第692話 エイディさんの鍛錬、そして合宿の終わり
エイディさんは大きく深呼吸をして息を吐き出し、気息を整えた。
一方でジェルさんは静かに立っている。
彼女の眼光はおそらく正面のエイディさんを貫いていると思うが、こちらからは見えない。
やがてふたりは同時に、前へと歩を進ませる。エイディさんは慎重にじりじりと、そしてジェルさんはゆったりとした足取りだ。
エイディさんはその年齢の男子としては身長もかなり高く、がっしりとしている。
その彼に徐々に近づくジェルさんは女性らしいスマートな体型だが、かなりの上背があり、また猿臂も伸びる。
前々世のファッションの世界での、トップモデルさんを想像していただきたい。だが骨格や筋肉は段違いの筈だ。ちなみに出るところは……。ファッションモデルさんを想像していただきたい。
つまり、どちらも上背や長い手足を活かして間合いが広いのだが、とりわけジェルさんの場合、間合いに入ってからの瞬発力や攻撃の速さ、その一撃の威力には並の男性剣士でも到底に適わないと俺は見ている。
グリフィン子爵家騎士団で言えば、たぶんいまや最強なんじゃないかな。
昨日の森の中での訓練でも、ジェルさんは強化剣術研究部の部員全員の打ち込みを受けてあげたと話していたが、おそらくエイディさんは、そんなジェルさんの間合いの広さを感じただろう。
だが打ち込みの稽古では、本当の間合いは掴めない。
特にジェルさんは、なるべく相手が踏み込み打ち込んで来られるよう、うまく誘導して指導してくれるからだ。
そのことにより間合いに踏み込む恐怖心を抑え、より有効な一撃を放つ訓練に導いてくれる。
だが、試合稽古では違いますよ。生死を賭した実戦ならばもっと違う。
間合いの手前から連続する流れるような足捌きでエイディさんが踏み込み、素早い初手の斬撃を繰り出した。
しかしジェルさんは、僅かに見切って躱しながら後の先でもうエイディさんの肩にコツンと木剣を置いていた。
「あ、ああ、やめっ」とそれを認めたオネルさんの声が掛かった。
早い。一刀での勝ち。刀ではないから一剣か。でも、早過ぎるよ、ジェルさん。
そのジェルさんは、表情も変えず間合いから離れて距離を取る。
一方で肩を軽く叩かれただけのエイディさんは、何の怪我もしてはいない筈だが、腰から地面に崩れて土下座のような格好になってしまった。
「いまいちど……。いまいちど、お願い出来ませぬでしょうか」
エイディさんの振り絞るような声が、誰も言葉を発せずに風の流れる音だけの静寂に包まれた湖畔に響く。
「いいでしょう。さあ、立ちなさい。オネル、もういちどです」
「はい。ありがとうございます」
再びふたりは開始線に立つ。
エイディさんは先ほどと同じように大きく深呼吸をした。
「では、はじめ」
いまの、あっという間の負けを打ち消すように気息を整え直したエイディさんが、更に慎重な足取りでじりじりと歩を進める。
ジェルさんも同じようにゆっくりと前に進み出した。
ここまでは動画のリプレイを観ているようだ。
そして間合いの少し手前、エイディさんがすっと動いた。
彼が俺の縮地もどきを手本に、自ら工夫した素早い移動。
強化剣術のキ素力を用いた技を自分の歩法に応用した点で、術理としては同じだ。速度や移動距離では彼自身まだまだぜんぜんと言っていたけどね。
だが、間合いの手前一歩二歩の位置からであれば充分だろう。
彼は急速にジェルさんの横方向に移動すると、そこから木剣の斬撃にも強化剣術のブーストを掛けて斬り下ろす。
強化剣術を応用した移動と斬撃の二連続発動。工夫したな。おそらくいまエイディさんが出せる最高の術技だ。
しかし、ジェルさんはその移動と斬撃を、僅かに体を後ろに動かし、長く伸びる猿臂を活かしてエイディさんの木剣を打って防ぎながら、直ぐさま彼の胴に強烈な横薙ぎの一閃を入れていた。
「ぐふっ」と息を吐き出して、エイディさんは崩れ落ちた。
ジェルさんは殘心しながらその彼を見つめる。
「ザカリーさまっ、エステルさまぁ」とオネルさんが大きな声を挙げた。
俺とエステルちゃんは直ぐにエイディさんのもとに駆け寄って、まずは俺が彼を診断。肋骨をしたたかに打っているが、折れてはいないようだ。
そしてエステルちゃんと回復魔法を重ね掛けした。
しかし、ジェルさんは本当に強いというか、剣の闘いのこととなると無慈悲で容赦ないよな。
「エイディさん、大丈夫ですか? 打たれた瞬間の感覚は残るけど、痛みは直ぐに引くと思いますよ。胸の骨や筋肉はもう大丈夫です」
