第92話 ミルカさんの探索報告 〜北方帝国南部の情勢
今年の夏も終わろうとしているある日、今日の午後は剣術稽古をお休みにしたので、俺は屋敷の図書室から本を持ち出して、2階の家族専用ラウンジで読書をするつもりでいた。
クロウちゃんは図書室では遊べるものもないし、俺が何を読もうかと本を漁っている間にヒマだからと本をつつくと、エステルちゃんから叱られるので、お空の散歩に行ってしまった。
図書室は屋敷の南側ウィング1階の奥にあって、宝物庫と隣り合い内部で繋がっている。
図書室も宝物庫もなるべく外光が入らないようにしてあり、昼間でもほかの部屋より薄暗いので、クロウちゃんはそんなところも好きじゃないのかもね。
この南側ウィング1階には、屋敷正面の表庭園側に面して、ヴィンス父さんの領主執務室とアン母さんの領主夫人執務室が並んである。
もともとは、ひとつのとても広い部屋だったが、母さんが嫁いで来てヴィンス父さんが子爵位を受け継いだ後に、「私も執務室が必要ね」とふたつの部屋に割ったのだそうだ。
だからこちらも、今でも内部で繋がっている。
廊下を挟んで領主執務室の向かいには、ウォルターさんの家令執務室とコーデリアさんの家政婦長執務室が隣り合っている。
コーデリアさんの執務室には、俺は未だ足を踏み入れたことがないが、エステルちゃんは以前に何度か呼ばれて入ったことがあるそうだ。
きっと、お説教されたときだよね。敢えて聞かないけど。
何冊か本を借り出して図書室から廊下に出ると、ちょうどその時、家令執務室からも誰かが出て来るところだった。
ウォルターさんと、もうひとりのあの人は、たしか港町アプサラのミルカさんじゃないかな。
俺に続いて廊下に出たエステルちゃんも気がついて、とことこ近寄って行った。
「ミルカ叔父さん、お久しぶりですぅ」
「お、エステルか、相変わらず元気そうだな。ザカリー様もご一緒か?」
「はい、あちらに」
俺も近寄って行く。
エステルちゃんの叔父さんのミルカさんは、港町アプサラの代官モーリス・オルティス準男爵のもとに常駐して、探索の仕事に就いている人だ。
去年の夏、竜人の双子フォルくんとユディを俺が預かった一件では、兄妹が乗船して来た北方帝国ノールランドからの船などを調べてくれていた。
結局その後の調査で、俺が兄妹を預かったその相手の、クラースという人の素性や足取りは分からなかったようだが。
「ザカリー様、ちょうど良いところに。今から子爵様の執務室でミルカからの報告を聞くのですが、お時間がありましたらご一緒にいかがですか」
「うん、時間は充分にあるから。でも、いいのかな?」
「はい。昨年にお聞きいただいていることの、続きのような内容ですし」
「続き?」
領主執務室に入ると、父さん母さんとそれから騎士団長のクレイグさん、副騎士団長のネイサンさんのいつものメンバーが揃っていた。
「お、ザックも来たのか。まぁいいだろう。おまえも一緒にミルカの報告を聞け」
父さんからそう許可が出た。
エステルちゃんも一緒だけど、ここにいる人たちの中では俺たちはセットらしいから、何も言われない。
「ミルカ。まずは長期間ご苦労だったな。元気そうでなによりだ」
「大変だったでしょう?」
「はい、ありがとうございます。子爵様、奥様」
ミルカさんはファータ人の探索者だから、どこかに長期に渡って探索に行っていたのだろうか。
「ザカリー様、報告を受ける前に少しご説明しておきますと、ミルカは昨年のアプサラでの一件と王都での貴族会議の後、子爵様のご指示で北方帝国とリガニア地方の偵察に派遣されていました。それで先ごろ子爵領に戻り、報告のために領都に立ち寄ったのです」
「そうなんですね。ウォルターさん、ありがとう」
リガニア地方では、現在も北部にあるボドツ公国とリガニア都市同盟との紛争が続いている。
リガニア都市同盟からの支援要請にどう応えるかが、昨年に父さんが出席したセルティア王国貴族会議の議題だった。
