第618話 ベンヤミンさんの来訪
午後になってキースリング辺境伯家のベンヤミン・オーレンドルフ準男爵が王都屋敷にやって来た。
エルノさんが報せに来たので玄関前に出てみると、馬車ではなく屋敷の正門から歩いて来る。
今日は若い女性をひとり連れて来ていて、秘書役の人とかかなぁ。護衛は同行していない。
「あ、あの人、マイラさんですぅ」
「え、エステルちゃん知ってるの?」
「エルメル兄の部下なのですよ、ザカリー様」
一緒に出て来たミルカさんがそう教えてくれた。
エルメルさんの部下ということは、ファータの人ということだ。
つまり辺境伯家の調査探索局員で、あの人がベンヤミンさんの護衛も兼ねているということかな。
「やあ、ザカリー様、エステル様、冬以来ですね。お元気そうで何よりです」
「ザカリー様、お初にお目に掛かります。マイラと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。エステル嬢さま、お久し振りです」
腰を折って深々と挨拶して来たマイラさんという人は、見た目の年齢的には20歳代の半ばか前半。
ジェルさんたちと同世代にも見えるが、ファータの女性の見た目年齢は人族の基準では計れない。
青みがかった長い黒髪を垂らし、その美しい顔に親しげな微笑みを浮かべた。
「ようこそいらっしゃいました。まあ玄関先ではなんですから、どうぞ中へ」
一緒に玄関先に出て控えていたフォルくんが先導して、応接室へと案内する。
それで屋敷の玄関ホールに入った途端に、後ろから「あふぁっ」という小さな悲鳴のようなおかしな声が聞こえた。
「あ」「あ」
「あー」
玄関ホールに隣接しているラウンジに、シルフェ様とシフォニナさんがいたのだ。クロウちゃんはそこに一緒にいたんだね。
アルさんはカリちゃんとライナさんの魔法訓練で、訓練場の方に行っている筈だな。
「(うっかりしてましたぁ)」
「(ファータの場合、すっかりそういうの、忘れてたよなぁ)」
「(お客さまが来たのでしょ。どうかしたの?)」
「(ファータに何かありましたか?)」
念話なのでラウンジまで離れていても届く。
それに精霊様は感度が高いので、直ぐにふたりが反応して来た。
「どうしたんだ、マイラさん。具合でも悪いのか」
「いえ、あの、どうしてだか……」
ベンヤミンさんの声に振り返って見ると、マイラさんが両膝と両手を床の絨毯に突いて動かなくなっている。
同じファータ人でも感度の違いがあるみたいだけど、女性の方がどうやら高いようで、おまけにこのマイラさんはかなり敏感みたいだな。
要するに、精霊感度なんですけど。
「どうされましたか?」
「あら、この子、ファータね」
気が付くと、音もなくシルフェ様とシフォニナさんが側に来ていた。
「さあ、お立ちなさい。もうこれで大丈夫でしょ」
玄関ホールの中に、微かに甘い香りの初夏の爽やかな風が流れる。
マイラさんはその風に身体を支えられるように立ち上がったが、少し離れて目の前にいる精霊様のふたりの姿を見て、再び崩れるように片膝を突いた。
「マイラさん、どういうことなのですか」
ベンヤミンさんは訳が分からず、震えて畏まっているマイラさんにそう尋ねていた。
昨年の秋にヴィクティムさんとここに来たときに、彼はシルフェ様たちと会っているのだが、単にエステルちゃんの姉と従姉妹という認識の筈だ。
「(どうしましょうかぁ、ザックさま)」
「(この子、感度がやたら強いみたいねぇ)」
「(そういうファータの子もいるんですよね)」
要するに霊感が強いみたいなものなのかな。
先祖返りのエステルちゃんとは、また違うのだろうか。
「エステルちゃん、マイラさんが少し具合が悪いみたいだから、あちらで休ませてあげて。その方がいいですよね、ミルカさん」
「そ、そうですね。よろしいでしょうか、ベンヤミン殿」
「うむ、どうやらザカリー様のお言葉に甘えた方が」
エステルちゃんが側にいたユディちゃんとマイラさんの傍らに寄り、耳元で何か囁いて立ち上がらせる。
「はい、エステル嬢さま。あの」「あちらでちょっと休んでからね」「はい」という囁き声の会話が聞こえた。
