第895話 アデーレさんが作った今年の新作お菓子
グリフィニア子爵館の屋敷の厨房は、ゆったりとした広さが確保されている。
俺が生まれてからずっと、レジナルド料理長とアシスタントコックのトビーくんのふたりでこの厨房を切り盛りし、屋敷の食を賄って来た。
少年時代をアナスタシアホームで過ごしたトビーくんが料理長に誘われてうちに来る前は、何人かのアシスタントを雇っていたこともあったそうだが、この15年ほどはふたりだけのシンプルな職場だ。
それが近年は、お菓子づくりの才能を開花させたトビーくんが専属パティシエと呼ばれるようになり、グリフィン子爵家発案でソルディーニ商会が製造販売するお菓子のレシピづくりや監修を行っている。
また今年の冬休みと今回の夏休みには、王都屋敷料理長のアデーレさんも来るようになり、とても賑やかになった。
もちろんアデーレさんもお菓子づくりには秀でているので、この厨房は屋敷の人たちのための料理と共にお菓子やデザートも作製する工房のようになっている。
アデーレさんが呼んでいるというので、俺とカリちゃんが呼びに来たシモーネちゃんとクロウちゃんと共に厨房に行くと、そこには料理長とトビーくん、アデーレさんの3人のほか、エステルちゃんとエディットちゃんにトビーくんの奥さんのリーザ侍女長も顔を揃えていた。
レジナルド料理長は親方であると同時に両親のいないトビーくんの父親代わりであり、またアデーレさんもトビアス夫妻に対して母親のように接しているので、ここはファミリーで運用する厨房のような温かさが感じられる。
「アデーレさん、お呼びというので急ぎ罷り越しました」
「またまた、ザカリー様は相変わらず大袈裟だよなぁ」
「何を言うとるですか、トビーくんは。アデーレさんが呼んでいるのならば、何を置いても急いで来なければならんでしょうが」
「僕が呼んでも、へーい、そのうち行くよ、とかじゃないすか。態度がぜんぜん違うんだよなぁ」
「そこはそれ、大切さの度合いの違いでありますよ」
「大切さの度合いって、僕はそんなにランクが低いっすか」
「あー、リーザさんを奥さんに迎えたので、評価は少し上がったかな」
「なんすか、それ」
「ザックさま、もういいかしら?」
「あ、いちおう済みました」
これ以上続けているとエステルちゃんに叱られるので、このぐらいにしておきましょう。
それより、アデーレさんの用って何ですかね。
「明後日にはここを発って王都に戻りますからね。それでザカリーさまにまずは見ていただいて、味見もと思いましてね」
「お、もしかして、新作のお菓子?」
「学院祭に出すために、アデーレさんがずっと研究していてくれてたんですよ」
「きっとこれ、ザックさまは忘れてましたよね」
「あー、いやいやカリちゃん。決して忘れてなどおらんのでありますぞ」
「こういう変な話し方をするときは、だいたいが何か誤摩化そうとするときっすよね。ザカリー様の場合」
「そんなことはありませんぞ、トビー選手。だいたい……」
「ザックさま。アデーレさんのお話はまだ途中ですよ」
「トビーったら、あなたも直ぐに突っかからないの」
「はいです」
「はいっす」
トビーくんもこうやってリーザさんから良く叱られていそうだよね。
あとレジナルド料理長は少し離れてこちらを見ているけど、そこで大笑いしないように。
「まずは見ていただきましょうかね。じつは2種類あるんですよ。工夫するのに、もうひとつの方はトビーさんも一緒に考えてくれたんですけど、まずはこれです」
アデーレさんはそう言いながら、彼女の後ろの調理テーブルから大きな皿を持って来た。
この厨房に入ったときから何やら甘い香りが漂っていた。
でも、トビーくんのパティスリー工房化しているこの厨房では、いつもそんな香りがしているのであまり気にしていなかったのだが、今日の香りの基はこれですな。
「これは、ガレット。いや、とても薄いので、クレープですかぁ」
「カァカァ」
「すると、これに生クリームやらフルーツやらジャムなどを包んで巻いて」
「カァカァカァ」
「そうだね。いろいろトッピングして巻けるから楽しいよね」
「カァ」
「あらあら、わたしが説明する前に言い当てられちゃいましたよ。やっぱりザカリーさまなんですねぇ」
「ホントっすよ。このひと、お菓子には特別な嗅覚を持ってるからなぁ」
「きっとこれ、あれですよ、エステルさま」
「そうみたいね。クロウちゃんとふたりで話してるから。なんだか分からない単語も混ざってるし」
エステルちゃんとカリちゃんが小声で話してるけど、そうなんですよ。
アデーレさんが焼いたのは、まさに俺が前々世で知っているクレープ生地なんだよね。
