第956話 地下大空間に足を踏み入れる
先行して大空間の入口まで到達していたブルーノさんとティモさん、クロウちゃんが戻って来て合流した。
クロウちゃんからの通信と彼の目を通じて観測した限りでは、その大空間は岩がゴツゴツしていて平坦では無く、あちらこちらからガス混じりかも知れない水蒸気のようなものが吹き出している。
クロウちゃんによると、結界の中に居ても微かに何かが腐ったような臭いが感じられたそうだ。
その大空間は、これまでに行った左右の通路中間にあった空間よりもひと際広く、天井部までの高さも最も高いところで50メートルほどもあると思われる。
俺の前々世の記憶で言えばドーム球場ぐらいの高さぐらいと、クロウちゃんが言っておりました。広さはそんなには無いみたいだけどね。
クロウちゃんの視界とブルーノさん、ティモさんが観察したところでは、アンデッドなどの動いているものは見当たらなかったという。
尤も、最初に行った右の通路の空間では穢れた水の中から出て来たので、ここでもどこから何が現れるのか予断を許さないだろう。
「しかし、何よりも問題なのは、その臭いだよな」
「そうです。臭いは大問題ですよ」
エステルちゃんが大問題だと言葉を重ねた。
確かに酷く臭いのは行動する上で問題なのだけど、今回はそれ以上の懸念があるんだよな。カァカァ。
「もし有毒ガスが出ていると拙いよなぁ」
「ゆうどくがす? ですか?」
「カァカァカァ」
「空気の中に毒物が漂っているかも、なの? クロウちゃん」
「カァ」
俺の前世の世界では温泉を原因とした中毒事故というのがあって、下手をすると死亡にも至る。
カァカァ。ああ、先ほど見た状況で懸念されるのは、地熱蒸気に含まれた硫化水素だ。硫化水素は温泉付随ガスって言われるんだよな。
あるいは炭鉱なんかだとメタンガスなどの有毒ガスがあり得るので、無色無臭のガスに敏感に反応するカナリアを籠に入れて、坑道に潜ったという話もあった。
「炭鉱の中のカナリア、ですか。ということは、クロウちゃんに飛んで貰って……イタいイタい、痛いですよぉ。ちょっと言ってみただけですから、突つかないで、クロウちゃん」
カリちゃんがそんなことを言うので、クロウちゃんは彼女の頭の上に止まって突ついていた。これってなんだか、見覚えのある懐かしい風景だよね。
「ともかくも、進まない訳には行かないです。どうされますか? ザカリーさま」
「そうだなぁ」
あの空間に入らずに、土魔法などで入口に厚い壁を構築して蓋をし封鎖してしまうというのもあるかも知れないが、それでは今日ここに来た意味が無い。封鎖前に浄化の聖なる光魔法を放ったとしてもね。
こちらの会話に口を挟まずにいるシルフェ様たち人外組の方を、俺は見た。
「ここの地下深くから熱い蒸気が吹き上がって、それに人間や動物の身体を侵す毒が含まれていたとしても、もしそれが自然のものなら、わたしたちがどうにかしようとか、そんなのはする訳にはいかないわ」
「それが自然に出来たものならば、だがな」
シルフェ様とケリュさんが俺の表情を見てそう言った。
「出来るか出来ないかじゃなくて、する訳にいかない、ですか?」
「そうよ、ザックさん。それがもしも自然の摂理の中のもので、たまたまこの人間がたくさん暮らしている王都の地下深くから吹き出しているとして、人間に極めて有害であるなら、人間がここを去るか、それとも人間たちでどうにかしないといけないでしょ?」
この地上世界の自然を司り、自然そのものとも言ってもいい風の精霊のシルフェ様だから、局所的にとはいえ人間のために自然を改変する訳にはいかない、ということか。
「だが、それが自然そのものではなく、自然を穢すような何かの力や作用でそうなっているのなら、その限りでは無い。というか、そのために我らもこうして来ている」
「つまり、ケリュさん。まずはその原因や大もとを確認しろと」
「そういうことだ、ザック。まあ、これまでの経緯からすると、ここにも何かが潜んでおるのは間違い無いだろうがな」
その原因とか、潜んでいる何かとかを確認するためには、まずはあの大空間に足を踏み入れる必要がある。
そしてそれには、まずは有毒ガスの有無を確かめなければならないか。
「風を起こして、空気の中の毒を吹き飛ばしますか?」
「うーん、エステルちゃん。有毒ガスがあったとして、その濃度も分からないし、無闇に風を起こしても、いくら広いとは言え閉じた空間の中だからね。それに、こちらの通路からその先にまで行っちゃうんじゃないかな」
