10、さよならの一歩
昨日は、とても疲れた。兄上や父上と和解できたのは良かったのだが、その後が大変だった。やる気がある時に詰め込もうと言われ、滅多にやらない修練をして、身体がへとへとになるまで走って、勉強も今までの倍以上やって……やる気があって、気持ちいいくらいに集中してたから良かったけど、そのせいで今、とても苦しい。何故なら、運動をしない引きこもり生活を送っていたため、全身が筋肉痛になったのだ。
何処を動かしても痛むが、気合いで何とか起き上がり、服を着替える。昨日復習した内容をぼんやりと思い出しながら、寝巻きを脱いだ。あまり筋肉の付いていない体は細々としていて、まるでモヤシのようだった。腹は、つまめるほどの余計な肉がついている。これを六つに割るのは、時間と努力が必要だな。
なんて考えて、着替えを済ませた。洗面台の鏡に映る寝ぼけた顔に水をかけて洗い、タオルで拭く。きりりと引き締まった表情をつくってみて、面白くなってしまい、直ぐにへにゃっと笑う。
前髪の真ん中を少し残して右は搔きあげ、左は流す。左右の前髪を整えたら、お馴染みのアンバランス前髪の完成。マントを羽織り、リボンを締めて、最後に雫の形をした青緑色のイヤリングを右耳に付ければ、完璧だ。
身支度を終えて、朝食を取る為に食堂に向かう。すると、食堂から騒がしい雰囲気が漂っている。食堂に入ろうとすると、深刻な表情を浮かべた父上と兄上に会った。あまりにも険しい顔だったので、何かあったのでは? と、懸念する。
「おはよう流水……少し、緊急の用事ができた。朝食は後だ、水鏡の間に行くぞ」
水鏡の間とは、水園家が連絡手段に使っている、水の張ってある池のような鏡がある部屋のことだ……昨日覚えた。
「はい……分かりました。……あの、もしかして、母上に何かあったのですか?」
「……分からない……が、定期連絡がきていない。それに、早ければもう家に到着していてもおかしくない時間だ……何か有ったのかもしれないからな。水鏡を使って連絡を取る」
「そうでしたか。では、急ぎましょう」
兄上は、無言で俯いている。速足で歩いて、水鏡の間へ足を踏み入れる。一面白い壁で窓は無く、床に直径約二メートル、深さ三十センチくらいの円形の窪みがある。
窪みの淵は銀で囲まれており、淵の銀は、雫型や丸などを用いた、水園家の家紋を象っていた。部屋には窓も照明も無いが、淡く発光している水鏡が、部屋を明るく照らしている。
水鏡を囲うように三人が並び、父上と兄上の従者は、部屋の入り口で待機する。父上が手をかざすと、手から青い光が降り、水鏡に落ちた。すると水鏡は青く光り、やがてその光が収まると、真っ赤な画面が映し出された。淡く光る水鏡の光で、部屋の白い壁は赤く染まる。水鏡をどのように使うのか知らない僕は、この現象が何を示しているのか分からなかった。
父上と兄上の表情を確認すると、二人して青褪た顔をしている。膝から音を立てて崩れ落ちた兄上に雫が駆け寄り、肩を支える。赤い部屋に眉を寄せて、苦しそうな表情を浮かべる雫。父上の従者は、普段と変わらず目を閉じている。
父上は、諦め切れないといったように、自分の手の平を深く切りつけ、血を赤く光る水鏡に落とした。すると光が薄くなり、水鏡にぼんやりと人影を映した。次第に、はっきりと濃くなっていく風景を捉え、ようやく分かった。
始めに映し出されたのは血溜まりだったのだ。その血溜まりに横たわっている灰青色の癖っ毛……人影の正体は、母上だった。母上は、ピクリとも動かず、風が吹いているのか、毛先がふわふわと泳いでいた。着ている服は、血だらけで風になびかず、べったりと身体に張り付いてる。血溜まりが時々揺れるのか、水鏡に映る景色が揺らぐ。父上が拳を握りしめ、滴る血を水鏡に落とし続ける。
「……なんでっ、何故だ……何故動かんのだ! 立ち上がって、此方を向けっ! 大丈夫と言って、安心させてくれよ……沙依っ……! 何があったんだ、何故沙依が……こんなことに……」
「は、母上? 嘘ですよね? ……母上、母上! どうしてですか! 何故母上がっ……母上が……!」
兄上は、涙をぼたぼたと落として叫んでいる。僕には、何が起きているのか理解出来ない。母上が、死んだ? 今、映っているのは、母上? この血溜まりは、母上の血? 何があって、母上が死ななければならない? 嘘だ。こんなの、あり得ない。認めたくない、嘘だと言って、嫌だ、嫌だよ……まだ母上に……謝れてないのに、感謝を伝えていないのに……気がつくと衝動的に水鏡に手を突っ込んで泣きながら喚いていた。
