたかった。きっと天使よりかわいく女神より美しかっただろうに。いや、今でも妹は宇宙一かわいいのだが。
夕子に悟られないように憎悪を抑えつつ、修司は続ける。
「どこぞの野郎の元へ嫁ぐとか、俺はそんな妹を産んだ覚えはない!」
「落ち着いてください。どんな妹さんでも渡辺さんには産めません」
ご尤も。しかし問題はそこではない。行き過ぎたシスコン。それが修司の「設定」なのだから。
そこで、意を決したような表情の夕子が修司に一歩近づいた。
「あ、あの。渡辺さん」
「うん?」
「妹さんと、当事者の同級生と、話をすべきではないでしょうか」
「……話?」
「そうです、ええと…。妹さんが同級生のことをどう思っているのか、また同級生が妹さんをどう思っているのか、ちゃんと確認すれば、それだけでも少しはすっきりするのではないかと思うんです。対策も、そこから練ることが出来ますし…」
修司は黙って、夕子を見下ろした。二人の身長差は十五センチほどだ。
「やっぱり、何をするにもまずは話し合いだと思うんです。相手が何を考えているのか理解し、またこちらの考えを理解してもらうことで、歩み寄れるのではないかと。せっかく、人間は言葉を持っているのですから…」
吹き出さずにはいられなかった。
そうか、そうくるか。
「あの…」
「いや、ごめん。そうだよね。争う前に話し合いだよね。せっかく言葉を持ってるんだからねぇ」
「え、ええ」
戸惑う夕子に、修司はにこりと笑った。
その「言葉」がヒトを殺すこともあるけどね、とは言わず。
「ありがと」
「? なにがでしょうか」
修司は答えず、ただ笑うだけ。笑いながら、「前から思ってたけどさ」と切り出した。
「面白い子だよね、夕子ちゃんて」
そう言った途端、夕子は目を見開いて固まった。
その表情は、驚愕、というのが一番近い。
「お? どうした?」
固まった夕子を見て、修司の方こそ驚いた。さっきまで四角四面に模範解答を語っていたというのに。
不自然な沈黙がその場を支配して、やがて夕子は激しく首を横に振り始め、そのことでさらに修司を驚かせた。
「夕子ちゃん?」
「ありえません」
「なにが」
ぶんぶんと顔を振る夕子は、修司が見たことのない慌てようだ。夕子が刑事課に移動になってから数年経つが、こんな彼女は初めて見る。
「ありえないんです。からかわないでください。わ、わた、わたしは、真面目で固くてつまらないって、ずっと言われてきましたし、自分でもそう思いますし、そういうのがわたしですから。面白いなんてからかわないでください。困るんです」
「とりあえず首振るのを止めないと、頭痛くなっちゃうよ?」
「ごめんなさい」
「だから、なにが」
「わたし、面白いなんて言われても、どう返せばいいか解らないんです。すみません、わたしは、本当につまらなくて、笑い飛ばせばいいのかもしれないですけど、そんなコトも出来なくて」
「うん、ちょっと落ち着こうか?」
「場を、白けさせてしまうんです。すみません、わざとじゃないんですけど…」
「夕子ちゃん」
「わたし、もうどうしたらいいのか…。おも、面白いだなんて、ごめんなさい」
「ゆーうーこーちゃん!」
がしっと両手で顔を掴んで、修司は夕子の左右に振っていた首を強制的に止めた。びくりと肩を震わせて、夕子は修司を見上げてくる。その瞳は揺れていたが、やがて落ち着きを取り戻した。
「落ち着いた?」
「……はい。すみません。大変失礼しました」
恥ずかしいのだろう。顔を赤くして、夕子は視線を下に向けた。
「固くてつまんない、ねぇ…」
修司はつぶやいた。どこの誰がそう言ったのか知らないが、修司に言えることは一つしかない。
「まったくヒトを見る目が無いね、そいつ」
本気でそう思った。
「夕子ちゃんのどこをどう見ればそんな言葉が出てくるんだか。ね、夕子ちゃんもそう思うでしょ?」
