5、始まらない食事
気がつくと窓の外は、すっかり暗くなっていた。読書に没頭して疲れたのか、いつのまにか寝ていたみたいだ。
霧がかかったような目覚めたての頭を、ある事が覚ました。しかし約束の夕食の時間は、とっくに過ぎていた。父上、母上との約束を破ってしまったと、落ち込んだ気持ちを抱える。三十分過ぎの大遅刻確定だが、行かないわけにもいかず、四階の自室から二階の食堂へ急いで向かう。
急いでといっても、速足で階段を下っただけなので、普通に下りるのとほぼ同じ速さだった。急いでいたのは気持ちだけだったのだ。
家族全員での食事は、久しぶりだ。毎回、僕が食事の時間に食堂に行かないから、今日は呼び出されたのだろう。遅刻してしまったから、みんな怒っているだろうか? という不安と、久しぶりの家族全員との食事に対する緊張で、部屋に帰ることを切望してしまう。そんな気持ちに負けそうになるが、踏み留まり、目的地の食堂の扉前で身なりを整える。
瞳と同じ色のグラデーションがかかった胸のリボン、髪色を薄めたような色で作られたマントのズレ、居眠りでついた寝癖……最後は呼吸を整え、落ち着いた雰囲気を纏い、扉を開いた。
まず目に入ったのは、父上だった。粛然とした雰囲気からは、密かな苛立ちを感じ取ることができ、だだ椅子に座っているだけとは思えない圧に、尻込みそうになる。だが、ここで退けば弁明の余地が無くなる。勢いよく一歩踏み出し、父上に謝罪を述べた。
「失礼します……申し訳ありません! 父上との約束を守ることが出来ず、不甲斐無い自分が許せません。遅れてしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
これでもか! という程に、頭を下げて謝罪する。父上からの許しが出ない数秒間は、恐ろしい。緊張で心臓が破裂してしまいそうになる。
「……いいから、顔を上げてちょうだい? 遅れた理由があるのよね?」
結局、父上が口を開く事は無く、見兼ねた母上が声をかけてくれた。父上の顔色を伺いつつ、顔を上げる。母上が眉尻を下げており、心配してくれている事が見てとれた。兄上は、気まずそうな表情をして視線だけで父上と僕を交互に見た。母上の温情に感謝して、遅れてしまった理由を話す。
「勉強をしていたのです。母上が、火陽家に行くのが心配で……火陽家について、調べていたのです……それで、気がついたら眠っていて……本当に、申し訳ありませんでした……」
「そう……取り敢えず座って? 夕食は、まだ摂っていないのよ。流水が来るまで待っていたの。ささ、料理を運んできてくれるかしら」
「ありがとうございます……母上……」
やっぱり母上は優しい。母上の一言でこの空間に僕の居場所ができた気がする。母上に感謝を述べて、自分の席に移動しようと足を踏み出した瞬間ー父上が僕を呼び止めた。
「流水」
「一水様! 食べながらでも――……」
「黙れ沙依。流水、先程の発言に偽りはないな?」
「はい……」
父上が母上に黙れなんて言うのは、初めて見た。父上は、とってもお怒りみたいだ。僕が遅刻したことが、父上の癪に障ったのだろうか? 夕飯に呼ばれて来たというのに、三十分待たされても料理が出されなかったら、誰だって怒るだろう。それが一人の遅刻のせいだと分かっていたら、遅刻して来た奴に苛立ってしまうのもしょうがない。しかし父上は、そんな事で怒るだろうか? 大切なはずの母上にまで、キツくあたる程……何か他に、自分は怒られるようなことをしたっけ? と思い出していると、父上が、とある紙を掲げた。
「このテストの結果は、どう言う事だ? 今迄の定期テストに類を見ない点数だが……勉強を、していたんだよな?」
なんでテストの解答用紙を父上が持っているんだ!? と驚いた後、そういえばノートに挟んで青帆に渡したな……? と思い出した。怖い顔で、父上が青帆を睨んだ。父上は、ただ見ただけかもしれないが、鬼の形相のように僕の目には写った。
「青帆。流水は、勉強をしていたんだよな? 報告に、間違いはないか?」
「あ、ありませんっ……! が……努力していたことに、変わりは、御座いません。しかしながら、勉学に身が入っていなかったのも、事実であります……」
母上の隣に居た青帆が、緊張した面持ちで答えたにも関わらず、僕への配慮も効かせた事実を伝えてくれた。青帆の返事を聞いた父上は、溜息を吐いた。怖い表情が解けた父上に、一安心する。青帆の応答で命拾いした僕は、心の中で青帆に感謝をした。青帆のおかげで今僕は呼吸をしています……青帆ありがと〜っ! そんな僕に、ぴりぴりとした空気がしなくなった父上が尋ねた。