「そうかぁ」
「あと、さっきみたいな熱い突風がまた起きないとも限らないし」
「それならさー、その何かが吹き出しているところを、土魔法で蓋をしちゃえばいいんじゃないー?」
ライナさんの言うその方法も考えたけど、大空間の中に噴出口らしきものが何ヶ所かあるし、奥の方は入口から見たクロウちゃんの視界ではまだ確認出来ていないんだよな。
そういうのをすべて無視して大雑把に蓋をしちゃうっていうのもあるけど、それをやって中に踏み込んで果たして安全性が確保されているのか、そもそも原因の確認が出来るのか、もし何かと戦闘になった場合に動いて闘えるのか、すべてが不明だ。
「やっぱり、結界を強化して、その中で移動してあそこに踏み込んで、まずは何かが潜んでいるかを確認してからかな」
「それが無難か。ならば、ここは我が僅かながら力を貸そう。まずはその入口まで向かうぞ。そこでザックは、この結界を強めよ」
ケリュさんが俺の結界に何か力を貸してくれると言う。
それがどんな力かは言わなかったが、まずは大空間の入口へということで俺たちは足を進めた。
先ほど、偵察チームのふたりと1羽が辿り着いたその入口まで、全員で進んだ。
なるほど、なかなか大きな空間ですな。地下深くのドーム空間という感じかな。
ただし、先ほどクロウちゃんの目を通して見たように、地面の部分はゴツゴツした岩場になっていて平坦では無いし、望見される壁部分や高い天井部もあちらこちらから岩が飛び出したり垂れ下がっていて、極めて無骨な大空間だ。
「ふむ。では我が結界の外に出て、空気の状態ぐらいは確認してみるか。行くぞ、シルフェ」
「えー、わたしはイヤよ。明らかに臭いし、ザックさんの外に出たら、きっと鼻が潰れちゃうもの」
ケリュさんがシルフェ様を誘って確認しようと言ったら、きっぱり拒否された。
しかし、俺の外って表現はどうも、ですぞ。俺の結界の外ね。
「あー、じゃあ、なんだ、アルだ」
「わしですかいの。まあ、シルフェさんほど敏感ではありませんがのう」
今度はアルさんを誘って、しぶしぶ同意して貰った。
ケリュさんは神様なんだし、ひとりで出ればいいと思うのだけど、結構寂しがり屋なんだよな。ちょっと結界の外に出るだけなのだけどさ。
それでその神様とブラックドラゴンの男ふたりが、結界の外にひょいと出た。
「おお、これはなかなかに臭いですのぉ」
「そうとうに濃く充満しておるな。ふむ。確かに人間や動物には有害だな。どうだ? アル」
「人間であれば、ひと息吸い込んで、その場で倒れるぐらいのものですのじゃ」
検査のしようが無いのでその成分は分からないが、ケリュさんとアルさんの言うところからすると、人間にとっては致死レベルのガスがずいぶんと濃く充満しているらしい。
それだとこの大空間の入口から通路を伝わって外部にも漏れそうなものだが、これまではあの薄闇の壁がそれを留めていたということか。
でも、だとすると、先ほどの熱い突風で別れの広間かその先まで運ばれて行ってしまったかも知れないな。
「これは、空気よりも重たいものが混ざっておりますな」
「キ素よりも重いのか? アル」
「キ素は空気と同化しておるものじゃが、この毒は空気と混ざりながらも、下へと沈んでおるようじゃて。どら。やはりのう」
アルさんはその場でしゃがみ込み、少し息を吸い込むようにして確認しているようだった。
「アルったら。あなただって、あまり吸い込み過ぎちゃダメよ。あなたももうお爺さんなんだし」
「見た目の年齢は関係ないわい。しかしそうじゃの。あまり邪なものは吸い込まん方が良い。結界の中に戻りましょうぞ」
「そうだな」
エンシェントドラゴンだからこういった毒性のガスも大丈夫なのだろうかと、ちょっと心配しながら結界の外に居るアルさんを見ていたのだが、クバウナさんが吸い込み過ぎるなと言った。
やっぱりそうだよね。まあケリュさんの方は、なんら問題無さそうではあるけど。
カァカァカァ。なるほど、仮に硫化水素だとしたら、比重は1.19だから空気よりも少々重たいのか。
でもアルさんの話だとそれよりももっと重そうな感じなので、何か邪悪なものが混合しているか、あるいは硫化水素とは異なるガスなのかも知れないよね。
だけどその比重の高さもあって、これまでで一番深いこの地下空間から外へと流れ出ていなかったということもあるんだな。
ただし、仮になんとかあの薄闇の壁を抜けてここを探索しようとした人間がいた場合、これは最大のトラップだよな。
