マクフライエフェクト
納見野比朗の頭は混乱していた。
「あ、あんた誰?」
口から出たのは、その言葉だけだった。
それも仕方ないだろう。これは、ヘタレの彼が困惑するくらいで済むような事態ではないのだから──
その時、野比朗は部屋で漫画を読みながらくつろいでいた。
この少年、見た目は冴えない。勉強もスポーツもダメダメである。人に自慢できるようなものなど、何ひとつない。クラス内でも、最底辺に位置している小学生四年生だ。
そんな野比朗の前に、いきなり姿を現した者……それは、ひとりの大男だった。百八十センチを確実に超えている長身で、体重の方もかなりありそうだ。顔の造りは欧米人のそれで、軍人にいそうな髪型をしている。肩幅は広く胸板も分厚く、プロレスラーのような体格である。黒い革のジャンパーを着て、サングラスをかけていた。
そんな奇怪な大男が、ベランダから入って来たのだ。小学生の野比朗としては、もはや為す術無し……といったところだ。金を出せといわれれば、何のためらいもなく有り金を全て差し出していただろう。
しかし、この大男は犯罪者ではなかった。唖然となっている野比朗を見下ろし、おもむろに口を開く。
「能見野比朗だな? 俺は、三十年後の未来から来たアンドロイドのT八〇〇型だ。君を守り、未来を変えるためにやって来た」
突然、自宅に侵入してきたプロレスラーのごとき体格の不審者にこんなことを言われ、ハイそうですかと言える者などいない。
野比朗は冴えない小学生だが、一応の常識はある。目の前にいる男は正気ではないと判断した。まあ、誰でもそうなるだろう。
しかし、下手なことを言えば殺されるかもしれない。さて、どうしたものか……と必死で考えていると、大男はまた語り出した。
「信じていないな。では、お前しか知らない情報を言ってやる。去年のクリスマス、お前は同級生の幹本静香に告白しようとしたが、その場にタイミング悪く細川末雄が現れたため断念した」
聞いた野比朗の顔が歪む。幹本静香とは、同じクラスの少女だ。校内でも、確実に五本の指に入る美少女である。彼は出会った時から、この少女のことが好きだった。
「えっ!? 何で知ってるの!?」
戸惑う野比朗に向かい、大男はさらに続ける。
「それだけではない。お前の股間には、妙な形の小さな痣がある。また、昨日は空地でエッチな本を拾い、ベッドの下に隠した──」
「わ、わかったよ! もういいから、君が未来から来たことを信じるよ!」
顔を真っ赤にして、野比朗は話を遮った。すると、アンドロイドは口を閉じる。ポケットから、一枚の写真を取り出した。
「これが、三十年後の未来のお前だ」
突き出された写真を見た瞬間、野比朗は愕然となった。
スマートな体型の中年男が、にこやかな表情で写っている。恐らく、四十歳になった自分だろう。汚れた作業服を着ており、ホームレスに間違われるてもおかしくない。はっきり言って貧乏そうだ。
しかも、その横には恐ろしい者がいた。身長は四十歳の自分より高く、がっちりした体格をしている。あちこち破れたTシャツから覗く二の腕は丸太のように太く、肩周りの筋肉はたくましい。髪は短く、顔立ちはワイルドだ。さらに、その胸には巨大な乳房がふたつ。
そう、横にいる者は女性だったのだ──
「な、なにこれ……」
思わず呟きながら、よくよく見れば女は背中には赤ちゃんをおぶっている。周囲には少年が三人いた。いずれも、体が大きく野生味ある顔立ちだ。ひとりは中学生か高校生くらいの年齢だろうか、体は未来の自分より大きい。全員、汚いボロボロの服を着ている。ホームレスの集合写真のようである。
さらに、後ろにはひときわ大きな体の男が立っている。ワイシャツとベストを着ているが、あちこち染みが付き穴が空いていた。顔は傷だらけで、銀縁の眼鏡をかけている。身長は二メートル近いだろう。他の人物と比べても、その巨体が目立つ。三十年後の野比朗と比べると、ゴリラと人間くらいの体格差に見えた。
「誰だよこいつら……」
またしても呟く野比朗に、アンドロイドは絶望的な言葉を放った──
「さっきも言っただろう。この痩せた男が三十年後のお前だ。横にいる女は、お前の妻だ。旧姓は、花田薫子」
「そ、そんな……嘘だ……嘘だと言ってくれえ!