「ザックさま、そこでクロウちゃんと盛り上がってないで、まずはアデーレさんの説明を聞きましょうよ」
「あ、エステルちゃん。そうでありますな。お願いします、アデーレさん」
「カァカァ」
俺とクロウちゃんが知っている前々世のクレープは、元はガレットというフランス発祥の庶民料理から発展したものだ。
ガレットは、小麦粉またはそば粉と水、塩を混ぜて寝かせた生地を、平らなフライパンで円形に伸ばして焼き、熱が通り始めたところでハムや卵、チーズなどを中央に載せる。
そして片面だけを焼いた状態で円形のガレットの四方を折り畳んで包み、正方形のかたちにするのが一般的だ。
特にフランス、ブルターニュ地方のガレット・ブルトンヌが有名で、これはそば粉が用いられている。
そば粉はこの世界でも料理に使われるらしいが、グリフィン子爵領では流通しておらず、俺はまだ食したことがありませんな。あったら、そばを食べたいよね。
なので、この世界で俺が知っているガレットには主に小麦粉が使用されている訳だ。
ちなみに、ガレットとは「円形に焼いた料理」という意味で、丸いかたちの焼き菓子も即ちガレットであり、その厚みは様々でパイ菓子などでもガレットと呼ばれるものがある。
この世界の特にグリフィン子爵領だと、わりと厚みのある焼き菓子を“お菓子のガレット”と呼び、先に説明したハム、卵、チーズを乗せて片面を焼くものは“朝食のガレット”と一般に呼ばれている。
なお、なぜこの料理やお菓子を、この世界でも俺の前世の世界と同じ“ガレット”と呼ぶのか、あるいは俺にはそう聞こえるのかの理由は定かではない。
これと似たような例は他にもいくつかあるが、単に共感現象的な何かなのか、かつて誰か異世界からの流転人が伝えて広めたのか、クロウちゃんにも分からないそうだ。
「朝食のガレットって、特にグリフィニアでは良く食べるでしょ。それでですね。これはお菓子にも出来るんじゃないかって。いえ、良くあるお菓子のガレットじゃなくて、あくまで朝食のガレットを工夫して」
アデーレさんの着想は、じつに日常的なところからだ。
王都での朝食では普通にパンを食べることが多いのだが、この王国の北辺地方では一般庶民の朝の食事として朝食のガレットを食べるのが普通なんだよね。
うちでも時折、料理長が焼いてくれるものが出されていて、これはなかなかに絶品だ。
前世の世界でガレットからクレープへと発展したのを伝える伝説としては、フランスのルイ13世の妻であるアンヌ王妃にまつわる話がある。
アンヌ王妃はスペイン王フェリペ3世の長女で、スペインからフランスに嫁いで来た人ですね。
これは17世紀頃の話だから、俺の生きた前世よりも少し下った時代だ。
その伝説では、あるとき、ルイ13世と一緒にブルゴーニュ地方に狩りに訪れたアンヌ王妃が、偶然に庶民の食べているガレットを口にしたことがあったそうだ。
庶民が食べていたものというので、これはそば粉で作られたガレットだな。
アンヌ王妃はこれをいたく気に入り、宮廷の食文化へと持込んだ。
その際に粉は小麦粉となり、生地は粉と水と塩だけで作られていたものが、牛乳、バター、卵、砂糖を加えた甘く香りの良いものへと変化して行く。
ポイントはパンケーキのように少し厚みを持たせて焼くのではなく、元のブルゴーニュ地方のガレットと同じく薄く焼いたというところだ。
特に焼いたときに、焦げ目の模様が縮緬のように付くところから、この料理は「絹のような」という意味の“クレープ”と呼ばれるようになったのだとか。
庶民の食がふとしたことから貴族家や宮廷に持込まれ、そこで変質、洗練されて再び庶民のもとへ戻るというのは、わりと良くある話だよね。
ちなみに本場フランスのクレープは、元来この生地の味を楽しむもので、トッピングも本来のガレットの伝統からいたってシンプルなものが多いそうだ。
それを様々なデザート具材を巻き込んで、手で持って食べるお菓子に魔改造したのは、俺のいた前々世の日本だそうで、海外からはジャパニーズ・クレープとも呼ばれるとか。
これらの話は、もちろんクロウちゃんから教えて貰ったものです。はい。
「なんだかザカリーさまには、もういろいろ分かってるみたいですけど、いちおうわたしが考えたことを説明しますよ」
「あ、いやいや。是非ともお願いしますよ、アデーレさん」
「こほん。朝食のガレットって、生地は小麦粉とお塩と水だけで、それで平たいフライパンで焼きながら、具材を載せて折りますよね、レジナルドさん」
「そうだな。それが普通の焼き方だ。載せる物はその家庭によって多少違うけどな」