「うう、はあぁーっ」と、呼吸を取り戻すように彼は息を吐き出す。そして「はい、痛みは引いて来ました。もう大丈夫であります」と力なく言葉を発した。
しかしまだ立ち上がれずに、肩を落として地面の1点を見つめ胡座の格好で座っている。
おい、切腹でもしそうな雰囲気だよな。この世界には切腹なんか無いけど。
「あっと言う間に、負けたのであります。おそらく剣を合わせてはいただけないだろうと、そう予測はしていましたが……。剣の闘いで、生死の一瞬の境目とは、このようなことなのでありますな。ですが、私は、まだ自分が何も出せていないと、思わず二度目を挑んでしまった自分に腹立たしい。本当の闘いならば、そのような甘えは出来ないのに」
おい、やっぱり切腹でもしそうな感じだよ。これは訓練、試合稽古なんだからね。
「わたしが二度目を許したのは、何故だかわかりますかな? エイディさん」
「あ、それは……」
「それは、生死の境を何度も味わえるのが、鍛錬と言うものだからですよ。何度もなんども生死の境を味わい、潜り抜け、工夫し鍛錬する。そして、真の闘いでは、勝機を得た者がひと振りの剣で勝つ。かなり昔に、わたしにそう教えていただいたのが、ザカリーさまです。わたしはただ、それをいつも心に置いて日々鍛錬を重ねている。なので、あなたが鍛錬のために挑んで来たのであれば、それが二度でも構わないのです」
ジェルさんが自分なりに良く解釈してくれているけど、ずいぶんと以前に確かファータの里でそんなことを話したよな。
前世で教わった一之太刀の極意で俺が勝手に解釈するところの、時間と空間と魂を一体とするというところまでは、ジェルさんは踏み込んで言葉にしなかったけどね。
エイディさんはいまのジェルさんの言葉を、ゆっくりと噛み締めて咀嚼するように黙って考えていた。
やがて、すくっと彼は立ち上がる。
「ありがとうございます、ジェルメール騎士殿。良い鍛錬を経験させていただきました。そして、これからも鍛錬を続けて行きます」
いつの間にか、ハンスさんやジョジーさんをはじめ、ふたつの部の部員たちが周りに集まって来ていた。
そしておそらくは、エイディさんとジェルさんの言葉を聞いていたのだろう、彼がありがとうございますとジェルさんに頭を下げると、皆も同じように礼をしていた。
今年の合同夏合宿も、これで終了となりました。
いろいろあって、今年も楽しかったよね。カァ。
そう言えば今日の午後は、クロウちゃんの姿をあまり見なかったよね。お空にいたの?
カァカァ。え、ニュムペ様のところに行っていたのか。カァ、カァカァ。俺とエステルちゃんに、また来てくださいねって伝えてくれと言われたんだね。
それじゃ、シルフェ様たちが王都に来たら、またみんなで訪問するかなぁ。カァカァ。
ソフィちゃんを連れて行くのは拙いでしょ。カァカァ、カァ。シルフェ様のところに行ったのだから、いまさらって、そうだけどさ。
「ふたりで何を話してるんですか? クロウちゃんはまだ眠くないの?」
「クロウちゃん、今日の午後はどこかに行ってましたよね」
「え? ひとりでどこに行ってたんですか?」
夕食後にナイア湖の波打ち際で、クロウちゃんとふたりだけで座って話していたら、エステルちゃんとカリちゃんと、それからソフィちゃんが連れ立ってやって来た。
いま話をしていた、シルフェ様の館での女子会メンバーですなぁ。
「カァカァ、カァカァ」
「そういうことですか」
「わたしもちょっと行けば良かった」
「え? クロウちゃんはなんて?」
「ああソフィちゃん。クロウちゃんは、少し森の奥の方まで飛んで行ってたんだよ」
「森の奥、ですか。この森の奥には、何があるんでしょうね」
ソフィちゃんはやたら勘がいいからなぁ。それに、いったん興味を持つと、かなり追求し始めるタイプだ。
「森の奥ねぇ……」
「ねえ、クロウちゃん。この森の奥に行くと、何があるんですか? クロウちゃんが飛んで見に行くような、何かがあったりするんですか?」
「カァカァカァ」
「あー、やっぱりわたしも、クロウちゃんのお話がわかるようになりたいです」
「カァ」
クロウちゃんは、迷い霧に囲まれた水の精霊の妖精の森と、かなりダイレクトに言ったんだけどね。
「(それは、お姉ちゃんが来てからにしましょ)」
「(だね)」
「(ですね)」
「(カァ)」
エステルちゃんが念話で短くそう言った。