叫んだ直後、野比朗は思わず崩れ落ちた。自分の妻だと言う女は、女子プロレスラーも顔負けの体格だ。百キロはありそうな感じである。顔も怖い。何やら嬉しそうに笑いながら写っているが、人間ひとりくらいなら片手で捻り潰せそうだ。
こんな恐ろしい女と結婚したくない。僕が結婚したいのは静香ちゃんなのに……などと思いつつ写真を眺めていた時、もうひとつ恐ろしいことに気づく。
「ねえ、この人の旧姓は花田だって言ったよね? じゃあ、ここに写っているのは……」
言いながら、ふたりの背後に写っている巨大な男を指差した。すると、アンドロイドは無表情で語り出す。
「その男は、花田武司。お前の同級生であり。未来の妻・薫子の兄だ。後にヤクザとなり、花田組の初代組長となる。業界では、最強の喧嘩師の異名を持つ男だ。脱獄した最強の死刑囚を素手で殴り倒して警察に引き渡したり、超音波との異名を持つ歌声でふたつの組織の抗争を止めたり、武勇伝には事欠かない」
しかし、野比朗はほとんど聞いていなかった。
花田武司は、ボアコングなるあだ名を持つ最強の小学生である。高校生すら薙ぎ倒す腕力と、十キロ先で冬眠している熊すら起こしてしまうような歌声により、最終兵器として恐れられていた。
そんな男が、義理の兄となってしまう──
「嫌だ……こんな人生、悪夢だよ」
虚ろな目で呟く野比朗。写真に写る家族たちは、どう見てもまともではない。全員、ニコニコ笑ってはいるが……ホームレス家族の記念写真という感じだ。しかも、背景には汚い廃墟が写っている。この廃墟の中に、一家で住み着いているのか。だとしたら、あまりに悲惨だ。
すると、アンドロイドがしゃがみ込む。
「このままだと、お前は最悪の未来を迎えることになる。だが、そんな未来を避けるために俺は派遣された。お前の孫である瀬久志が、俺をこの時代に送り込んだのだ」
「そ、そうなの?」
顔を上げる野比朗に、アンドロイドは頷く。
「俺は、未来の世界が生み出した最高のアンドロイドだ。お前を守り、最高の人生を送らせるようプログラムされている。これからは、俺の指示に従って生きろ」
その日を境に、野比朗の人生は百八十度変わってしまった。
学校から帰ると、アンドロイドの作ったカリキュラムの通りの生活をする。宿題をさっさと終わらせ、復習と予習もこなす。おかげで、成績はあっという間に上がっていった。やがて、小学生でもトップクラスの生徒となる。
また学校の勉強だけでなく、今後の生活に役立つ様々な知識も吸収していく。アンドロイドには、ここ三十年の間に起きる事件や事故や流行など全てのデータが入っていた。さらに、そのデータを上手く用いるための知恵も授ける。
結果、野比朗の人生は恐ろしいほど順調に進んでいった。中学高校大学そして就職と、全てが完璧なまでに上手くいっていた。そんな野比朗の人生に、花田薫子なる女性が現れることはない。静香から告白され付き合うようになっていたからだ。
アンドロイドの出現から十五年が経った今、静香とは結婚の約束をかわした。もはや、野比朗の幸せを阻むものはない。今後は、薔薇色の人生が待ち受けている……かに思えた。
しかし、それは罠だった。
・・・
本来の歴史では、野比朗はそのまま成長する。パッとしない、冴えない、モテない男のまま高校生になった。勉強もスポーツもダメなオタク少年のままである。
ある日、彼は些細なきっかけから数人のヤンキーに絡まれた。挙げ句、路地裏でボコボコにされる。その時、通りかかったのが花田薫子だった。最強の喧嘩師である兄ほどではないが、彼女もまた恐ろしい身体能力を持っていた。ヤンキーたちを叩きのめし、野比朗を救い出す。
