第552話 雨雲と世界樹
雨雲の上に出た。
高度計がある訳でもないので、どのぐらいの高さかははっきりとはしないが、予測としては高度6千メートル以上なのではないだろうか。
ニンフル大山脈を越えた際も、標高が4、5千メートルはあろうかという峠の上空を飛んだが、現在飛んでいる高さはそのときよりも高い。
確か、前々世の世界では8千メートルを超える高度は、気圧や気温が低下し酸素濃度が低いことから「デス・ゾーン」と登山家から呼ばれ、人体が順応出来ない高さだという。
いえ、これもクロウちゃんの受け売りです。
航空機で飛行する場合には機内が与圧されているが、アルさんの背中の上はアルさん自身の防護壁とシルフェ様の風の防護壁で二重に囲われ、かつ俺とエステルちゃんのために与圧と同じように防護壁内の気圧を保ってくれていた。
これはシルフェ様と一緒じゃなければ、この空の旅は人間には無理でしたぞ。
ちなみにクロウちゃんは、アルさんやカリちゃんと同じような存在なので平気です。
眼下に乱層雲が見え、どこまでも広く広がっている。
「(これは、ドリュアさんの世界樹の森の方まで続いているみたいよね)」
「(ですのう。どこかでやはり、雲を突っ切って降りねばなりませんな)」
どうやら、そういうことになりそうか。
ただし乱層雲が作り出す雨はそれほど激しいものではない筈だから、雲さえ抜けてしまえばたぶん大丈夫だろう。
あ、これもクロウちゃんの意見です。
「(ザックさま、エステルさま。あちらを見てください。前方です)」
「(あっ)」
「(ひょー)」
「(カァ)」
「(世界樹ですね。まるで雲から頭を出しているみたいですよ)」
「(ようやく着いたわね。やれやれだわ)」
当然にこれまで何度も来たことがあるだろう精霊さんたちは平然としたものだが、俺とエステルちゃんとクロウちゃんは言葉が出なかった。
だって、雨雲の上に巨大な樹木が頭を出してるんですよ。
雨雲の上辺の高度が仮に5千メートルだとしたら、それより高いんですよ。
いくら世界樹だからと言って、そんなこと考えられないじゃないですか。
前世の世界でも各地に世界樹の伝説があるそうだが、北欧神話では世界樹ユグドラシルは巨大なトネリコの樹であるとされている。
常に緑豊かなその枝は天空まで伸び、また世界樹は3つの太い根で支えられていて、遥か遠い別の世界に繋がっていると。
ところでトネリコにはセイヨウトネリコのほかに、日本原産のトネリコがあるのを知ってますか。
「(あら、さっき越えたニンフル大山脈には、もっと背の高い山がたくさんあったでしょ)」
シルフェ様はことも無げにそう言っていたが、山と樹を同列に並べてはいかんでしょ。
え、世界樹の場合には同列に並ぶものなの? そうなんですか?
前方に見える世界樹を目指して飛んで行くが、なかなか近づいた感じがしない。
それほど世界樹が巨大だということだね。
それでもずいぶんと近くに来たのかな
「(このまま飛んで、世界樹のてっぺんまで行っちゃう?)」
「(いや、そうはいかんですぞ、シルフェさん。風の精霊は良いとして、わしらは怒られますがの)」
シルフェ様とシフォニナさんなら、風になって世界樹の枝が茂る中に入り、そのまま下に降りて行くことも可能だろうな。
ニュムペ様もてっぺんに到着してしまえば大丈夫か。
しかし、ドラゴンや俺たち人間はそうは行かないだろうな。
「(そろそろ、雨雲の下に降りましょうかの)」
「(そうね。防護壁を強くするわ。ザックさんもほら、結界でしたっけ。念のためにあれを張っておきなさい)」
「(あ、はい)」
アルさんとシルフェ様が二重に施してくれている防護壁だけで大丈夫だとは思うが、俺はシルフェ様の言に従って結界をその防護壁の中に張った。
それを確認して、「(では突っ込みますぞ。カリ嬢ちゃんもいいかの)」とアルさんが姿勢を下方に向けて雨雲の中に突っ込んで行った。
この乱層雲の上辺が高度5千メートル、下辺が2千メートルだとしたら、その厚さは3千メートル。
その中を斜めに急角度で突っ込んで行くのだ。
その時間は10分も掛からなかっただろう。
クロウちゃんによると、乱層雲は水の粒や氷の粒が集まって形成されているということだったけど、まさにその粒の中を突っ切って行く感じだ。
二重の防護壁と俺の結界に護られているので身体に当たることはないが、視覚的にはその様子が良く見える。
風と水の精霊さんは自分たちの範疇内なので、いたって平然とその景色を眺めていたが、エステルちゃんは緊張して俺の手を強く握っていた。
まあ大変なのは、実際に雨雲の中を飛行しているアルさんとカリちゃんか。いや、ドラゴンにとってはこれぐらいは平気なのかな。
「(抜けもうした。はて、世界樹があのぐらいに見えるのじゃから、まだ少し遠いの)」
アルさんの言うように、世界樹まではまだ距離があるようだ。
眼下には深い森が広がっているが、ところどころに丘や草地なども望見され、アラストル大森林のような見渡す限りどこまでも続く森ということではなさそうだ。
雨はそれほど強くないが、この雲の様子からすると当面は止みそうにはない。
「(このぐらいの雨だったら、雨雲の下を飛んで来ても良かったわよね)」
