男と花と
翌朝になっても、夕子の意識は回復しなかった。いまだ昏睡状態にあると、早朝に病院から帰署した課長から聞かされただけだ。
同僚たちは、仕事の合間に見舞いに行くという。総務課の婦警たちも行っているし、顔見知りの鑑識課員も行くそうだ。夕子を巻き込んだ生活安全課は言うまでもない。
しかし、修司は行かなかった。病院へ行ったところで、なにが出来るわけでもない。それよりもやることがある。
外回りに行くとだけ同僚に告げて、修司は美鷹署を出た。目的地は夜のうちに調べ、すでにカーナビに登録してある。美鷹署からは、車で約二十分だ。
目的地に到着してその部屋のインターフォンを鳴らすと、ややあってから扉が開いた。修司の顔を確認して、相手はとてつもなく嫌なものを見たような顔をする。修司は、にっこり笑って挨拶をした。
「どうも、こんにちは」
「…なによ、なんか用?」
不機嫌を隠そうともせず、その相手――洋子は修司を睨みつけた。
「ちょっと聞きたいことがありまして」
「事情聴取を受けるようなことはしてないけど?」
「確認だけです。高林さん…ああ、離婚されて柳瀬に戻ったんでしたっけ?」
いじわるく笑う修司に、洋子は顔を引きつらせる。
「なんなのよ。言っておくけど家には入れないわよ」
「別に入りたくありませんよ。楽しくなさそうだし」
洋子が現在住んでいるのは、二階建ての安い木造アパートだ。築数十年の老朽化した建物で、かつてブランド物に身を包み、街を闊歩していた洋子が住んでいるとは思えないほど。
「あんたに話すことなんか無いわ。帰って」
「「警察だ、観念して出て来い」って叫ばれたいですか?」
「脅迫する気!?」
「相談しているだけです。こっちの質問に答えるだけでいいって言ってるんだから、簡単でしょ」
悔しそうに顔を歪めて、洋子は小さくなによと言った。
「モスグリーンのジャケットの男」
「は?」
「例のモールで、怪しい男を見たって言っていましたね。罪を擦り付けようとしたことはさておき、男を見たのは本当でしょう?」
「…どうして」
「黒っぽいとかよく覚えていないとかならともかく、あなたは明確に「モスグリーンのジャケット」と言っていました。しかも、ただ「男」というのではなく「おっさん」と言った。花束を持っていたとも。なにかを見てないとここまで具体的には言えませんよ」
「それがなんだってのよ」
「そいつ、いつ見ました? 万引きする時じゃないですよね。前後の防犯カメラには映っていなかったから。万引きの下見に行った時に見たんでしょ。正確にいつ?」
「万引き万引き言わないで。近所に聞こえたらどうしてくれるのよ」
「いいから答えてください。いつ、何時に、どんな人相の男を見ました?」
修司は一歩洋子に近づき、扉をぐっと掴んだ。部屋に逃げられないように。
「なんなの。そいつがどうかしたの? というか、今日は神崎は一緒じゃないわけ?」
「それはあなたに関係ありません。さっさと答えたほうがいい。……あなたの社会復帰を潰すことを、俺が躊躇うとでも思いますか?」
冷たい目で見降ろされ、洋子は肩を竦ませた。口調は丁寧だが、修司はやると決めたら本当に洋子の人生を潰す。そう本能で感じて、洋子は答えた。
「二日前の昼食時よ。たぶん、定年間際くらいの男で、身長はあたしより高くてあんたよりは低かったわ。髪型は帽子をかぶってたからわからないけど、痩せぎすのおっさんが女性ブランド品のコーナーをうろうろしていたから覚えていたのよ」
「二日前ね。で、持っていた花束はどんな花でした?」
「花は…ええと…。枯れている花だったから気持ち悪いと思ったんだけど…」
洋子は考えた。とにかく修司が納得する情報を渡して、さっさと引き取ってもらいたいからだ。二度と修司には関わりたくない。もちろん神崎夕子にも。
