第912話 世界樹の木の実入りクッキー
商業国連合のヒセラさんとマレナさんが屋敷に来訪したあと、例の世界樹の木の実入りクッキーはうちの女性陣の手で完成したのだけど、いまは食品も劣化しない俺の無限インベントリの中に保管されている。
と言うのも、いざ作製から試食となった過程で少々騒ぎになったからだ。
出来上がったクッキーは、外観は何の変哲もないごく一般的なものに見えた。
焼きたてから少し時間が経って冷えていても、甘い香りが漂っている。
作っていた様子を俺は見ていないのだが、まずは一定量をシルフェ様たちが風魔法で乾燥させた後、アデーレさんが用意してくれた胡桃割りの器具で殻を割り、その中身の仁の部分を焦がさないようにフライパンでゆっくりローストする作業を行った。
これはこの段階でいちど火入れをした方が良いだろうという、クバウナさんのアドバイスがあったからだ。
アルさんも、人間が食すにはまずは煎った方が良いと言っていたしね。
このときに、世界樹の独特で濃厚な香りが立ち上がったそうだ。
ドリュア様の棲む世界樹を訪れたときに、俺たちを常に包んでいたあの香りですな。
樹液でもそれは感じることが出来るが、それに甘い香りが強くブレンドされていたとクバウナさんが言っていた。
ロースト作業はシルフェ様とシフォニナさん、クバウナさんが行っていて、ライナさんとシモーネちゃんは少し離れて見守り、アデーレさんとエディットちゃんはそこから更に距離を取っていたとのこと。
乾燥作業ではエステルちゃんも加わっていたが、殻を割る作業以降は念のために人間は離れていた方が良いと、クバウナさんから指示があったそうだ。
また、ジェルさんとオネルさんとユディちゃんも厨房に見に行っていたのだが、このロースト作業が始まる前にヒセラさんとマレナさんが到着したので、エステルちゃんとカリちゃんと共とラウンジに方に来ている。
そして、俺たちがラウンジで話をしているときに最初の事態が起きた。
まず、ロースト作業の場所に比較的近かったライナさんが、酩酊状態のようにふらふらになったらしい。
そしてだいぶ離れていたアデーレさんとエディットちゃんも、なんだか頭がぼんやりとして来たのだそうだ。
お手伝いしていたシモーネちゃんは大丈夫だったんだね。
そう確かめると、「ザックさまは、わたしが風の精霊の子って忘れてますよね」と言われた。
ああ、そうでした。
後から聞いた3人の話によると、どうもお酒に酔った感じに近かったそうだが、クバウナさんとアルさんの解説では、キ素の過剰摂取が原因ではないかとのこと。
つまり、キ素酔いというものらしい。
通常、魔法を遣う際には、空気中に存在するキ素を摂り込んで身体内で循環させてキ素力へと変換し、それをベースにして魔法発動を行う。
摂り込む量や循環量には個人差がかなりあるようで、それが魔法力の強弱に影響する。
うちの母さんが開発したアナスタシア式キ素力循環準備運動は、この循環とキ素力への変換効率を高める効果があるものだね。
ライナさんの場合、人間の基準からすると魔法力は達人クラスでキ素摂取量が多く、また循環や変換効率もずば抜けて良い。
なので、世界樹の木の実をローストしていた際に、どうやら熱を入れて立ち上がった香りを嗅いで何らかの成分を吸い込み、その影響のせいか意識せずに大量のキ素を摂り込んでいたらしいのだ。
それが彼女の急激なキ素酔いの原因で、アデーレさんとエディットちゃんもライナさんほどでは無いにせよ、ごく軽いキ素酔い状態になったようだ。
つまり、人間という容器にこれまで入れたことのないような過剰な量のキ素が注がれてしまって、身体が対処し切れずに酩酊を引き起こしたということらしいね。
もうこの段階で、早くも危険物じゃないですか。ここまでの話を聞いて、既にやれやれだ。
クバウナさんがライナさんの治療を行い、アデーレさんとエディットちゃんにも回復魔法を施し、取りあえずは事なきを得た。
この段階で作業を中止させても良かったのだが、俺たちはラウンジで話をしていて、まだ状況を把握していなかったんだよね。
シルフェ様が作業を監視しながら陣頭指揮を執っていたので、彼女とすれば致命的な危険は起きないという判断だったらしい。
それから煎った世界樹の木の実を細かく砕き、平常状態に戻っていたアデーレさんの監修のもとでそれを小麦粉に混ぜ込んでクッキーの生地作りを行って成型し、窯で焼いた。
この時点でヒセラさんとマレナさんは帰り、同席していたエステルちゃんたち女性陣は厨房に戻った。
そして暫くして、世界樹の木の実入りクッキーが焼き上がる。
俺とケリュさん、アルさんとクロウちゃんも、この時点で厨房に呼ばれている。
ライナさんはとてもすっきりした表情で元気そうだったけど、ここで俺たちもロースト作業時の出来事を聞くことになった。
「ほほう。そうじゃとすると、キ素を身体内に摂り込む力を増大させる効果もあるのかのう」
「わたしもそうかなって思ったわ、アル。ただ、個人差はだいぶあるみたいね」
「アデーレさんとエディットちゃんは少し離れてましたけど、香りとおそらく立ち上がった成分は、厨房内にかなり広がっていましたよ」
クバウナさんとシフォニナさんの話からすると、世界樹の木の実の影響力や効果は同じ人間であってもだいぶ異なるのかも知れない。
「あんなに酔っぱらうって、きっとライナちゃんだからよ」
「えー、そうですかー、シルフェさま」
「なにを照れてるんだ、ライナは」
「すると、エステルちゃんやザックさまだと、どうなっておったかのう」
「エステルは……そうねぇ。ザックさんは、たぶん影響無しね」
「我もそう思う」
「そういう感じなんですね、ザックさんの場合」
それってどういうこと?