「それではザック。おまえの結界を最大限に強化せよ」
ケリュさんの言葉に、俺は呪文を口にして結界の防御性を俺が可能な最大値まで強化する。
問題はその場合、空気の流通をまでを遮断して密閉してしまいそうなことなのだが、安全な空気だけを外部から取り入れて毒性のガスのみ遮断するということが出来ているのかどうかまでは確証が無いんだよな。
ちなみに現在の結界の規模は、先ほどブルーノさんたちが先行したときよりも縮小させて、俺たち全員をゆったり包み込む程度になっている。
それでは入りますか。
俺たちはその最大限に強化した結界に包まれたまま、地下大空間へとゆっくりと足を踏み入れた。
「アルさん、毒は入って来てないかな」
「よしよし、どうやら入って来てはおらんようですぞ、ザックさま」
結界ごと大空間内に入ったところで足を停め、そうアルさんに確認したのだが、どうやら大丈夫そうだ。
他に確かめる術が無いので、ここはアルさんの言葉を信用しましょう。
エステルちゃんをはじめシルフェ様たちを含めた女性陣全員が鼻をクンクンさせているのだが、みんな大丈夫そうですね。
「ではここから、我が少し手を加えるか。あ、その前に、念のためにあの入口は塞いでおいた方が良いな。ライナさん、頼めるか?」
「え? いいわよー。毒が外に漏れ出ないようにするためかしら。えいっ」
ライナさんが内側から土魔法で、いま入って来た入口を塞いだ。
それは上下左右から壁の岩が入口を閉じて行くようで、おそらくはそんなイメージでライナさんが土魔法を行使したのだろう。
やがて入口の穴が徐々に狭まって、中心でぴったりと閉じた。
「ライナ姉さん。これだと、どこが出入り口だったか見分けが付かなくなりますよ」
「あ」
「オネルの言う通りだぞ。もう既にわからん」
「あやー、えーと、それじゃあ、はいっ」
オネルさんとジェルさんの指摘に、ライナさんが再び魔法を行使した。
するといま塞いだ部分に、翼を広げてこちらにいままさにブレスを吹こうとするドラゴンの姿がレリーフとして浮かび上がった。
「あらあら。あれってアルよね。ふふふ、良くできてるわ」
「師匠が敵を威嚇しながら、ブレスを吹く寸前の姿ですよ、これは」
「ライナさんの魔法は、いつも見事な造形ですよね」
「ほほう、わしのレリーフか。これは良いのう」
「前に造って貰った我の姿も素晴らしかったが、これもなかなかだ」
「あら、あなた。ライナちゃんにそんなの造ってもらったの? でもこれは良いわ。まるで古代遺跡の壁の装飾みたい」
「えへへ」
はいはい。そこで皆で鑑賞会も良いのですけど、ケリュさんが何かしようとしてたよね。
「おお、そうだった。ではだな、ザック。今度は結界を最大限に広げよ。そこに我が力を少々加える」
「ああ、なるほど。では」
俺は両手で印を結ぶ。
「我らを包むこの強き護りを、戦神の加護を得て更に広げる。臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
俺が九字の印を切ると、それに合わせてケリュさんがそこに手を翳した。
すると俺の構築していた結界の表面が微かに光を帯び、それがみるみる拡大して行った。
「おおー」
「これは」
「ひょー」
拡大した光る結界は、大空間の内部の全てとまでは言わないものの、そのかなりの部分を包み込んだ。
ケリュさんの神力が加わった故のものだけど、かなりの範囲だよな。
前世の経験で言えば、相当に強い神域の内側に入ったみたいな感じだ。
これならば戦闘になっても動く場所を気にすることは無いが、でも結界の外では毒性のガスが圧縮されて、大変なことになっているのではないですかなぁ。
あと、結界内では、先ほどまで時折見られた地熱蒸気のようなものの噴出が止まっている。
それも結界が押し止めたということか。
えーと、これはどのぐらい保ちますかね。
と思ったとき、突如ゴゴゴゴゴと地の下が鳴動し、地面のあちらこちらの何ヶ所かがむくむく隆起し始めていた。
「これは、何かが出て来るぞ」
「皆、戦闘に備えよっ」
俺の言葉にすかさずジェルさんの鋭い声が響き、レイヴンメンバーは敵の出現と戦闘に備える態勢を直ぐさま取ったのだった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
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