雨宿りの子守歌
彼女はその日、仕事をすればするほど、窓の外の雨音とキーボードを打つ音が混ざり合って、自身でも聞いたことのない、不思議な音が形成されてしまった。不快なノイズを振り払うようにコーヒーを胃に落とし、液晶画面に表示された細かい数字を追った。
月末の経理室は、彼女の集中力とは関係なく多忙を極める。貸方と借方を対等に。渉外費と消耗品費を間違えないように。渉外費は交際相手のリストを確認しながら漏れのないように。パソコンの電源を切ったのは20時を過ぎていた。定時は18時だから、2時間の超過労働になる。すべてを終わらせて体を伸ばすと、骨と骨が削れる嫌な音がした。お疲れ様でしたと同僚にいいながら、空といきものの体は同じなのだろうと彼女は思った。空模様が荒れると雨が降る。人間の体は、疲労が度を超えると悲鳴を上げる。
更衣室で制服から私服に着替えて一歩外に出ると、想像以上の土砂降りになっていた。ロッカーに置き傘はない。今日は傘を持ってこなかった。つまり、最寄りの駅まで20分、雨に打たれなくてはならない。なるべくなら避けたい事案だった。
一泊の逡巡ののち、足元を気にしながら彼女は駆け出した。ローヒールでも、豪雨の中走るのはつらい。身に当たる一粒の雨が重い。進むほど靴の中に水が入り込み、ストッキングの色が変わった。
目指すのは会社のすぐ。歩いて5分。
曲がり角の「喫茶 黒猫座」。
入社以来、通るたびに「いつかは入ってみたい」と思っていたが、いつも思うだけで過ぎていった店だ。ただ、アンティークな外観が、ビルとビルの隙間にあるのがちぐはぐに見えていた。あそこの店入ったことある? とだいぶ前にロッカールームで同僚と話になったが、一人として扉を押した人物はいなかった。今でもドアを押した人間はいないと、彼女は考えている。
彼女が濡れながら店にたどり着くと、「喫茶 黒猫座」の扉には「Open」のプレートが掛けられていた。
店内は薄暗かった。客は一人もいなかった。オレンジ色のランプがカウンター席とテーブルを照らしている。音楽も何もついていない。代わりにアップライトピアノが置かれていて、静謐を人の姿にしたかのような男がカウンターの内側に立っていた。
「いらっしゃいませ」
いらっしゃいませというのにも、場所によって適切な音量や音質があるのだと初めて知った。この店で寿司屋の職人のように景気よく言ってもそぐわない。店主らしき男は、薄暗い店内にスッと馴染むような深い音質でいらっしゃいませと言った。
カウンター席に座り、右隣の椅子に脱いだトレンチコートと鞄を置いた。メニューを開くと、ナポリタンやグラタンやカレーライスと、普通の喫茶店と何も変わらないラインナップが目に入ってきた。グラスを出したきり、店主は何も言わない。注文を促すこともしない。彼女はカレーライスと食後に紅茶、と言った。一日分の頭は使ったのだから、無駄に思考を巡らせる必要はない。
雨脚は弱まる気配を見せない。食べ終わっても止まないようなら、少し雨宿りさせていただいてもいいですか? と彼女が尋ねると、店主はもちろんですと答えてくれた。
出されたカレーライスは美味だった。何も考えずにひたすら口に運んだ。就業中、ガソリンを補充するようにコーヒーは飲んだが、固形物らしい固形物を口にしていなかった。
空腹でも十分な食事で満たされても、不快なノイズは張り付いたまま消えてはくれない。
食後、紅茶とともに、白くて滑らかなものが出てきた。綺麗に皿に盛られている。デザートのメニューに、レアチーズケーキがあった。注文していないものに躊躇いながら、彼女は店主の顔を見た。
「サービスです。今日売れ残ると、行き場がありませんので」
注文を受けなかったら廃棄されるはずだった無料のチーズケーキが染み渡る。
「だいぶ遅いようですが、仕事ですか?」
