第896話 グリフィニアから新しく生まれた2つのもの
アデーレさんが作ったクレープの名称は、結局この世界でクレープという単語が意味不明だったので、この場に居た皆の意見を入れて「グリフィニアガレット」となった。
グリフィニアで誕生したお菓子のガレットだからね。
ザックガレットと誰かが言ったがそれは無いし、アデーレガレットは本人が激しく拒絶した。
俺はクレープで良かったのだけど、単一言語であるこの世界では基本的に外来語というものが無い。
その点、単語の意味は分からなくても、名称や行為などの表現がいつしか定着してしまう俺が前々世で生きた社会は、ある意味自由度が高いと言うか、受容性や許容性があると言うか、テキトーと言うか。
包み込む具材は、王都のそれも学院祭である程度の数量を提供することを考えると、やはりフルーツのプレザーブジャムを基本にした方が良いだろうと、これはレジナルド料理長とトビー・パティシエの意見だ。
俺としてはショコレトールを是非使いたいのだけど、いま現在、在庫がほどんどありませんからなぁ。これは致し方ない。
ジャムについては、今日アデーレさんが用いた桃のほか、夏から初秋にかけてのものとして早生のブドウやマルメロ、ぺアー、プラムなどがある。マルメロは西洋花梨、ペアーは洋梨のことだね。
どれも生食よりは加工用とすることが多く、ジャムの素材としてはこちらの世界でも一般的だ。
「スイカはダメですかね?」
「スイカは厳しいでしょ、エステルちゃん。あれはそのまま、かぶりついた方が」
トビーくんによればスイカのジャムもあることはあるが、水分が多くなかなかトロみが出ないのと、プレザーブジャムとして元のスイカの食感を出すのはかなり難しいとのことだ。
ともあれ具材にするプレザーブジャムは、トビーくんが子爵館の果樹園の果物を使って用意してくれることになった。
うちのパティシエは頼りになりますな。それと、子爵館の果物を材料にするので、あとで栽培責任者のダレルさんにもひと言お願いをしておこう。
あと、学院祭でうちのクラスの魔法侍女カフェで提供するとしたら、ひとつ問題点というか検討しなければいけないポイントがあるのに俺は気が付いた。
つまり、クレープ生地、いやグリフィニアガレットの生地をどこで焼くのかということだ。
「うちのお屋敷でたくさん焼いて持って行くのでは、ダメなの?」
「わたしも、これまで通りお屋敷で作ってと思っていましたが。中身は学院で、みなさんが包むのも良いと思いますけど、生地は」
そうなんだよね。クレープって、この薄く程良く焼き上げるところがいいんだよな。
アデーレさんははっきり言わなかったけど、おそらくうちのクラスの連中が付け焼き刃でやっても、まともに焼けないだろうと俺も思う。
それに、広いとはいえ本来は教室だから、火を使う調理の問題もあるしね。
学院祭だと屋外に出している屋台なんかでは火を使ったりもしているが、教室の中ではやはり難しいかな。
学院祭を監督している学院生会からダメって言われそうだよな。
でもクレープって、やはり焼きたてが良いのですよ。それに大量に作って重ねて置いておいたりすると、なんだかシナシナになってダメになりそうだし。
ん? なんですか? クロウちゃん。
「カァカァカァ」
「なるべくペタっとならないようにするには、砂糖の量を出来るだけ少なくすればいいんですか? クロウちゃんたら、あなたどうしてそんなこと知ってるの?」
「なるほど、それはそうですね。砂糖を極力減らすか、あるいは入れないでどう出来るか。でも具材が甘いジャムだから、その方がいいかな」
「それは言えてるっすよ、アデーレさん。クロウちゃんは良くそんなこと知ってるなぁ」
おそらく、俺の記憶の片隅のどこかにそんなものがあったのを、彼が引っ張り出して来たのだろうな。
冷めていたとしても、少なくともペタっとしてシナシナになっていなければいいか。
「あとは、焼いたのをザックさまのあそこに保管しておけばいいですよ。ね、エステルさま」
「あら、考えてみればそうね。いつも温かいのはそのままだし、冷たいのは冷たいし」
「カァカァ」
エステルちゃんとカリちゃんとクロウちゃんが、そんなひそひそ話をしている。
俺のあそこって、無限インベントリのことだよね。確かに入れた時点での状態で永久保存されるのでその通りなんだけどさ。
と言うことは、俺が毎朝とかにこっそり出す訳ですかね。カァ。
「このクレープ、じゃなかったグリフィニアガレットがひとつで、もうひとつあるって、アデーレさん。そう言ってましたよね」
「はい。もうひとつ、別のも研究したんですよ。こちらはトビーさんが中心になって」
「僕が中心だなんて。一緒に考えて試作したじゃないっすか」
「ほほほ。そうね。トビーさんとそれからリーザさんと」