ニュムペ様のところに行くのも、ソフィちゃんを連れて行ったらというクロウちゃんの提案も、お姉ちゃん、つまりシルフェ様が来て相談してからということだ。
「それよりも、ソフィくん。今年の夏合宿はどうでしたかな」
「あ、はい。とっても楽しかったですよ。ザック部長とエステルさまとの、真剣での立ち合い稽古も見られたし、昨日の男子組と女子組の対戦訓練は、ちょっとあれでしたけど、今日はジョジーさんと試合稽古をさせていただいて。それから、4年生の人たちとジェルさんたちの試合稽古も凄かったです」
「ほうほう、それは良かったでありますな」
「あの、ザック部長」
「ん?」
「凄く素朴なことをお聞きしていいですか?」
「なんでありましょうか」
「エステルさまは、お小さい頃から地元で、剣術とかの先生に習われていたって聞きました。ですよね、エステルさま」
「そう、ね」
実際は主にユルヨ爺が師匠で、そのほか里の爺さん婆さんが寄って集って、剣術やら魔法やら探索やら体術やらのファータの探索者に必要な技能を叩き込まれたんだよね、エステルちゃんの場合。
「さっきジェル姉さんが、ザック部長に昔に教わったっておっしゃってましたけど、姉さんたち騎士団の方は、騎士団見習いのときに騎士さんたちが先生になって、剣術とかを教わるって聞きました。あと、ライナ姉さんの初めの魔法の師匠はダレルさんですよね」
「そうですなぁ」
「そうしたら、ザック部長の剣術の先生は、どなたなんですか? ザック部長もヴァニーさまやアビーさまと、騎士団見習いの子たちに混ざってお稽古されてたとは、ちらっと聞きましたけど。でも、小さい頃からとても強かったんですよね。そのザック部長の先生って?」
あー、そこに疑問が行きましたか。
先ほどのエイディさんに向けたジェルさんの言葉で、かなり昔に俺から教えを受けたとかあったのをしっかりと記憶に留めていたのですな。
それから、うちの騎士団見習いの子たちの剣術の稽古にも、この夏休みは彼女も一緒に加わっていたからね。それで俺の子供時代の話とかも耳にしたのかな。
「それはぁ、ザックさまが、神さまのみつ……ふごふごふご」
あ、余計なことを言い出したカリちゃんの口は、そうやって塞いでおいてくださいよ、エステルちゃん。
だいたい、俺の剣術の師匠は前世のときの人だからなぁ。
「えーと、僕の剣術の先生か。それは」
「カァー」
俺が何を言おうかと口籠ったそのときに、クロウちゃんが珍しくひと声大きく鳴いてバサバサと湖の水上方向に飛び立って行った。
だいたい彼が羽音を立てて飛び立つのも、とても稀なことだ。
「あ、クロウちゃん、どこに行くの?」
「エステルさま、あっち」
そのことで塞がれていたカリちゃんの口からエステルちゃんの手が離れ、カリちゃんがあっちと声を出して、クロウちゃんが飛んで行った方を指差した。
ソフィちゃんを含め、4人がその方向を見る。
それはナイア湖の湖上。俺たちがいる湖畔からはだいぶ離れた場所だったが、あれは若手の水の精霊さんだ。
3人の水の精霊が水面から上半身を出して、俺たちに向かって手を振っているのが遠くに見える。かなり距離は離れているし、夜なのでぼんやりとだけどね。
そこにクロウちゃんがぐんぐん近づいて行くと、それに応えるように精霊さんたちがひとりずつ順番に水上から空中に跳び上がって、1回転したりしながらちゃぷんと水の中に戻って行った。
「(まあ、あの子たちったら)」
「(お茶目ですよね)」
お茶目と言うか何というか。それから彼女たちはもう水上に姿を見せることはなく、クロウちゃんも直ぐにこちらに飛んで戻って来る。
もしかしたら彼が、俺たち以外にソフィちゃんが一緒にいることを、精霊さんたちに言ったのかも知れないな。
「あ、ああーっ、いまの見えましたか。何でしょうか。なんだか人の姿にも見えた気がするんですけど」
「だったかなぁ」
「なんでしょう」
「なんですかね」
4人で夜の湖面を暫く眺めていたが、もう何も誰も現れることはなかった。
そして「そろそろ冷えて来ますから、テントに行きますよ」というエステルちゃんの言葉で、女子たちは引揚げる。
ソフィちゃんはまだ何だったのだろうかと、後ろを振り返り振り返りしていたけどね。
では俺たちも戻りますか。助かったよ、クロウちゃん。カァ。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
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