洋子は必死に考え、そして思い出した。
「あ、紫陽花だわ」
「…紫陽花?」
「そうよ。枯れてはいたけど、あれは紫陽花だと思うわ」
「ふうん」
やはり紫陽花、か。ならば修司の読み通り、そいつが犯人だと考えて間違いないだろう。
「ほかには?」
「無いわよ。知っていることは全部話したわ」
「そうですか。じゃ、お邪魔しました」
「ちょっと、なんだったの?」
後ろからそう問われたが、修司は答えるどころか振り返りもしなかった。
車に乗り込み、スマートフォンで「紫陽花 遅咲き」で検索する。いくつかヒットした。が、さすがに一月に咲いているものはなさそうだ。ならば、紫陽花に見えるだけで紫陽花ではない花があるのかもしれない。しかし、夕子に送り付けられた花びらは枯れた紫陽花だと鑑識が確認している。
どういうことなのか。
花に詳しくない修司は、考えるよりも動く方が先だと判断した。エンジンをかけて、ステアリングを操作する。次に向かうのは例のショッピングモールだ。令状は無いが、どうにか頼んで防犯カメラを見せてもらうつもりでいる。相沢がいれば話は早いかもしれない。
柳瀬洋子の証言によると、その男は定年間際で、痩せ気味。枯れた花束を持っていた。日にちと時間がはっきりしたので、探しやすいだろう。
修司が洋子の証言を思い出したのには、理由がある。昨夜、資料を漁っていて気が付いたのだ。
夕子に送られてきた手紙には、手掛かりという手掛かりが無い。犯人というものは自分の痕跡を消そうとするものだ。だから、無くても不思議ではない。しかし、手袋紋の一つも見つからないのは素人としては不自然だ。同じポストは使っていないことからも、犯人は徹底して自分の正体を隠そうとしている。これも犯人の心理としてはおかしくない。
だが、夕子の誘拐事件は時効が成立している。いわゆる迷宮入りの事件だ。犯人が見つかったところで警察にはなにも出来ない。それなのにそうまでして手掛かりを残さないのは、逆に言えば手掛かりが一つでも見つかったら自分に辿り着かれてしまうと解っているからではないのか。
つまり、警察に照合できるデータ――たとえば指紋が登録されている人物ではないのか。
前科者とは限らない。警察のデータベースには、事件の関係者はもちろん警察官の指紋も登録されている。
犯人は、自分に辿り着かれたらなんらかの制裁を受けることになると思っているのかもしれない。国外にいた期間は時効が停止することくらい、調べればすぐに判る。
修司は考えた。夕子の事件の関係者で、手紙が送られてくる二日前にショッピングモールに行ける人物。郵便局員に回収されているのが午後二時半ということまでは判っている。モールの開店時間を考えれば、平日の午前九時から午後二時半までの間にその場にいたことになる。
修司はさらに考えた。捜査資料によれば、当時の捜査本部も神崎家の周辺を徹底的に洗っている。犯人の動きを見れば、金目当てではないことにはすぐに思い当たっただろう。五歳の夕子に怨恨の線は考えられないから、洗われたのは両親の周囲だ。痛くも無い胎を探られて面白くない思いをした人間が相当数いたらしい。特に夕子の父親はああいう性格なので、敵を作りやすい。捜査本部は、ひたすら父親に恨みを持つ者を当たった。親族、会社関係者、学生時代の交友関係から些細なご近所トラブルまで。実際、これは怪しいのではないかという人物が何人か捜査線上に上がっている。しかし決定打に欠けていた。どう考えても犯行は無理だという人物ばかりだ。中には神崎氏に名指しで怪しいと言われる人物もいたようだが、結局犯人逮捕には至っていない。
考えて考えて、修司は一つの仮説を立てていた。