第651話 結婚の誓いの儀の出来事
その晩は姉さんとヴィクティムさんの独身最後の夜であり、両家合同の家族と身内だけの晩餐ということで、明日の午前の結婚の誓いの儀に出席する者たちだけの食事会となった。
ただ、王太子にはヴィクティムさんの最も親しい友人ということで、ご同席をと声を掛けたようだが、彼の方から断ったらしい。
「今夜ぐらい、客の貴族たちの相手は俺がするよ。そちらは家族だけで過ごしてくれ」と、そう言ったそうだ。
なんとも、男前の発言ではないですか。
それでうちからの出席者は、ヴァニー姉さんに父さんと母さんとアビー姉ちゃん、カートお爺ちゃんとエリお婆ちゃん、ジルベールお爺ちゃんとフランカお婆ちゃん、俺とエステルちゃんとクロウちゃんに、シルフェ様、シフォニナさん、アルさんも加わった。
キースリング家側は、ヴィクティムさんにモーリッツ辺境伯と奥様のエルヴィーラさん、娘のエルネスティーネさん。そしてエルヴィーラさんの実家であるサルディネロ伯爵家から遥々、お婆様のロベルタさんがおひとりでいらしていた。
サルディネロ伯爵領は王国の南、ソフィちゃんのグスマン伯爵領の隣でありミラジェス王国と国境で接している。
ここ辺境伯領が北の国境のある貴族領で、サルディネロ伯爵領は南の国境がある貴族領という訳だ。
ただし共にティアマ海に面しており、船による交易で繋がりがあるんだね。
そしてそのロベルタ婆さんは、船で直接やって来たのだそうだ。
「いえね、うちの爺さんがもう船旅は無理だとか宣うものだから、この婆さんがひとりでやって来たということさね」
伯爵位はずいぶん以前に息子さん、つまりエルヴィーラさんのお兄さんに引き継いでいて、そういう点ではカートお爺ちゃんとエリお婆ちゃんと同じく隠居暮らしだ。
しかしこのロベルタさんって、なかなか元気そうな婆さんだよな。
「セレドニオ殿も、まだ動けんという訳ではないのですな」
「それがカートさんよ。あの爺さんも耄碌して、すっかり出不精になってしまって。その点では、あんたらは偉いわな」
出不精かどうかという以前に、つい1年半前までは家出旅をしていたうちのお爺ちゃんとお婆ちゃんは、ロベルタ婆さんの言葉には苦笑するばかりだった。
「ところで、そちらのエステルさんがザカリーさんの婚約者さんで、シルフェさんがそのお姉さま、シフォニナさんが従姉妹さんで、アルさんがご親戚と先ほどご紹介をいただきましたがね。シルフェさんというお名前は、風の精霊様と同じお名前ですわなあ。何か謂れでも?」
この世界でも前世の世界と同様に、神様とか精霊とか聖人とかに由来する名前を子供に付けるケースがわりとある。
前の世界で言えば、例えばミシェル、ミカエラ、ミゲラと言えば、どれも大天使ミカエルに由来する名前だよね。
尤もこの世界では、アマラ様とヨムヘル様に由来する名前はさすがに命名しないらしいけど。
さて、このロベルタ婆さんの何気ない問いに答えられるのは、シルフェ様ご本人だけだ。
頼みますよ、シルフェ様。
「あら、そのことですの。それはお母さまが、そう付けたとしか答えられませんわ」
「まあ、そうなのでしょうがな」
シルフェ様の言うお母様は、つまりアマラ様なので嘘はついてはいない。
「どうしてそんな名前になったのか、明日、お社でお母さまに聞いてみるしかありませんわね」
「風の精霊様のお母さまと言えば、畏れながらアマラさましかおられない。ほっほっほ、それで祭祀のお社で聞いてみると言いなさったか。これはこのお婆も、一本とられましたわい」
いやいや、ジョークやウィットとかじゃなくて、シルフェ様の場合、普通に答えただけだと思うんだけどさ。
まあ、本当のことを言いたくないから、ウィットで返したとロベルタ婆さんが取ってくれたのなら、それで良しとしましょう。