「わたしはこれを甘いお菓子にしようと思って、ケーキ生地のようにミルクと卵とバターとお砂糖を加えて。でも甘過ぎないようにはしようと、だいぶ調整に時間が掛かったんです」
この場に居る皆は、アデーレさんの説明に真剣に聞き入っている。
と言うのも、これまでの例から、俺が学院祭の魔法侍女カフェのメニューにしてそこで評判を呼べば、それがグリフィン子爵領の新しい特産品になるかも知れないからだ。
特に、原材料である豆の入手問題から、昨年発表したメニューであるショコレトール関係が製品化に目処が立っていない現在、少し空白期間が空いてしまっていることもある。
「それでトッピングなんですけど、やはりお菓子ですからね。ハムは合わないだろうし、魚介類は尚更ね。卵は生地に入ってるし、あ、チーズはありかもですけど。それでやっぱり、このお屋敷だとフルーツでしょ。でも、フルーツそのものは王都でもありますけど、鮮度の問題がどうも。なので、フルーツの基のかたちをなるべく崩さないジャムが良いかと思いまして。あと、フルーツそのものなら、ホイップの生クリームを添えるのもいいですよね」
果物の原型を崩さないジャムと言えば、プレザーブだっけ? クロウちゃん。カァカァ。ああ、それで皮付きのものはマーマレードって言うんだよね。
「わたしとしては、あとはそれ以外に、あのショコレトールを柔らかくしたものを塗って挟むと、もの凄く良いのではないかって、思うんですよね。ホイップクリームとの相性も良いし。でも、もう在庫がほとんどありませんので」
「おお、さすがはアデーレさん。そこに気付くとは」
「カァカァ」
「もう少し、静かにして聞いていましょうね、ザックさま」
「はいです」
「カァ」
「それで、フルーツがごろごろ味わえるジャムを載せたものにすることにしたのですけど、朝食のガレットみたいに焼きながら具材を載せて片面だけ焼くのだと、どうも上手くいかなくて。半焼の生地と具材が混ざっちゃいますから。だからトルテみたいに、先に生地を焼いてから具材を挟むのはどうかしらって。それも、手軽にかつ薄く作れるように、オーブンではなくてやっぱりフライパンでね。ただし生地を薄く伸ばすので、ひっくり返すのが難しいのですけど」
これはもう、ますますジャパニーズ・クレープですぞ。
「それで、焼いたものに、こう具材のフルーツジャムを載せて、それから折り畳んで」
「アデーレさん。そこはこんな感じで巻くように折り畳むと、手で持って食べられますよ」
「あら、ザカリーさまは、何でも分かっちゃうんですね」
ジャムを載せるところから実演してくれるアデーレさんの横から、俺はつい手を出してしまった。
彼女はどうしても朝食のガレットのイメージを引き摺っていて、円形の焼いた生地の中央に果物の原型が残るプレザーブのジャムを載せて、四方の端を折り畳んで四角形にしたのだけど、俺は具材を載せてからまず半円形にひとつ折り、それからくるくると巻いたのだ。
つまり、良くあるクレープのスタイルですな。
「それで、この尖った方を紙で包んで。あ、これはすっぽり入る紙袋を用意した方が簡単だけどね。それでこの包み紙を持って、上から齧り付くと。お、これは生地の甘さも絶妙で、ふもふも、おお桃のプレザーブがなんとも上品なお味ですぞ。なになに、クロウちゃんも食べたい。ほら、食べなさい。どうですか?」
「カァカァカァ」
「そうでしょう。絶品でありますよね」
「ザックさまっ」「ザカリーさまぁ」
この様子を見ていたギャラリーから、思わず声が飛んで来た。
ああ、あなたたちも食べたいのですね。いいですよ。作って差し上げましょう。
それで俺がやったのを見て、直ぐに巻き方を覚えたアデーレさんと人数分の桃のプレザーブのクレープを作る。
さあ召し上がれ。どうですか、みなさん。エステルちゃんはどう?
「これは、なんとも美味しいですよぉ。女の子は全員大好きです」
「男子でも好きになるっすよ、エステルさま。何より、手で持って食べられるのもいいっす」
「ほんとですね。これは新しいお菓子のガレットね。ねえ、ザックさま」
「新しいお菓子のガレットというより、まさにクレープだよ」
「くれえぷ??」
あ、つい言っちゃいました。初めにクロウちゃんとふたりで話していたときにもそう声に出した気がしたけど、あのときは誰も気付かなかったみたいなんだよね。
この単語はこちらには存在しないようだが、でももうクレープでいいかな。カァカァ。そうか、意味不明で唐突だから、別の名前を考えた方がいいですかね。カァ。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
引き続きこの物語にお付き合いいただき、応援してやってください。