それにしてもミルカさんは、北方帝国ノールランドとそれからリガニア地方へも探索の旅をして来たんだね。大変だっただろう。
「それではあらためて、ミルカに偵察結果の概略を報告して貰いましょうか」
「はい、ウォルター様。子爵様、皆様方、それではご報告いたします」
「昨年9月に、子爵様からのご指示をいただいた後、アプサラ停泊後に北方帝国まで足を伸ばす商船に商人として乗り込み、帝国南部の港町ズートンで下船。そこから帝都カイザーヘルツまで行き、暫く滞在しました。その後、南下して北方大山脈の峠道を越え、ボドツ公国に入り、いくつかのリガニア都市同盟加盟都市を回って、セルティア王国に戻りました」
ミルカさんが簡潔に旅程を説明する。
凄い距離を旅して来たんだね。昨年9月中にアプサラを出発したのなら、10ヶ月以上にも及ぶ探索の旅だ。
「そうかそうか、それはご苦労だったな。して、まずは北方帝国の様子はどうだったかな」
クレイグ騎士団長があらためて労い、続きを促す。
「ご承知のように、ズートンは帝国の港としては最南部にあり、キースリング辺境伯領からそれほど距離がある訳ではありません。私はまずズートンを起点として、北辺境伯領との国境近辺まで何度か足を伸ばして偵察を行いました。ですが昨年の秋の時点では、帝国軍が集結、もしくは大きく動いているといった情報は、特に得られませんでした」
セルティア王国が北方帝国ノールランドと直接に国境を接しているのは、話に出た北辺境伯領、つまりモーリッツ・キースリング辺境伯領のみだ。
昨年、リガニア都市同盟から支援要請を受けたことや、それによりセルティア王国で貴族会議が招集されたことは、北方帝国でも情報を掴んでいるだろうから、まずは国境近辺での帝国軍の動きを探ったのだろう。
「国境近辺や帝国南部で、帝国軍の目立った動きがあるようでしたら、すぐにでも報告に戻る必要がありましたが、そのような状況でしたので、次に帝都に向かいました」
「そうだな、モーリッツ辺境伯の方でも随時、偵察を行っているようだが、現在までも特に大きな動きはないと聞いている」
「帝国南部の人心の様子はどうだったかね」
「いたって平穏で活気もありました。積極的な産業奨励を行っているとのことで。あと、ひとつ気になることと言えば、北方15年戦争以来途絶えていた、アラストル大森林の探索活動が再開されたという話でしょうか」
「大森林探索の再開ですか。ふーむ」
ウォルターさんもその情報が気になるようで、クレイグ騎士団長に何やら目配せをしていた。
俺たちが住む子爵館の裏手から広がるアラストル大森林は、モーリッツ辺境伯領の方にも伸びているが、その北側は北方帝国にまで入り込んでいる。
つまり、仮にアラストル大森林内を通過できるのであれば、北方帝国から北辺境伯領に、そしてグリフィン子爵領やその他の大森林に接する貴族領にも、直接行くことができる。
現実的には、大森林内では国境は不明確だ。
しかし北方15年戦争でも、大森林で戦闘が行われたことはない。
大森林内での危険を考えれば、戦争を行うのはおろか、その内部を通過して行くなどとても考えられないからだ。
大森林で二度会っているフェンリルのルーノラス、ルーさんは北方帝国側の探索を知っているのかな。
俺はそんなことを思いながら、ミルカさんの報告を聞いていた。
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エステルちゃんが主人公の短編「時空渡りクロニクル余話 〜エステルちゃんの冒険①境界の洞穴のドラゴン」を投稿しました。
彼女が隠れ里にいた、少女の時代の物語です。
ザックがザックになる前の1回目の過去転生のとき。その少年時代のひとコマを題材にした短編「時空渡りクロニクル外伝(1)〜定めは斬れないとしても、俺は斬る」もぜひお読みいただければ。
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