シルフェ様は言葉を濁したけど、エステルちゃんの場合にはおそらく風の精霊化が進行しているので大丈夫なのでは、ということじゃないかな。
でも俺は、何も進行してませんよ。
「キ素を入れて動かす器の問題もあるかのう」
「そこは関係があるかも知れないわ」
「ザックさまって、器の大きな男ってことですかね」
いやいやカリちゃん。アルさんとクバウナさんが言っていることと、その表現は少々意味が違う気がするよ。カァ。
「それで、ここに並べられておるこの、クッキーだったか。これはどうするのだ? 結構たくさんあるぞ」
「いま粗熱を取っていますので、普通のクッキーならもうそろそろ頂ける頃合いですけど」
「おお、そうなのだな、アデーレさん」
ケリュさんは食べる気満々だな。
でも、あなただったら、世界樹の木の実入りだろうが普通のクッキーだろうが、何も変わりは無いでしょうが。
「そうしたら、まずはわたしたちで頂いてみましょうか。ね、クバウナさん」
「そうですね、シルフェさん」
「ほらあなた、直ぐに手を出さないの。ザックさんのご許可が出てからにしなさい」
「食べていいかな? ザック」
まずは人間はお預けで、人外メンバーで試食してみるということですか。
まあこの方たちなら、何を食べても大丈夫だろうから良いでしょう。
しかしケリュさんは、お預けを喰らったワンコ、いやシカか。そんな顔で俺の方を見ない。
「それでは、試食してみてください」
「よしっ」
あ、シモーネちゃんも食べていいですよ。
そこの食いしん坊神様や甘い物好きドラゴン爺様よりも、よっぽどお行儀の良い精霊っ子だね。嬉しそうに食べている姿も可愛いし。
「普通に美味しいわね」
「敢えてお砂糖はごく少なめにしましたけど、やはり世界樹の木の実が程よく甘さを増していますよ」
「うむ、美味いな。これはいくらでも食べられるぞ」
「これでお腹いっぱいにしたら、あなたはお夕食は抜きね」
「何を言うか、シルフェ。夕食は夕食で、美味しく頂ける」
「もう、そんなにいくつも食べないのよ」
もうこの夫婦は放って置いていいですよね。
「それで、何か効果的なことは感じられましたか?」
神様や精霊様に聞いてもあまり意味が無さそうな気がしたので、3人のドラゴンに世界樹の木の実を食べた効果についていちおう聞いてみた。
「そうですねぇ。これはあくまでわたしの感覚ですけど、体内のキ素を活性化させる効果もありそうだわ。アルとカリはどう?」
この地上世界における白魔法の総元締であるクバウナさんは、食べた印象をそう話した。
おそらく先ほどのロースト時に起きたキ素摂取増大効果に加えて、活性化効果もあるということかな。
「そうじゃな。わしもそんな感じがする。これはおそらく、人化しておるせいもあるのじゃろうが」
「わたしもでーす。なんだかいつもより、強力な魔法が撃てそうですよ」
先ほどアルさんとクバウナさんが話していた器の問題というのには、いろいろな意味が関係して来そうだよな。
キ素を身体内に摂り込める量の大きさ、キ素力の循環量、そして身体自体の物理的大きさや構造なども関係があるということか。
「ねえねえ、ザカリーさま。わたしたちも食べてみちゃダメー?」
「ライナ、おまえ、さっき匂いだけで酔っぱらったのでは無いのか」
「でも、ちょっとだけなら食べてみたいですよね」
お姉さんたちも試食したそうですよね。どうしようか、エステルちゃん。
「そうですねぇ。少しだけ齧ってみるぐらいなら」
「カァカァ」
「クロウちゃんはあっち側だから、食べても大丈夫そうだよな」
「カァ」
クロウちゃんの身体構造というか存在自体は、どちらかというとそこのドラゴンたちと似ている筈だからね。
エステルちゃんも好奇心は抑えられないみたいなので、彼女の言う通り少量だけ食べてみますか。