「行かないで……行っちゃ嫌だよっ! 母上、母上、母上っ! 帰ってきてよ! なんで置いてくの? まだ、言いたい事とか沢山あるしっ、謝りたいことも、いっぱいあるのに……昨日ね、僕頑張ったんだよ? 勉強も運動も、サボらないできちんとやったの、沢山……褒めて欲しいな……ぼ、僕、これからもいっぱい頑張るから……ちゃんと勉強するから……帰ってきてよ……僕が悪かったからっ、母上っ……僕ちゃんとするから帰ってきてよ! 母上っ……!」
届きはしない手を伸ばし、必死に母上の影を掴もうと水鏡を荒らす。バシャバシャと盲目的に水鏡を掻き回す僕を、茫然と眺めていた兄上も、何を思ったのか、つられて水鏡に手を突っ込み始めた。
「お、おやめくださいっ! 上様っ!」
慌てて雫が止めに入ったが兄上は、辞めず「母上」と連呼して手を伸ばし続けた。そんな僕たちに気を引かれたのか、ずっと俯いていた父上が、力無く笑った。
いつもついている目元のクマが、今日は一段と、濃い気がした。泣き出しそうな顔で、無理矢理口角を上げている父上の笑顔に、僕は胸が締め付けられ、再び涙を流した。
「凪沙、流水、やめなさい。沙依は……死んでしまったんだ。帰っては来ないよ……いくら頑張っても、その手は、届かない……凪沙、一緒に母上を迎えに行こう。火陽家に行く道の途中……沙依が待ってるはずだ。亡骸でも、母上は母上だからな……」
「……はいっ……父上っ! うっ……む、迎えにっ、母上をっ……」
水鏡から手を退き、涙を拭って返事をする兄上。僕も父上の言葉で我に返り、水鏡から離れることにした。兄上の手と顔を拭いている雫は、心なしか不安そうな表情を浮かべていた。父上が、名残惜しそうに水鏡に手をかざす。すると水鏡は元通りになり、澄み切った水を湛えた。父上は僕に一言残し、兄上を連れて部屋を出て行った。
「流水は、ゆっくりでいいが、自分の部屋に帰って休め……後で、朝食を届けさせる」
父上にそう言い渡され、抜け殻の様に、その場へ留まっている僕のもとに、誰かがやって来た。
「ほら、立って下さい、流水様」
現れたのは、雫だった。差し出された手を掴むと、引っ張り上げてくれた。
「雫……何で……兄上について行くんじゃなかったの? 」
「勿論、上様にお供しますよ。まぁ、気分がいいんで、ついでみたいなもんですよ……」
「気分がいい? 母上が死んでしまったというのに? 何で?」
雫は、一旦気まずそうに目を逸らし、頭を掻いてから、溜め息を吐き、謝った。
「あ――……すいません。そうですよね、気遣いが足りてなくてすいませんでした。姉さんが消息不明なのも心配なんですが、それを超える幸せな気持ちが……」
「え? 姉さん……? 雫、姉上がいたん……えっ! 雫の姉上って、青帆なの?」
「はい。そうですが? 水様の従者は、私の父ですし……気付いていなかったのですか?」
雫に小馬鹿にされた気がするが、今は言及しないで置こう。青帆の顔を思い描き、納得した。言われてみれば、吊り目な顔の造りが似ているかもしれない。それに髪色も、まちまち似ている。瞳の色も似ているかもしれない。
青帆は、青藍色で短めの髪を、いつもポニーテールにして、緑に近い青色のヘアバンドを着けて、毛量の多い前髪を軽くしていた。青寄りの黒い、濃藍色の瞳は、光が当たると青が濃くなって、星空の様な煌めきを放っていた。
父上の従者は、青髪に所々灰色や白髪の混じった、ダンディーな、おじ様だ。片眼鏡をつけていて、センター分けの搔きあげ前髪は、父上と殆ど同じ髪型だ。黒を少し薄めた様な鼠色の瞳は、対面で会話している時以外は閉ざされている。納得しつつ、それぞれの顔を思い浮かべていると、雫が冷たく言い放った。
「流水様、大丈夫そうなら、さっさと自室に戻って下さい。私は、上様の手伝いをしなきゃならないんで」
「あ、うん。心配して来てくれたんだよね? ありがとう。おかげで、もう大丈夫になったよ。本当にありがと、雫」
雫のおかげで、気持ちが落ち込み続けることにならずに済んだのは、事実だからと、冷たい言い方だったのは、スルーして感謝だけ伝えた。すると、照れているのか、怒っているのか判断し難い表情で、雫が固まってしまった。何か変な言い方したかな? と思い、とりあえず話題を変えるため、ちょっと聞いてみた。