「エディットちゃんとシモーネちゃんも、ずいぶん手伝ってくれたんですよ」
「はい。エディット姉さんとシモーネも、お手伝いしましたです」
「トビーさんとリーザさんのお家に遊びに行ったときも、お菓子づくりしましたしね」
「せっかく夏休みで遊びに来て貰ったのに、うちの人、お菓子のこととなると周りが見えなくなるので。ごめんなさいね」
「でも、とても楽しかったです。ね、シモーネちゃん」
「はい、凄く楽しかったのです」
アデーレさんとトビーくんとで考えて、先日の夏休み期間中も彼らの家で試作をしていたそうなのだ。
そんな会話をしている様子を、レジナルド料理長がなんだか嬉しそうに眺めていた。
長年、トビーくんにとって親方とふたりだけと言っても良かった環境が、一気に家族が増えて変化したみたいに感じられて、嬉しかったのだろうね。
「トビー兄貴も、ようやく温かさ溢れる幸せを掴んだのですなぁ。まるで母や妹が、いっぺんに出来たようだ。ここはひとつ、レジナルドさんもアデーレさんと、とかどうですか。あの人もいまは独身だし、料理長もそろそろここらで落ち着いても。それでトビー夫妻の父と母になって」
「な、何を言ってるんだか、ザカリー様はよ。俺は、そんな……。それよりも、もうひとつのお菓子だろ。おい、トビー。ザカリー様が変なこと言って来やがるから、早く次のを出せ」
「ザカリー様は、待ち切れないからって親方をからかって遊んでないんすよ。じゃアデーレさん。僕が出していいですか?」
「ええ、お願いします」
「ザックさまは料理長を困らせてないで、こっちに来てくださいね」
「はいであります」
トビーくんが冷蔵庫から出して来たのは、大きなホールケーキだ。
だがその姿や色合いは、カラフルというのではなくじつにシンプルなものだった。
「ほう、これは。チーズケーキですか」
「カァカァ」
「そうだね。焼いてあるからベイクド・チーズケーキだ。なんだかニューヨーク風に似ているよね」
「カァ」
「でも、グリフィニアにクリームチーズとかあったかな。あ、フレッシュチーズのどれかを材料にすれば出来るのか」
「カァカァカァ」
「うん。食べてみないと味は分からないけど、見た感じは滑らかで上品だから、確かにキミが言う通り、そこらのチーズで作ったというものでもないみたいだね」
「ほら、またふたりで早速、始めちゃいましたよ」
「ザックさま。また盛り上がってるところ悪いですけど、やっぱりアデーレさんとトビーさんのお話を聞いてからに」
「あ、はいです」
「カァ」
このケーキ、見た目はまさしくベイクド・チーズケーキ。
それも、前々世でニューヨークチーズケーキと呼ばれていたものに大変そっくりだ。
でもあれは、ニューヨークと名前が付いているように、アメリカ大陸にヨーロッパから移民が入って以降、たぶん19世紀以後に出来たものじゃないかな。
それが、この世界でいま目の前にある。
「ザカリー様もエステル様も、街や屋台で売られている白チーズケーキって、食べたことあるっすよね」
「ええ、ありますよ」
「はいです」
「あれはあれで美味しいんすが、なんだかちょっと野暮ったいと言うか、もっと洗練されたのを僕は作りたくて」
グリフィニアで庶民の食べ物のひとつである白チーズケーキとは、素朴なチーズケーキだ。
良くあるのはドライフルーツなどが混ぜられて焼かれたもので、確かにドテっとした感じと言うかトビーくんの言うように洗練されたケーキという感じはしない。
もしかしたら、チーズのパウンドケーキかカステラと言ってもいいのかな。
カァカァカァ。なになに? あれって、ポーランドの伝統菓子であるセルニックというチーズケーキに近いんじゃないかって。
セルニックはまさに、ニューヨークチーズケーキの原型になったものなのか。
へぇー、キミって良くそんなニッチな知識があるね。カァ。
「あのケーキは簡単に言うと、柔らかい白チーズをケーキ生地に混ぜ込むんすけど、僕が考えるに問題はその白チーズなんすよね」
「ほうほう」
この世界でももちろん日常的にチーズは食べられていて、熟成チーズもあればフレッシュチーズもある。
一般的な白チーズはカッテージチーズタイプのもので、クロウちゃんによるとこれが前世の世界でのセルニックの材料である、トファルグというチーズに近いものなのだそうだ。
俺って、そんな知識を記憶の中に仕舞い込んでたかな。ぜったい初めて聞くんだけど。カァ。ああ、あまり深く考えなくていいのね。
「白チーズって、パンに塗ったりして食べると美味しいっすよね」
「うちでも良く出すからな」
「そうっすね、料理長」
「でも、ケーキにするにはもっと滑らかにする方がいいんじゃないかって、それでアデーレさんに相談したんすよ。そうしたら、出来上がった白チーズに後からどうこうするより、白チーズを製造するときに何かした方がいいんじゃないかって、そう言われたんすよ」