「流水、勉強は嫌いか? お前の苦になっているのなら、此方にも考えがあるんだが……」
命拾いして浮かれて居た僕に、次なる試練が到来した。どうしよう。これは返答次第で、僕の居場所が無くなるかもしれない……此方にも考えがあるって、怖過ぎる! どうなるのか分からない状況で、下手な回答をするなんて絶対にまずい! かといって、返事をしないという選択肢は無い……返事を待って居る父上の瞳が、真剣そのものだからだ。つまり、だんまりを貫くことも不可能……! そして、決意を固めた僕は、恐々と返事をする。
「き……嫌い……です……」
「そうか。沙依から聞いていると思うが、沙依は明日から3日間、火陽家へ花家奪還の交渉をしに行く。その時、青帆も沙依に同行する。沙依が帰って来るまで、流水、凪沙の教育は、雫が受け持つ。問題は無いな? 雫」
「はい。受諾致しました」
あれ? 以外とあっさりと流された? 何て答えても問題なかった説浮上? 父上は、真面目な表情で続ける。
「では……流水、火陽家について調べたのだろう? どんな事が分かったのか、言ってみてくれ」
「え……分かりました。火陽家は、炎、陽の光を基に創られた自然家で、水を基に創られた水園家とは、相性が悪いです。友人から聞いた話なのですが、火陽家は花家の同意を無視し、連れ帰るというような事もしたそうです……」
抜き打ちテストですか? ……耐えらんないですよ父上っ! 期待してくれたのは嬉しいのですが、僕、勉強サボってばかりですし、今日ちょっと本を読んだだけで、完璧に答えられたりしませんから! 父上の期待に応えられませんから! でも、次は頑張ります。もっと調べておきます。父上が認めて下さるのなら……でも今日のは無いですって、いきなり過ぎますって!
僕の心の中の絶叫が父上に届く訳もなく、ぶつぶつと何か言っている父上の声に耳を澄ました。
「基礎知識としては、及第点だが、水園家の領主教育を受けていて、あの知識とは……同じように青帆から習っている筈だが……凪沙の手伝いはまだ難しいか……しかし、そうだな。足りない情報が……いや、筋はいい気が……」
兄上の手伝い? 初耳のワードを聞いた気がする。すると父上が、突然顔を輝かせて、いい事を思いついたと言うように、声を弾ませて言った。
「そうだ流水、今度仕事場に連れてってやろう。そうすれば、今足りていなかった情報が手に入るだろうし、頼みたい仕事もあるんだ。あと凪沙、手本を頼む。凪沙なら、流水の足りなかったところも補った説明ができるだろう」
「はい……分かりました。基本的なことは流水の言った通りですが、領主として、常に情報の詳細、審議を認知して置かなければいけません。流水に足りなかったのは、正確な詳細。手本を立てるならば、こうでしょう……火陽家は、炎、陽の光を基に創られた自然家で、五大家の一つであり、階級は水園家の二つ上であります。水と火ということで、水園家とは相性が悪く、敵に回ると少々厄介です。近頃火陽家は、水園家と契約済みだった花家階級最下位の向日葵家を、強制的に自領へ連れて帰ったため、母上が、明日から3日間火陽家へ行き、契約についての話し合いをする事になっています」
気まずそうに立ち上がったものの、スラスラと答える兄上の説明を聞きながら、劣等感を抱く。やはり、兄上は立派だ。この説明なら、きっと父上も満足する。それに父上は、兄上を物凄く認めていらっしゃるのだろう。僕みたいな、使えない人間とは何もかもが違う。それを突きつけられたようで、密かに怒りが蠢いた。
連れ去られたのが向日葵家だったなんて知らなかった。なんで兄上は知ってるの? 父上に教えてもらったの?
兄上ばかり……羨ましいな。仕事も手伝ってて、父上に認められていて、僕と比べるには、丁度いい模範人物。
僕は知らなかった。教えられていなかった。
そうだ……父上は、兄上を贔屓しているんじゃないか……?
「ありがとう凪沙。流水、これが家督のあるべき姿だ。少しは、凪沙に習ったらどうだ? お前には、特にやりたいことも、好きなことも無いんだろう? 勉強をして結果を出せば、認めてやれる……誰か守りたい人は居ないのか? このままでは、誰も護れず、誰にも認められないままだぞ。沙依を心配したのは良いが、情報が足りていない。いざとなっても、守る術がない。全ては、勉学を怠ったお前に責任が圧し掛かる……そんな事には、なって欲しくないんだ。だから、凪沙に家長を譲るまで、凪沙の――……」
父上が言い終わらない内に、自分の中の何かが暴れ出した。