翌朝の早い朝食はそれぞれの家族と身内だけでいただき、ヴァニー姉さんは直ぐに結婚の儀に向けた準備に入った。
姉さんにはリーザさんが付きっきりで、母さんにはフラヴィさん、そしてアビー姉ちゃんとエステルちゃんにはエディットちゃんとユディちゃんが付いている。
シルフェ様とシフォニナさんとアルさんには、シモーネちゃんがエステルちゃんに言われて支度のお世話に付いた。
まあ、シフォニナさんの助手ということなんだろうけどね。
父さんを昨日来た若い侍女さんがお世話し、お爺ちゃんとお婆ちゃんは慣れているセリヤさんが世話をしてくれる。
それで俺のところには、カリちゃんがいるんだよな。
「ザックさま、お着替え手伝いましょうか?」
「いいよ、カリちゃん。自分で出来るからさ」
「そーですか? エステルさまから、ちゃんと着れてないかもだから、お手伝いするように言われたんですけど」
「大丈夫だって」
今日俺が身に着ける衣装は、以前にも着ている準礼装。これは父さんやウォルターさんらと相談済みだ。
「そーですかぁ? そしたら、わたしも面倒くさいから、ここで着替えちゃいますね」
カリちゃんもいつもの侍女服ではなく、王都で用意していたドレスを着る。この部屋に持って来てたんだな。
って、ここで俺の前で着替えなくてもいいでしょうが。カァ。
と口に出す前に、彼女はさっさと侍女服を脱いで下着姿になった。
「カリちゃん……。僕は向うを向いてるから」
「あれれ、ザックさまはなに恥ずかしがってるですか? わたしが何も着てない姿とか、良く知ってるじゃないですかぁ」
「カァカァ」
それって、語弊があるよね。俺が知ってるのは、カリちゃんの白いドラゴン姿なんだけど。
あと、ちゃんとドレスが着れてるかどうかは俺には分からないから、エディットちゃんとかに見て貰うんですよ。
両家の家族と身内、主立った家臣、王太子をはじめとしたご招待客がエールデシュタット城の玄関ホールに揃う。
ソフィちゃんもルアちゃんもカロちゃんも、美しいドレス姿でいるね。
ブルクくんとカシュくんもふたりで何か話している。
エステルちゃんはこの何年かですっかり着慣れたドレス姿だが、アビー姉ちゃんは騎士の準礼装なんだな。
同じく、うちの騎士団の華やかな準礼装に身を包んだジェルさんたちお姉さん方と、小さな声で話しながら待っている。
母さんやお爺ちゃんお婆ちゃんは、今日は人間のドレス姿のシルフェ様とシフォニナさんといるが、父さんはその母さんの横に立ちながらもかなり落ち着かない様子だ。
そして俺は、エステルちゃんの横で黒く豪奢な執事の礼装姿のアルさんと立っている。
その後ろには、カリちゃんやエディットちゃんら王都屋敷のメンバーが控えていた。
「ヴィクティム様、ヴァネッサ様、これより参られます」
辺境伯家の家臣らしき人の声が玄関ホールに響いた。
そして程なくして、侍女さんたちに介添えされながら、花嫁花婿がゆっくりとホールの奥から登場した。
ヴィクティムさんが纏っているのは、おそらく辺境伯家次期当主としての騎士風の礼装をもとに、今回の結婚式用に誂えたものなのだろう。
父さんや俺、そして辺境伯家側もそうなのだが、宮廷貴族的な華やかだが軟弱な衣装ではなく、北辺の無骨な領主貴族らしい騎士風の装束で統一したのだ。
そしてヴァニー姉さんは、白を基調としながらも華やかな柄が色とりどりの糸で織り込まれたウェディングドレス。
ドレスの裾は床までふわりと広がり、まるでお伽話に出て来るお姫様のようだ。って、姉さんもお姫様だよな。
そう言えば、前々世で良く見られる真っ白なウェディングドレスは、17世紀頃のヨーロッパから始まったって何かで大昔に読んだ気がするな。カァ。