「わたしは、ザックさまがショコレトールを初めて作るのを見てましたからね。このザックさまがあんなに手間ひま掛けて、混ぜ込むミルクの量も繊細に気を付けて、魔法まで遣って丁寧に練り込んで、それであれほど滑らかで洗練されたショコレトールに仕上げるのを、横で見ていましたから。なのでたぶん、チーズもそうすれば違うんじゃないかって、そう思っただけですよ」
「本来、武術以外は飽きっぽいですもんね、ザックさまの場合」
「あら、でも意外と、気に入ると妙に熱心なのよ、この人」
「それも修行の一環ですかね」
「あー、僕のことは、いまは良いのであります」
トビーくんとアデーレさんの話を聞いていて、だいたいは想像が付きましたぞ。
つまりこのチーズケーキは、出来合いの白チーズを材料にしたものではなくて。カァカァ。そうそう、オリジナルのクリームチーズをきっと使っているんだね。
前々世の世界のニューヨークチーズケーキも、アメリカで開発されたクリームチーズを材料にしていると思うので、きっとそうだよね。
「それで僕は、ソルディーニ商会に頼んで白チーズの製造工房を紹介して貰って、そこの親方に協力していただいて、特別のオリジナル白チーズを作ったすよ。もちろんアデーレさんにもアドバイスを貰って」
「ほほほ。わたしがアドバイスだなんて。でも、リーザさんも一緒に3人であのチーズ工房に行って、とても楽しかったですよ」
へぇー、そんなことをしていたんだね。
アデーレさんもこの夏のグリフィニアで、いろいろと行動していたんだ。
「まあごく簡単に言えば、白チーズの製造工程で生クリームを普通よりもずいぶんと多めに入れちゃうんすよ。それで混合を丁寧に、濾過も入念に行って、更に練り込みも。工房の親方は、そんなに手間を掛けたら、量も出来ないし売りもんとしたらバカ高くなっちまうとか、言っていたすけどね」
フレッシュチーズは基本的に生乳と生クリームを混合したものに乳酸菌を加え、発酵させ凝固したものからホエイ、つまり乳清を取り除いたものだ。
そして最後の工程でより滑らかなチーズにするために、練り込んで均質化を行う。
ここで、俺たちがショコレトール製造で用いたような重力魔法を遣えば楽なのだろうが、手作業だと大変だろうね。
だからそのチーズ工房の親方の言うことは良く理解出来るが、将来的なショコレトール製造においても参考になる話ですな。
「それで、出来上がったチーズがこれっすね」
「おお、まさにクリームチーズですな。これは」
「クリームチーズ? ああ、そうっすそうっす。ザカリー様の言う通り、これはクリームチーズっすよ」
クリームもチーズもこの世界で理解出来る言葉だから、これはすんなり腑に落ちたようだ。
「それで焼き上げたのが、このケーキという訳っす」
「いえね。去年はザックさまのザックトルテだったでしょ。それで、さっきのグリフィニアガレットでも良いとは思ったのですけど、やっぱり前があんなに洗練されたトルテでしたのでね。なのでガレットは手軽な感じで、こちらはちょっとお洒落なケーキということで」
なるほどですね。それで、トビーくんの開発成果と合わせてこのチーズケーキを仕上げた訳ですか。
いやあ、なんだか親子での共同製作みたいで、良いのでありますなぁ。
「味見、いいかな?」
「もちろんっすよ」
「さあ、切り分けましょうね」
生地の材料の配合、焼き具合などもずいぶんと試行錯誤を重ねたそうだが、そこを上手く仕上げるのは、やっぱりケーキ作りのベテランのアデーレさんだよね。
ケーキに関しては彼女に習うところがまだ沢山あると、トビーくんも正直に言っていた。
「これは美味しい。やっぱりニューヨークチーズケーキだ」
「カァカァ」
もうかなり昔に食べたときの記憶の欠片しか無いけど、これはその記憶を呼び起こす以上の出来映えだった。
「本当に美味しいわ。口当たりが滑らかで、酸味と甘さが程よくて。でもザックさま。お名前はその訳わからないのじゃなくて、こちらはグリフィニアチーズケーキとかどうですか?」
「うん、僕もそれが良いと思うのであります。どうかな、アデーレさん、トビーくん」
「エステルさまが名付け親ですから、わたしも賛成ですよ」
「グリフィニアで生まれた新しいガレットと、新しいチーズケーキということっすね。大賛成っす」
グリフィニアは前々世の世界の大都市ニューヨークと比べたら、遥かに小さくて田舎の街だけど、この洗練された都会的な印象のチーズケーキは、充分に対抗出来ると思いますよ。カァ。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
引き続きこの物語にお付き合いいただき、応援してやってください。