それで、エステルちゃんとユディちゃんに両脇を支えられたマイラさんを、ラウンジの方に連れて行く。
「ようこそいらっしゃい。ベンヤミンさんでしたかしら。ゆっくりして行ってくださいね。わたしたちも一緒にあの子の様子を見ますわ。ファータですから」
「大丈夫ですよ、ザックさま」
シルフェ様とシフォニナさんも、ベンヤミンさんへの挨拶もそこそこにその後を追って行った。
「ご心配なさらずに、ベンヤミン殿。エステル様が付いていますから。さあ、私どもは応接室の方に」
「あ、はい」
男3人はフォルくんに先導されて、応接室へと入った。
「なにやら、大変失礼をいたしました。どうしたのか、私も訳がわからないのですが」
そう言ってベンヤミンさんが頭を下げ、俺とミルカさんは顔を見合わせた。
いえいえ、こっちは訳が分かっておりますので。
「どうか、マイラさんを叱らないでやってください。どうやら少々、ファータに特有のことのようでして。彼女が同道していたのを知っていて、気が付かなかったというか、うっかりしていたというか、なんというか……」
ミルカさんの言葉が珍しく尻つぼみになっている。
ほらね。みんなは心配しなくていいって言うけど、こういうことが起きるんだからさ。
「いえ、叱るなんてとんでも。それにしても、ファータに特有のこととは?」
「それは、その」
そうは言ってみたものの、ミルカさんもなかなか説明が難しいよね。
「あの、ベンヤミンさん」
「はい」
「これは、グリフィン子爵家の息子というより、ファータの里長本家の将来の婿ということで話しますね」
「ザカリー様」
「ミルカさん、僕に任せて」
「あ、はい」
「ベンヤミンさん。エステルちゃんのお姉様のシルフェ様はですね、じつは本当の姉ではないのです。いえ、少し聞いていてください。姿かたちがそっくりですから、信じられないかも知れませんけどね。母親が違う娘ということでもありませんよ。そんなことを言ったら、エルメルさんに怒られてしまいます。それであの方はですね、ファータにとってとても特別の存在なのです。ただ、マイラさんのように、直接に会っていない人もいるのですけど、ファータ人だとその特別な存在ということを感じて、身体が反応してしまうんです。それで、先ほどはあのようなことが起きたと、そうご理解ください」
嘘は言っていません。そうじゃないと、嘘がつけないあの方たちが何か話したとき、齟齬が起きてしまうからね。ただ少し誤摩化しただけです。
「特別な存在とは?」
「ファータという精霊族の由来とご先祖様に関わることとだけ、言っておきます。あと、このことはファータの秘密ですから、ベンヤミンさんにだけお話するんですよ。エルメルさん以外とは決して話題に乗せないでくださいね」
「ファータの秘密ですか」とそうぽつりと口に出して、彼は俺の顔を真っ直ぐ見つめ、そしてミルカさんの方に視線を移した。
「このことについては、ザカリー様からご自分だけという条件で聞いたとおっしゃれば、エルメル兄も納得します」
「そうですか」
ベンヤミンさんは辺境伯家の外交担当の準男爵なので、他家の秘匿するものを飲み込むことには慣れているだろうし、うちとの関係やファータとの関係から考えても守ってくれる筈だと俺は踏んだのだ。
「ザカリー様は、里長本家の将来の婿殿とご自分でおっしゃったが。ミルカ殿、それがかなり控え目な表現だと我らは解釈してよろしいでしょうか?」
「ええ、ファータはザカリー様の下にあると、私はそう解釈しております」
「なるほど。このお屋敷には、ファータにとって特別な存在の御方と、ファータを従える方がいらっしゃる訳ですね」
いやいや、特別な存在は確かにいるけど、従える方とかはいませんから。
それは過大な解釈ですからね。ミルカさんも大きく頷くとかダメですよ。
そんな話をしていたら応接室のドアが開いて、エステルちゃんに付き添われたマイラさんが入って来た。
その後ろからエディットちゃんとユディちゃんが、紅茶とお菓子を運んで来てくれている。
マイラさんは大丈夫かな。
「さあ、マイラさんもそこで立っていないでお座りになって」
「あ、はい。エステル嬢さま、ありがとうございます。ベンヤミンさま、ご迷惑をおかけしました」