「(でも雲が低いですから、ずっとこの高さを飛んで来る必要がありましたよ、おひいさま)」
「(そうね。この高さだと、低過ぎるわね)」
雨雲の下は陽が遮られて暗く、雨も降っているので見え辛いとはいえ、シフォニナさんの言う通り低過ぎるかな。
それに雨雲の上を行ったことで、雲から頭を出す世界樹も見られたしね。
先の打合せ通り、カリちゃんがクロウちゃんを頭の上に乗せて野営地を探しに先行して行った。念のために、白というか薄いグレーっぽい雲を出して中に入り擬装している。
アルさんも薄めの黒雲を出して、速度をだいぶ緩めた。
それにしても、エルフの母なる地というのはどのぐらいの広さがあるんだろうね。
オイリ学院長とイラリ先生が、セルティア王国の王都よりも広いと言っていた。
王都はあそこで暮らし始めたときに、クロウちゃんと俺でだいたいのサイズを確認していて、ほぼ円形の都市の直径は約3千メートル。
つまり、700ヘクタールほどの面積があるということだ。
「(世界樹って、エルフの都市の中心とかにあるんですか?)」
「(えーと、どうだったかしら)」
「(そうですよ、ザックさま。ほぼ中心です。その世界樹の根元にはエルフは誰も住んでいなくて、聖域になっている筈です)」
こういうことはシフォニナさんに聞くのが早いよね。
なるほど世界樹を中心としてドリュア様の樹木の精霊の聖域があり、それを囲んでエルフたちが住んでいるということか。ドーナッツ状の森の中の都市という感じかな。
王都よりも広く半径を2千メートルと考えると、エルフの警戒範囲も含めて世界樹から3千メートルぐらい離れた場所で野営すれば良いだろうか。
俺はそんな仮定を、カリちゃんの頭の上にいるだろうクロウちゃんに通信で伝えた。
あ、もう自分で飛んでいるんですね。カリちゃんは上空で旋回して待機してるのか。
そこで、クロウちゃんの視覚と同期させて地上の様子を見ることにした。
なるほど、おそらく常緑広葉樹林ですね。
常緑広葉樹といえばカシやクヌギ、ヒイラギやクスノキといったところが良く知られている。
クロウちゃんの視覚を通して見る限り、眼下に広がる森の樹木はどれも背がそれほど高く無い。
やはり前世の世界で言うところの地中海性気候という感じですかね。とすると、冬のいまは雨期ということなのかな。
ん? あっちにオリーブ畑らしきところやブドウ畑らしき場所が見えるって?
ああ、あれは人の手が入っているね。エルフの人たちが栽培しているオリーブやブドウなのだろう。
クロウちゃんはだいぶ、エルフの生活圏に近づいてしまっているようだったが、森の中の都市ということなので、人族の街のような建物は見えない。
このままエルフの母なる地というのを上空から見て見たいとも思ったが、それよりまずは今夜の野営地探しだよね。
クロウちゃんには引き返させ、世界樹から3千メートル以上は離れていることを目安に飛んで貰う。
カァカァ。ああ、あそこが良さそうかな。
そこは少し岩場があって、森の中で開けている場所だ。
あそこならアルさんたちも降りられるし、岩場なので雨で地面がぬかるんでもいないだろう。
ちょっと加工すればなんとかなるよね。
「(どうですか? クロウちゃんはどこか良さそうな場所を見つけましたか?)」
「(うん、見つけたよ)」
それで俺はエステルちゃんやシルフェ様たちに、いま見ていたことを説明する。
「(そこなら良さそうね。ではそこに行きましょう)」
「(オリーブやブドウの畑があるのですね。エルフの耕作地でしょうか)」
「(そうでしょうね。きっとオリーブオイルやワインなどを作っているのでは)」
「(それにしても、ザックさんとクロウちゃんは便利だわ。なんとなくは知っていたけど、あなたたちって目が繋がっているのね)」
「(便利は便利なんですけど、この人、前にこっそり覗き見をしてたことがあるんですよ)」
「(まあ。黙って覗き見とかはダメよ、ザックさん)」
いや、ちゃんと説明しないと誤解されるから、エステルちゃん。
その話ってジェルさんのお見合い騒動で、王宮騎士のクロヴィスだかの屋敷をエステルちゃんたちが訪問したときのことですよね。
俺はそのときの話はざっと説明した。
シルフェ様は、「(ああ、そういうことね。わたしはまた、ジェルちゃんたちがお風呂に入っているところとかを、覗き見したのかと思ったわ。ふふふ)」だと。
そんなことを話しているうちに、カリちゃんとクロウちゃんが戻って来た。
「(クロウちゃんが、野営に良さそうな場所を見つけてくれましたよ。わたしも確認しました)」
「(おお、ご苦労じゃったな。岩場で開けた場所があるそうじゃな。ではそこに行こうかの)」
「(えー、どうして知ってるんですかぁ。まだわたし、何も話していませんよ)」
「(ザックさんは、クロウちゃんが見たものが見えるのよ。だから、ザックさんに教えて貰ったの。さあ行きましょ)」
「(ええー。使役神の目を通じて地上を見るとか、ザックさまってやっぱり、神さまのお使いではないんですかぁ)」
いや違いますからね、カリちゃん。
さあさ、もうずいぶんと暗くなってるから、その場所に急ぎましょう。
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