夕子は目をぱちくりさせた。修司が顔を掴んだままなので、離れることもうつむくことも出来ないのだ。今の夕子に、仕事中の冷静さは無い。
「あの、い、いえ…。だってわたし、ずっとそう言われてきて…」
「じゃあ、ずっとヒトを見る目が無いヤツに囲まれてきたんだね。かわいそうに。よしよし」
修司を見上げる夕子は、呆然としている。そんな彼女を見下ろしながら、修司は続けた。
「つまんないっつーのはさ。意味も無くむやみに他人を傷つける馬鹿のことを言うんだよ。残念ながら今の世の中そんなつまんないヤツ多いけどね。きみは違うだろ」
「え、や、あの…」
「きみはつまんなくないから。じゅうぶん愉快な子だから安心しなさい」
まあ、安心はしないだろうなと思いながら言う。言い終わってから、修司はやっと夕子の顔から手を離した。そういやこの子の顔小さいな、などと思いながら。
気が済んだので、修司は自分の席に戻った。夕子はまだ後ろで呆然としているようだ。中々に面白くて、ふと思いついた修司は椅子ごと振り返った。
「そうだ。夕子ちゃん」
「は、はい?」
「花見に行かない?」
「え、でももう桜は…」
「世の中の花は桜だけじゃないよ」
「それは、そうですが」
「今年も桜は見られなかったけど、でもこのまま季節が過ぎるのは嫌だしね」
「でしたら、妹さんと行かれては」
「うん、行くよ。でも花見は一回しか行っちゃいけないなんて法律はないし、きみと行ったら楽しそうだから。ほら、もう少ししたら紫陽花の季節だし」
目も口も丸くして、夕子は本当に固まった。今度は瞬きすらしない。そんな夕子に、修司は遠慮をしない。
「紫陽花が咲いたら、出かけよう」
今の彼女を写真に撮ってタイトルをつけるとしたら、青天の霹靂以外に無いだろう。世の中にはうまい言葉があるものだなぁなどと考える。
やっと瞬きを思い出したらしい夕子は、何度か口を開閉させてから修司に答えた。
「で、でも。あの、わたしなんかと行っても、きっと楽しくないですから…」
「それは俺が決めることでしょ。――ま、考えといて」
そう言って、修司は椅子を元に戻した。じゅうぶんな休憩になったので、再びパソコンに向かうこととする。
「夕子ちゃん、バス通勤でしょ。早く上がらないと帰れなくなるよ」
何事も無かったかのようにひらりと手を振る修司は飄々としている。そもそも、夕子の仕事の手が止まったのは修司に責任があるのだが、正直知ったことではない。面白そうだから突いてみた。それだけだ。修司はいつでも自分に正直に生きている。
やがて、夕子は書類を課長の机の上に置いてから帰り支度を始めた。上着を羽織り、バッグを持ってからやっと口を開く。
「では、お先に失礼します」
「うん、お疲れ。気を付けてー」
いつも通り軽い返事をすると、夕子はぺこりと頭を下げて部屋から出て行った。おそらく、何が起こったのか、修司に何を言われたのか、まだよく解っていないのだろう。本当に、面白い。刑事課は二階にあるので、やがて階段を下りる音が聞こえてきた。
考えておけ、と修司は言った。返事はわざと聞かなかった。文字通り、考える猶予を与えた――のではなく、長く悩ませた方が面白いと判断しただけだ。
別に断られてもいい。彼女が修司を見るたびにおたおたと慌てるさまを見るのは、良い暇つぶしになりそうだ。そう思って冷たく笑った。
幸い、紫陽花が咲くまでもう少々の期間がある。それまでは彼女で遊ぼう。
ふと思い立って、修司も部屋を出た。音を立てないように、かつ大股で廊下を歩いて、階段から見下ろすと夕子が玄関から出て行くところだった。
さて、どんな暇つぶしになるのやら。なるべく長く遊ばせてくれるといい。
その昏く冷たい視線に気づく様子もなく、夕子の姿は美鷹署から消えた。