と言って、そのエステルちゃんもあちら側に近い気がするけど。
「そうしたら、少しだけ分けて、味見だけということで」
「よっしゃー」
そもそも小さなクッキーだけど、いくつかに割って分けて味見を……。
「あ、こらライナ。丸々ひとつ食べたな」
「えへへ、つい……あれ? なんだか身体が熱いわ……ありゃりゃりゃぁ……」
ライナさんがまるで頭から湯気でも出しているかのように、顔が真っ赤になっている。
そして呂律が廻らなくなり、大丈夫かとジェルさんたちが彼女の身体を支えようとする前にへなへなと床に崩れ落ちた。
俺は直ぐに側に駆け寄り、彼女の身体の状態を見鬼の力で診る。
これは。キ素力が結構な勢いで身体から漏れ出ているぞ。身体内でも暴れ回っているようだ。
「クバウナさん。キ素力が暴走してます」
「わかったわ。まずは落ち着かせて、放出させましょう」
クバウナさんも急いで床に倒れているライナさんに近づき、魔法治療を施し始めた。
「これで、強制的に身体の中のキ素力を落ち着かせて、外に放出出来る筈よ」
その魔法治療を見鬼の力で見ると、通常の回復魔法とは言ってみれば逆の働きをさせているようだ。
回復魔法では身体内のキ素力を強制的に活性化させて、身体細胞や機能の自己回復を促進させる。
だがクバウナさんのこの魔法は、非活性化させると同時にキ素力を取り除くものらしい。
「少しずつにしてるから、ゆっくり元に戻るわ」
「そのようですね。徐々に落ち着き始めています。キ素力も抜けて行っていますね」
「ザックさん、あなた、それが見えるのね」
「あ、いや」
「ザックは、我と同じように見えるのだな?」
どうやらケリュさんも、俺の見鬼と同じような力があるらしい。
「そうか。向うの神に授けられたか」
「ええ、そうなんです」
「おまえの収納の力もそうかと思っておったが、なるほどな」
まあいまはその話は良いでしょう。それよりも世界樹の木の実入りクッキーだ。
ここまでで、ライナさん以外のジェルさん、オネルさん、ユディちゃん、アデーレさんとエディットちゃん、そしてエステルちゃんと俺とクロウちゃんは、クッキーをほんのひと欠片ずつ口に入れていた。
その結果として、ジェルさんたちは一様に少しだけ身体が火照る感じにはなったが、それ以上の状態異常は見られなかった。
ちなみに、エステルちゃんはほとんど体調の変化が無く、俺も同様。クロウちゃんもだね。カァカァ。ああ、活力が漲った気がしたですか。カァカァ。栄養ドリンクを飲んだみたいな感じね。
もちろん、食べた量の違いはあるので何とも言えないのだが、どうやらライナさんがいちばん相性が良いと言うか悪いと言うか、効果や影響の度合いが高いようだ。
クバウナさんの治療のおかげで元の状態に戻った彼女は、「えへへ、失敗しちゃったー」とあまり反省や落ち込む様子は無いみたいだけどね。
ともかくもこの世界樹の木の実入りクッキーは、個体差がかなりあるものの、食べる量によって身体内のキ素力を猛烈に増大させ、強力に活性化させる効果があることは分かった。
しかし、見た目は普通のクッキーと見分けが付かないし、誤ってたくさん食べてぶっ倒れる危険性がある。キ素力の暴走って、怖いんですよ。
「よって、これは封印します」
「ええー」
「ライナ。おまえは文句は言えんぞ」
「だってジェルちゃん」
「ライナ姉さんのせいですからね」
「そう……だよねー」
ライナさんも少し反省してください。
あと、そこの神様とドラゴンの爺様は、残念そうな顔をしないように。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
引き続きこの物語にお付き合いいただき、応援してやってください。