それだけではなかった。顔は怖いが面倒見のいい薫子は、傷だらけでボロボロになった野比朗を放っておかなかった。家に連れ帰り、傷の手当てをしてあげたのだ。
それが縁で、ふたりの交流が始まる。もっとも、そこから関係が発展することなど有り得ないはずだった。この時点では、野比朗は何の取り柄もないし、薫子から見れば冴えない知り合い程度でしかない。
ところが、薫子が自作の短編漫画を見せた時に状況は一変する。
「あのう、絵は凄く上手いと思う。けど、これはラストにもうひとひねりあった方がいいんじゃないかと……」
恐る恐る述べた感想に、薫子はカチンとなった。
「はあ? ひとひねりとか簡単に言ってるけどさ、具体的にどうとかアイデアあんの?」
「たとえばだけど、この語り手のキャラが実は殺人鬼だった……みたいな展開にしたら、ラストで読者に衝撃を与えられるんじゃないかなあ、なんて……」
言われた薫子は、じろりと睨む。野比朗は、慌てて下を向いた。怒られる、と思った。
だが、意外な言葉を投げ掛けられる。
「あんたに言われたのはムカつくけど、そのアイデアいただき」
野比朗の言う通りに変えたところ、薫子の漫画は奨励賞を受賞する。彼女は、野比朗にある提案をした。
「あんた、ストーリー考えてくれない?」
それから、野比朗と薫子のふたり一組の漫画家人生が始まる。野比朗がストーリーを考え、薫子が作画するという担当だ。
すると、野比朗の秘められた才能が開花した。これまで、多くの本と漫画と映画とアニメを観ている。その過程で蓄えられた知識と空想癖と豊富なアイデアを持つ彼は、奇抜なストーリーを作り上げていく。絵は上手いがストーリーが今ひとつ……という評価を得ていた薫子にとって、最高のパートナーであった。
そんなふたりは、いつしか付き合うようになり結婚する。夫婦となってからも、ふたりは精力的に作品を描き続けた。
やがて、野比朗は取材のため実銃による射撃を体験する。あくまで、作品に活かすためであった。だが、そこで彼のもうひとつの才能を開花させてしまう。
野比朗には、天才的な射撃の才能があったのだ。初心者では、止まっている的であっても、十メートルも離れれば当てることすら困難である。ところが野比朗は、ど真ん中に次々と命中させていく。彼を担当したインストラクターは、次のように語っていた。
「あんな人、見たことないです。初めての実銃なのに、手と銃が一体化しているようでした。あの当て勘だけは、本当に天性のものです。努力して身につけられるものではありません。凡人が十年以上打ち込んで、やっと到達できる位置に一時間で到達してしまったのですから……真剣に打ち込めば、オリンピック金メダルも夢ではありません」
そう言った後、笑いながらこう付け加えた。
「世が世なら、シモ・ヘイヘに並ぶ伝説のスナイパーとして名を残していたとしても、不思議ではないですね」
やがて、ふたりの間に子供が生まれる。しかも、ひとりではない。時を置かずして、さらに二子三子が誕生する。その子供たちは、全員が恐ろしい能力の持ち主であった。野比朗の創造力と射撃、薫子の身体能力と芸術センスを受け継いでいたのである。
そんなある日、世界中を揺るがす大事件が起こる。
国際平和部隊科学研究所が、あらゆる災害から人類を守り地球環境を保全すべく建造したのが、超AIブレインである。
だが、このブレインは自我を持ってしまう。さらに、ブラジャーからミサイルまで何でも揃えてみせる超生産能力を持つようになった。
遂には「人類こそが地球を滅ぼす。人類は地球に有害」という結論をはじき出してしまう。地球にとって最大の災害である人類の存在を否定し、抹殺を決意する。
やがてブレインは、人類に宣戦布告した。核兵器を用いれば簡単に絶滅させられるが、同時に地球の環境をも破壊することになる。そのため、密かに建造していたアンドロイド軍団で一斉攻撃を仕掛けた。