「あのさ、雫……母上のお迎えに、僕も行っていいと思う?」
「は? 知りませんよそんなの。許可が欲しいなら、水様に当たって下さい。でも、流水様が行きたいというなら、上様は止めないんじゃないですかね? 上様は流水様のこと、馬鹿みたいに愛してますからね〜」
何故か自慢げに話す雫の背後に、兄上が黒い笑みを浮かべて立っている。いつの間に来たのだろうか、流石兄上だ。雫は、気がついていないようで、その後もペラペラと兄上の弟愛について語っている。僕としては、嬉しいような、恥ずかしいような、なんでそこまで僕のことを愛せるんだろうと、不思議な気持ちになった。耐え切れなくなったのか、兄上が雫の肩を両手で掴み、笑顔のまま責める。
「しずく――? なんてことを流水に教えているのかな? 言っていいなんて、僕、一言も言ってないよね? 許さないよ?」
ぎこちなく振り向いた雫は、反論する。
「流水様に言っちゃダメとも言われていな――ぐっ……すいませんでした」
握られた肩に力を入れられたのか、後ろ向きに反った雫が、謝罪した。
「さ、流水、話は聞かせて貰ったから、父上の所に行こっか」
雫を解放した兄上が、笑顔のまま僕に話しかけてきた。先程とは異なる、可愛い小動物を目の前にした、女児のような笑顔だった。
兄上と共に父上の元へ行くと、父上は朝食を食べていた。玄関先の、ポーチの中にあるベンチに座って、いそいそと食事をしている。父上の従者は、雨水家の家長と話し込んでいる。母上を迎えに行く準備についてだろうか?
灰色がかった水色の髪をポニーテールにしていて、目が隠れる程の前髪を持っている雨水家の家長は、ぱっと見の性別は不明だが、恐らく女性だ。もしかしたら、深雪みたいな男性かもしれないが。
自分が普段見掛けることのない雨水家の家長に気を取られていた隙に、兄上が父上に話しかけていた。
「父上、流水も一緒に行きたいそうなのですが、お願いできますでしょうか?」
口一杯にサンドイッチを含んだ父上は、少しの間口を動かすのをやめた後、ダメだと首を横に振った。側に置かれた紅茶を飲み干して、僕を見据える父上は、真剣な表情で諭してくる。
「流水、お前は付いてきてはいけない。沙依も、お前に来て欲しいだろうが……駄目だ。諦めろ、青帆を破り、沙依を殺した相手だ。何を企んでいるか知れたもんじゃ無い、危険過ぎる。もしかしたら、何かの罠かも知れないんだ……連れては行けない」
「そうですよね……すみませんでした。出過ぎたことを申し上げてしまって……ごめんね流水、父上が、こう仰って居るんだ。今回は諦めてくれるかな? ……すぐ帰ってくるから」
父上に謝って、僕にも謝る兄上は、申し訳なさそうに腰を低くしている。そんな兄上の姿を見て、今回は諦めなければいけないと、頭が言っている。しかし、諦めたくないと、子供じみた気持ちが、僕に我儘を言わせる。
「嫌……嫌です兄上、僕も母上を迎えに行きたいのです! 父上が一緒なんですから、きっと大丈夫です。それに、自分の身くらい自分で守れますから! お願いします! 僕も一緒に行きたいんです!」
自分の身は自分で守れる? 一体どこからそんな妄言を吐けるんだ。と、理性が語りかけてくるが、母上を迎えに行きたい一心で、理性なんて一瞬で掻き消された。すると父上が、やれやれと言ったように頷いた。
「仕方ない……今回だけだ、連れてってやろう。帰りは凪沙、頼む。いいか流水、絶対に守るんだぞ? まず、他家からの攻撃があった場合には、迷わず逃げろ。私と凪沙は、自分の身を自分で守ることができるが、お前は違う。何かあったら、雫か、私の従者を頼れ。いいな?」
「はい。分かりました!」
「よし、そうと決まれば、まずは飯を食え。急がなくていい……食欲なんぞ無いだろうが、食べれる時に食べておくんだ」
早速言われた通りに、用意されていたサンドイッチを食べ始める兄上。食事を終えた父上は、雨水家の者たちを集めて、命令を出していた。人手を集めるためだろうか。しかし、母上の死は領民の混乱を招くため、公には、伏せて置くに決まって居るし……あくまで内密に人手を確保するのか……流石父上だ。
母上の死を突きつけられた後とは思えない程、キビキビと行動する父上と兄上に違和感を感じたが、頭は母上の事でいっぱいだった為、そんな気持ちは、数秒後には忘れているのだった。