それ以前の婚礼衣装はそれほど白にこだわったものではなく、スペイン宮廷風の黒やダークな色のドレスも着られたそうだよね、クロウちゃん。カァカァ。
「ほぉー」「ふぁー」「お綺麗」「これは」「素晴らしい」
ホール内では、女性たちのため息やら男どもの呟きやらが聞こえて来る。
どうですか、うちの姉は。まさに王国一の美女ですよね。
姉さんは真っ直ぐと正面に顔を向け、その表情は優しく微笑んでいるようだ。
「これより、ヴィクティム様、ヴァネッサ様は、結婚の誓いの儀に向かわれます」
露払いで先導する辺境伯家家臣を前にヴィクティムさんと姉さんが続き、姉さんの後ろにはリーザさんが介添えで従う。
そしてその後ろには、結婚の誓いの儀に立ち会う家族と身内に王太子が加わって続く。
その他のお客様や家臣たちはその後から同じく移動して、城内にある祭祀の社には入らず、社前の広場で待つ予定だ。
エールデシュタット城の玄関大扉が左右に開かれ、花嫁花婿が外に出る。
すると外から一斉に歓声が上がった。拍手も沸き起こる。
エールデシュタット城で働く大勢の家臣の皆さんが待っていたのだ。
その皆さんへの、ヴァニー姉さんお披露目の瞬間でもあった。
城の玄関前から城の敷地内の祭祀の社まではそれほどの距離がある訳ではないが、その道の両脇にも人びとが並び、歓声と拍手が続く。
やっぱり辺境伯家の方が、うちより家臣の人数はずいぶん多いんだろうな。
それを実感させる歓声と拍手に溢れた道だ。
暫く歩くと、祭祀の社の建物の前に到着した。
冬にエールデシュタットに来たときには訪れなかったが、以前にミルカさんから聞いていたようにこじんまりと独立して建てられた社だ。
確かにこの建物の大きさだと、ご招待客を入れることは出来ないよな。
「ヴィクティム様、ヴァネッサ様、ご到着になりました」
先導役の家臣の声が響き、社の入口扉が内側から開かれた。
そして中から、社守と思しきご老人とその助手だろうか、もうひとりが現れる。
あのご老人が、エールデシュタットの領都の祭祀の社の社守長なのだろうな。
普段は、この城内の社には社守が常駐していないので、街の祭祀の社から来ていただいたという訳だ。
「ヴィクティム様、ヴァネッサ様、そして皆々様。お待ち申しておりました」
「本日は、よろしく頼みます、社守長殿」
社守長の言葉にヴィクティムさんが応え、ヴァニー姉さんとふたりで揃って礼をする。
「さあさ、それでは早速に始めましょうかの。花婿花嫁殿とご家族お身内の方々は、中にお入りくだされ」
社守長とその助手が左右に立って迎え入れるなかを、主役に続いて俺たちも社の中に入る。
クロウちゃんを抱いたエステルちゃんと俺は最後尾だったのだが、その前を歩いていた人外の3人に視線を向けた社守長が、はっとした表情になったのを俺は見逃さなかった。
そしてその身体が小刻みに震え出したようだ。
俺が声を掛けようとしたとき、シフォニナさんがすっと社守長に身を寄せて何かを囁いた。
ご老人はその囁きに、激しく何度も頷いている。
「ご、ごほん。それでは、と、扉は閉めて。は、始めましょう」
おいおい、大丈夫ですかご老人。おそらく何かに気づいて、そしてシフォニナさんに何かを言われたのだが、取りあえず気絶とかはしないでくださいよ。
それから、ヴィクティムさんとヴァニー姉さんふたりを正面の祠の前に立たせ、社守長がアマラ様とヨムヘル様への感謝の祈りを捧げ、ふたりが結ばれようとしている報告を行う。
そして、共にこれからの人生を歩み、領地と領民と幼き子を護り慈しむことを、ふたりが声を揃えて誓い、祠に向かって頭を下げる。