社会は一瞬にして崩壊し、文明は終わりを告げる。無政府状態になり、機械軍による大虐殺が世界中で巻き起こる。生き残った人間たちも、僅かな食料やガソリンを巡って殺し合う始末だ。人類の絶滅も、もはや時間の問題と思われた。
そんなブレイン軍団の前に、敢然と立ち向かっていったのが能見家である。野比朗は、スナイパーライフルによる正確な射撃で、次々とアンドロイド兵を仕留めていく。銃弾など弾き返す特殊合金に覆われたアンドロイドだが、野比朗は装甲の僅かな隙間を撃ち抜き機能を停止させるという神業をやってのけた。やがて「眼鏡をかけた死神」との異名を持つようになる。
薫子は、そのパワーと度胸を活かして大勢の人を救出した。さらに持ち前の指揮能力を発揮し、救出した人々のリーダーとなる。大きな体と恐ろしい外見でありながら献身的に怪我人たちを看病する姿から「逆襲のナイチンゲール」という二つ名を冠するようになる。
さらに、子供たちも戦闘に参加する。野比朗の射撃と薫子の身体能力を受け継いだ彼らは、まさにパーフェクトソルジャーであった。その上、薫子から受け継いだ芸術センスで周囲にあるガラクタを武器に変え、野比朗から受け継いだ想像力で奇抜な作戦を立て実行する。子供たちもまた、多くのアンドロイドを破壊した。
しかも、薫子の兄である花田武司も能見家とともに戦う。素手でトラックを破壊し二本の指で重なったトランプをちぎる腕力と、電子頭脳を狂わせ半導体に不具合を起こさせる奇跡の歌声を持つ霊長類最強の喧嘩師だ。単身でアンドロイド軍団の中に飛び込み、幹部アンドロイドであるブラッケン・ボスと真正面から生身で殴り合い、全身二十ヶ所を骨折しながらも必殺技ゴットボイスで機能停止させたエピソードはあまりにも有名である。やがて「歌う破壊神」という、二つ目の異名を得るに至った。
また武司は、ヤクザであるがゆえ密かに溜め込んでいた武器を、能見家率いるレジスタンスに提供していく。
そんな能見家の下に、次々と人が集まっていった。野比朗と薫子と武司は、世紀末における希望の星となったのだ。新しい希望を得た人類は、逆襲に転じる。彼らは各地で、アンドロイド軍団を次々と打ち破っていった。
T八〇〇の持っていた写真は、その当時に撮影されたものだ。戦乱の最中、野比朗と薫子の結婚記念日に撮影されたものである。ボロボロの服を着ていたのも当然だった。洒落た服など、そもそも手に入らないのだから。
人類最強の一族・能見軍団に率いられたレジスタンスの勝利は目前であった。しかし、ブレインは秘策を繰り出す。野比朗と薫子との出会いさえなければ、人類は敗北するはず……そう判断し、残された力を全て投入してタイムマシンの開発に着手する。
やがて、タイムマシンは完成した。三十年前の時代に、アンドロイドのT八〇〇型を送り込む。
野比朗と、薫子の出会いを阻止するため──
・・・
今、アンドロイドは見事に任務を果たしたのだ。エリートの人生を歩む野比朗は、静香と結婚した。薫子は、今も漫画を描き続けているがデビューはしていない。もちろん、野比朗の存在すら知らない。歴史は、完璧なまでに変わってしまった。
それから五年も経たぬうちに、ブレインが誕生するはずだ。現在、国際平和部隊科学研究所が開発を進めている。人類絶滅は、もう間もなくだ。
しかし、救世主たりえたはずの野比朗も薫子も、すぐそこに迫った破滅に気づいていない。野比朗は静香との幸せを噛み締め、薫子はまたしても自分の漫画が落選した不幸を噛み締めていた。
幸福の絶頂にある野比朗と、不幸のどん底にある薫子。どちらも、間もなく死が訪れるという点では同じだった。