雨は続いている。残業だったんです、と彼女は答えた。ここから歩いてすぐの会社に勤めていること。月末は特に忙しいこと。会社や仕事に大きな文句があるわけではなく、長年仕事をしていればそれなりに疲労が溜まりやすくなる。それはどんな仕事にも当てはまることだ。それでも今日の残業は少しきつかった。なかなか合わない数字。総務部からもらった交際費のリストが一部違っていたこと。自分で入力した経理内容を一部消してしまい、経理ソフトに入れ直しになったこと。それらの業務内容を明確にせずに話した。店主は相槌も打たずに黙って彼女の話を聞いた。彼女の話が、どのぐらい雨音と混ざったかは分からない。頭の中のノイズとは一体化していたかもしれない。
ひとしきり話したあと、彼女は店内に堂々と鎮座するアップライトピアノに目線を移した。そういえばと思い出す。そういえば私も、小さい頃はピアノを習っていた。今ではかつて弾けていた、習っていたという事実を身に持っているだけで、一曲も弾けはしない。あと数年もすれば、ピアノを習っていたと思い出さなくなってしまうかもしれない。
「ピアノが気になりますか?」
ええ、まぁと彼女は曖昧に言葉を返した。あまり広くない店内の一角を占める、黒いアップライトピアノ。これさえなければあと一つはテーブルが置けるだろう。椅子から立ち上がり、許可を得て彼女が蓋を開ける。蓋の内側の右端には「Bösendorfer」と刻印がされていた。知人から譲ってもらったもので、と店主が付け足した。知人で音楽を生業にしていた人がいるのですが、弾けなくなってしまいまして、お譲りしてもらったのです。
彼女はなぜか、その知人は、「事情があって弾けなくなった」のではなく、「亡くなったから弾けなくなった」のだと思った。説明した時の店主の顔が、不必要なほど影が落ちていたからだ。カウンターの奥から女の子がやってきたのは、彼が説明したのと同時だった。
――その女の子は、中学生ぐらいだと思われた。小学生だと大きすぎる。高校生にすると幼すぎる。肩までの艶やかな髪と、ぱっちりした大きな瞳。「黒猫座」という名前にふさわしい、黒猫のような女の子。年齢相応に可愛い女の子は、学習ノートよりも一回り大きい楽譜を抱えている。
「ノア、宿題は終わったの?」
終わったよ、終わった、とノアという名前の女の子が店主に言う。お父さん、私にも何か頂戴とねだる。コーヒーだと眠れなくなるからカフェオレねと言って、少女の分の飲み物も作り始める。彼女はアップライトピアノの端から彼らの様子を見つめていた。少女は店主をお父さんと言い、店主は少女を娘のように扱っている。それでも彼女の眼には、彼らが血のつながった親子のように見えなかった。店主の外見は、多く見積もっても30代前半だろう。娘の父親にしては若すぎる。
「こんばんは」
彼女に向かって、ノアと呼ばれた女の子は深々と頭を下げた。
「こんな時間に来るなんて、珍しい。お姉さん、仕事帰り?」
ええまぁ、と彼女は再び曖昧に答える。まさかこの子に、先ほど店主に言ったような愚痴を言っても通じないだろう。同時に、まだわかってほしくないとも思う。
楽譜を抱えたノアの指は、鍵盤に触れたくてうずうずしているように見えた。少女を見ながら、どうして私はピアノを辞めたのだろうかと彼女は考える。無駄な思考だと頭の隅が訴えながらも、考えずにはいられなかった。そうだ、少女と同じぐらいの年の頃、高校受験に専念するために辞めたんだ。そう思うと、無性に何かが聞きたくなった。
雨音とキーボードから生み出されるものではなく、誰かが奏でた音が聞きたい。
「ノア、何か弾いておやりなさい。そういう約束でしょう」
ノアは父親の言葉に素直に頷いて、ピアノ椅子を引いた。約束とは何だろうと思ったが、彼女は聞かなかった。彼らの中で取り決めがあるのだろうと、そう納得することにした。何かリクエストはありますか? と彼女に聞いた。少女が何を弾けるのか知るはずがない。だが、リクエストを聞くぐらいなのだから、年不相応にレパートリーを持っているのだと窺えた。