それが終わると、助手の人が予め預かっていた結婚指輪を納めたリングトレーをふたりの間に差し出し、ヴィクティムさんが姉さんに、姉さんがヴィクティムさんにと、順番に薬指へ填めてあげる。
「さあ、これでおふたりは晴れて夫婦となり申した。あらためて、誓いの口づけを」
社守長がそう促し、ふたりが向かい合ってお互いの顔を見つめ、そして誓いのキス。
ふたりが口づけを終えて少し上気した顔を離したとき、時が止まった。
「お母さまと、お父さまもいらしたのね」
「お父さまも、とはなんだ、シルフェ」
「ほらほら、お目出度い場なんだから、静かにしなさいな」
「ザック、先日振りね。エステルも元気そう。クロウちゃんもいるわね」
「ようこそ、お越しくださいました、アマラ様」
「はい。ありがとうございます、アマラさま」
「カァカァ」
「アルはなんだ、ずいぶんとおめかししているじゃないか」
「ヨムヘル様よ、わしのことはいいですわい」
「ふふふ、似合ってるわよアル。シルフェとシフォニナさんもご苦労さま。さて、ずっと止めたままにはしておけないけど、少しならいいでしょう。手早く、祝福を差し上げてしまいましょうね。でも、ご本人たちが止まったままだといけないから、ふたりだけはいいかしら、ザックさん、シルフェ」
「御心のままに」
「ヴァニーちゃんは大丈夫。花婿もいまだけならいいわよ、お母さま」
「そうしたら……」
ヴィクティムさんとヴァニー姉さんがはっとしたように動き出し、そして辺りをキョロキョロ見回す。
「これはっ。どうしたことだ。皆が固まって……」
「ヴィックさん、落ち着いてください」
「その声は、ザック君。エステルさんも大丈夫なのか。あ、お三方も」
「もしかして、ザック、エステルちゃん。その……、シルフェさまがですか?」
「わたしじゃないのよ、ヴァニーちゃん。ほらほら、おふたりともこちらではなく、正面を向きなさい」
「正面? あ、ああーっ」
そこには、人の姿かたちで顕現したアマラ様とヨムヘル様が立っていた。
「わが息子ザックの姉ヴァネッサと、義兄となるヴィクティムよ。あなたたちの結婚を祝し、わたしアマラと、隣にいるヨムヘルから祝福を授けます。先ほど、あなたたちの誓いはしかと受け止めました。付け加えるなら、やがてあなたたちに良き子を授け、ふたりとその子らで、この地を護る礎がしっかりと固められますように。でも、ヴァニーちゃんには、シルフェがもう加護を差し上げているのね。だから大丈夫よ、ねえヨムヘル」
「そうだな。よし、俺からはザックの義兄となるヴィクティムに、共に闘える武運を授けよう。仲良く協力し合い、この大地に平穏をもたらすためにな」
社の中の空間が眩い光で溢れ、そしてそれが収まって行くと、もうアマラ様とヨムヘル様の姿は無かった。
そして、時を止められていた皆が、何ごともなかったように動き出している。
「さあ、これで結婚の誓いの儀は滞りなく済みました。扉を開いて。皆様方、お疲れさまでした」
助手の方が扉を開いたので、差し込んで来る夏の陽射しが眩しい
俺たちは、仄かな灯りに戻っていた社の中から、明るい屋外へと出て行った。
「ザック君」「ザック」
何か言いたそうなふたりに顔を向けて、俺は素早く自分の唇に人差し指を当てる。
まあ姉さんたちふたりには、ほんの僅かな時間の夢か幻のような出来事だっただろうね。
でも、アマラ様とヨムヘル様の言葉は、しっかりとふたりの魂に刻み込まれただろう。
と言うかさ、わが息子ザックとか言ってたよね。いいのかなぁ。言葉に出しちゃったから、もうしょうがないか。カァ。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
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