エステルちゃんがマイラさんをベンヤミンさんの隣に座らせ、自分は俺の隣に腰掛けた。
「大丈夫か? マイラさん」
「はい、もう落ち着きましたので」
「いま、ザカリー様より、このお屋敷に滞在されているエステル様のお姉様とお従姉妹様が、ファータにとって特別な存在だとお聞きしたのだ。その方たちがいらっしゃるので、ということではないかと話していたのだが」
「(どういうことですか? ザックさま)」
「(いや、何も言わない訳にもいかないからさ)」
と、エステルちゃんにはベンヤミンさんに話したことを念話でざっと説明した。
「(まあ、嘘はないですかねぇ)」
「(それでマイラさんの方には?)」
「(わかったみたいですし、お姉ちゃんは去年、里に行ってますから。ちゃんと話して挨拶して貰いましたよ)」
「(ああ、里に帰れば、当然にその話は聞いてるか)」
「しかし、マイラさんがあんな様子になるとは、エステル様のお姉様はよほどに特別な御方なんだね」
「それは、せ、あ、いえ、そうなんです。わたしたちなどお会い出来ない、高貴な御方なものですから」
いま、精霊様って言いかけましたよね。ベンヤミンさんには内緒にするように、言われて来たのだろうけど。
「ふーむ」と、ベンヤミンさんはそのマイラさんの言ったことを飲み込みながら、何やら考えていた。
これはエールデシュタットに帰ったら、エルメルさんをしつこく追求しそうだよな。
この際だから、最初に言っておこうか。
「あらかじめ僕の方からお話ししておきますが、シルフェ様とシフォニナさんと、それからヴィクティムさんとベンヤミンさんは昨年秋に会っていると思いますが、アルさんという人が、7月の結婚式にはうちの身内の枠で出席することになりました。あ、いえ、これはまだ子爵家の正式な決定ではなくて、あとエルメルさんも承知してはいませんが」
マイラさんが俺の言ったことを聞いた途端にすくっと立ち上がって、そのあとソファに沈み込み、「これはどえらいことですよ。シルフェさまがエールデシュタット城に来られますよ」とか、ぶつぶつ独り言を言っている。
ほら、ベンヤミンさんが余計に不審に思うから、大人しくしていてください。
「マイラさん」
「あ、あはは。すみません、エステル嬢さま」
この人、以外と慌て者なのかな。
王都まで同行して来るぐらいだから、辺境伯家の調査探索局員としては仕事が出来るんだろうけど。
「なるほど。正式なご決定ではないとはいえ、ザカリー様がおっしゃるのでしたら、ほぼ決まりなのですな。承知いたしました。ところでアル殿とは、昨年に確か執事殿とご紹介をいただきましたが、お身内なので?」
「屋敷での立場としてはそうですけど、シルフェ様の親戚で、僕やグリフィン子爵家にとっては身内です」
「たしか、ファータでも人族でもなく、ドラゴニュートの方だったと記憶しておりますが」
「親戚です」
「ははは。これ以上は、追求するなということでしょうか。追求すると、なんだか恐ろしい。わたしは息子と違って臆病な方ですので。はい、承知いたしました。エステル様のお姉様と従姉妹様と、それから、親戚の方のお三方が、グリフィン子爵家のご家族と身内の枠で、結婚の儀からご出席なさると。そのように承っておきます」
ふう。別にベンヤミンさんを脅している訳ではないですからね。そこのところは、誤解しないようにしていただかないとでありますよ。
「それでは、本日こちらに伺った本題なのですが」
「あ、そうでしたね。ご招待者の件でしたっけ」
「はい。それも主に王家に対してのことです」
そうでした。ようやく本題ですね。
王家に対してか。辺境伯家として、ご招待をどうしようと考えているのかですなぁ。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
引き続きこの物語にお付き合いいただき、応援してやってください。
【注記】
1/11に投稿した筈の第617話(本話の前話)が消えて抜けていることに、本日(1/13)気がつきました。
そこで割り込み投稿をしています。
もしまだ読まれていない方がおりましたら、大変に申し訳ありませんでした。
よろしければ、あらためて第617話もお読みいただければ幸いです。