「じゃあ、子守歌のようなものを」
――残業で疲弊した体に、水を与えるようなものを。
——未だに頭に棲みつくノイズを消してくれるようなものを。
ノアの顔が、いとけないそれから、父親と同じ静謐なものになる。そうすると少しだけ、彼らには血のつながりがあるのだと思わされた。アップライトピアノに向かうさまは、彼女には熟練したピアニストのように堂々として見えた。鍵盤に手が置かれる。——ピアノは猫の手で弾くのです、と、小さいころに教わった先生は言っていた。だがノアの手は猫の手ではなく、カエルの手だ。猫のように丸まっていない。カエルのように力なく伸び切っている。
ノアの指が力なく鍵盤に落とされる。一音。水の粒のように感じられるほど、明確な一粒ひとつぶが連なる。雑味がなく、よどみもなく、すべてが独立した一音。流れて落ちる美しい音。ノアの音は雨と決して混じらず、雨をなだめているように優しかった。曲はゆっくりと、一定のペースで進む。リズムが乱れることもなかった。カエルの手は水と戯れる。彼女は聞きながら、ゆりかごに揺られているような心地になった。瞼を閉じて、雨音のような優しさに身をゆだねる。ノイズが脳の底に沈む。天から落ちる旋律は聞いたことがある。フレデリック・ショパン。雨だれの前奏曲だ。子守歌が必要なのは、赤子だけではない。大人だって必要だ。
*
——弾き終わると、ノアの顔が変わった。威厳のあるピアニストから、中学生らしいいとけない顔に戻る。静かに鍵盤から指を下した。年齢不相応な演奏をした相手に対し、彼女は拍手をすべきなのか迷ってしまう。迷いのうちに、ノアがピアノ椅子から降りてカウンターの彼女の隣に座った。
「こういう日の閉店間際に来た人に、ピアノを弾くことにしているんです」
こういう日、とは雨の日を指しているのだろう。それが店主との約束なのかもしれない、とも彼女は思った。営業時間が終わったら消音にして練習して、昼間練習したいときは学校の音楽室を借りているんです、とノアは続ける。彼女はノアに、ピアニストになりたいのかと尋ねた。そういうわけではなくてとノアは首を横に振る。彼女の視界の端に、店主の姿が入る。娘の演奏を黙って聞いていた彼は、変わらずに静謐な顔をしている。宗教画の聖人のような。
「いつの間にか弾けなくなっちゃう時がくるかもしれないから。その前に、誰かに聞いてもらったほうがいいから」
それが誰のことを指しているのか。ノア自身の「その時」のためなのか。その前に、そうなった誰かを知っているのか。彼女はそれ以上聞かず、想像することもやめた。
彼女は窓の外に目線を移した。暗く、激しく音とともに濡れている。ノアの音になだめられたのを忘れたように。木の枝と葉が時折張り付いてくる。長らくこの店にいる気がした。時計を探したが見当たらない。食べかけのチーズケーキと、冷めた紅茶が鎮座している。
「止まないなあ、雨」
「もう少しいればいいじゃないですか。明日は土曜日ですよ」
わざと声に出していってみると、ノアが猫のように懐っこく提案した。また弾きますよ、何か、とも。ノアが言う通り、明日は土曜で仕事は休みだ。
「じゃあもう一曲お願いします。曲はわからないから、何でもいいよ」
疲れているから、聞いていたら寝ちゃうかもしれないよと彼女が言うと、それって誉め言葉ですよ、寝るほどいい演奏だったということなんですからと少女は答えた。ノアは頷いて再び鍵盤に向かう。彼女は砂糖のスティックの紙を破いた。冷めた紅茶に砂糖を入れて飲み干すと、ほんの少し疲労が和らいだ気がした。空になったティーカップに、店主が追加と言わんばかりに二杯目を注いだ。ノアが弾き終わったら聞きたいことが出来た。——ピアノを弾く時、猫のように丸めるのではないか、と。
音が降って、ノイズが消えた。
ちはやれいめい様よりいただきましたお題「仕事帰り」「雨宿り」「街角の喫茶室」で書きました。ありがとうございます。