第56話 カーファを飲みましょう
エルフ・イオタ自治領の領長たちとの話し合いを終えて、俺たちはマスキアラン邸の居住棟の方に戻った。
事前には、このあとエルフたちとの晩餐をという話もあったが、彼らの方から遠慮する旨の申し出があったそうだ。
彼らのセバリオ滞在は本日のみらしく、これから市場での商品の買い付けなどに向かわなければならないし、明朝早くには出立するのであまり時間が取れないということだったようだ。
話し合い後の予定はそうなのだろうけど何とも慌ただしく、またセバリオ側の饗応はあまり受けたく無いという、そんなエルフらしい理由が本音だったのかも知れない。
それで、エルフから買ったコーヒー豆らしきカーファ豆は、彼らが乗って来た馬車に積んであるということでマスキアラン商会の人に運んでいただいた。
先ほどの応接兼会議室から運んだ小樽ひとつと、それからそれより大きな樽がふたつですね。
大きい方は想定通り、以前にショコレトール豆が入っていたのと同じサイズだ。
「クロウちゃん、クロウちゃん。これを手に入れたよ。中身を見てくださいよ。どうですか?」
「カァ?」
ケリュさんとクロウちゃんが帰って来ていたので、早速にそのカーファ豆を見せる。
「ほほう。これはショコレトール豆に似ておるな。なんだ、この豆は」
「あー、これはですね」
「もう、ザックさまったら。さっきの話し合いの様子や結果を、ケリュさまとクロウちゃんにちゃんとお話してからにして」
「はいです」
結果報告はエステルちゃんやカリちゃん、ジェルさんたちお姉さん方にお任せしました。
「それでどうかな? クロウちゃん」
「カァカァカァ」
「うんうん。やっぱりそうだよね」
「カァカァ」
エルフとの話し合い結果報告が終わって、あらためてクロウちゃんとカーファ豆の検討に入る。
彼の見立てによると、おそらく前世の世界のコーヒー豆と同種か近似種ではないかという。
ただし淹れて飲んでみないと、美味しいかどうかは分からないだろうとのこと。
もしかしたら飲めた代物では無い可能性もあるという訳だ。
「それでさー。さっきからふたりで真剣に話し合っているけど、結局、この豆って何なのー?」
「あー、ライナさん、この豆はですな。とてつもなく美味しい飲料の元になるものかもしれないのですよ。そうですなぁ。普段飲んでいる紅茶と同等かそれ以上に」
「そうなのー?」
「でもですよ、ザックさま。あのエルフの面倒臭い人は、飲んでも苦くて不味い薬湯の豆って言ってましたよ」
「眠気覚ましに効くってことでしたね」
「どっちにしろ、ショコレトール豆みたいなお菓子じゃないのよねー?
カリちゃんの言うエルフの面倒臭い人って、グンナルさんのことね。
それでオネルさんが言ったように確かに眠気覚ましに良いのかもだけど、それ以上に日常的に口に出来る飲料なのですよ。
あと、お菓子に応用出来るかどうかはだいぶ先の段階ですな。
「カァカァ」
「そうだね。ともかくも焙煎してみないと分からないか。じゃあ早速やってみよう」
「うちの長官は、旅先でこんなことを言っているのだが、エステルさま」
「まあ、大掛かりなことじゃなければ、好きにさせてあげましょう、ジェルさん」
とは言っても、ショコレトール豆を焙煎する際に使っていた道具は王都屋敷の厨房に置いたままだ。
確か、フライパンでも簡易的に焙煎が出来るんだよね? カァカァ。クロウちゃんはやり方とか知ってる? カァカァカァ。なるほどなるほど。
基本はショコレトール豆と同じだ。
それで、マスキアラン邸の広い厨房の一画をお借りして、カーファ豆の焙煎を試みた。
まずは生豆を洗って汚れを落とす。元から奇麗な豆だったので、水洗いで問題無いよね。
洗っては流しを数度繰り返して、水の濁りが取れたら早速に焙煎だ。
この厨房のフライパンをお借りして、空焚きの焙煎で痛めてしまっては申し訳ないので、無限インベントリからかなり大きめの自分のフライパンを出す。
「あんなのまで持ってるんですね。ある意味、尊敬してしまいます」
「なんでも、いつ何どき、どこで野営しても料理が出来るようにって言ってましたよ」
「それであの人、いろんな料理道具を買ってはストックしてるみたいなの」
「もはや、歩く雑貨店以上に、歩く商会だな」
「わたしたちが見たことの無い物も持ってますし」
「さすが、統領です」
「セルティア王国から逃げ出しても、商業国連合とかで行商人が出来るわよねー」
「そうなんですよライナ姉さん。なんでも、マジックバックよりたくさん入るらしいんですって」
「食べ物も腐らないみたいですしね」
「あっちの神が与えたものだからな」
俺とクロウちゃんが手順などを確認しながら用意をしているのを、エステルちゃんたちうちの女性陣とケリュさんが眺めている。
まあ、何と言われても良いですけど、ケリュさんは無限インベントリについて余計なことは口に出さないように。
まあ、ヒセラさんマレナさんとかはここに居ないからいいけどさ。
カーファ豆を水洗いしたら、豆の表面の水気を取っていよいよ焙煎だ。
まずは水抜きと、それに続いて蒸らす作業ですか。
豆を入れたフライパンに蓋をしてコンロに乗せ、焦げないように混ぜながら弱火で熱を入れて行く。ここの厨房のコンロは魔導具だから、多少の火加減の調節は出来ますね。
クロウちゃんによるとこの水抜きから蒸らしの段階が、コーヒー豆の焙煎において結構大切なのだそうだ。
まず水抜きだが、豆に含まれている水分の量にはバラつきがあるので、それをなるべく少なくしてムラを防ぎ、かつ豆が爆ぜ始める手前の状態まで水分を抜くということだ。
一方の蒸らしは、焙煎の前半段階で加水分解と呼ばれる化学反応を起こさせるためで、これにより豆に含まれるタンパク質や糖類が分解される。
それによって、メイラード反応という別の化学反応を起こし易くなるというものだ。
メイラード反応というのは、要するに食品に含まれている糖とアミノ酸やタンパク質などのアミノ化合物が加熱され、褐色に色づいて行く現象だよね。
身近な例だとケーキやパン、ビスケット、あるいは肉などを焼いたときのあの香ばしさだろう。
あと、糖によってカラメル化も起きる。茶色い色と甘味と独特の苦味、つまりカラメルソースのあれだね。
それでこのメイラード反応とカラメル化を起こすことによって、焙煎特有の香ばしい香りが出て、かつコーヒーのコクが生まれるのだとか。
なるほど、ここがただの苦くて不味い薬湯の元になるのか、それとも魅惑的な香りが漂いコクと深みのある味わいのコーヒーとなるのかの、その分かれ目なのですな。
クロウちゃんによれば、水抜きは豆の温度が180度Cぐらいで、蒸らしは140度Cと温度の違いがあるのだとか。
実際には水抜きと蒸らしが同時並行で行われるのだが、進み方からすると熱を入れて水抜き開始からの蒸らしで、温度が上がって水抜きの最終段階。そして豆が爆ぜる一歩手前の状態に、ということですかね。
尤も、そう厳密に温度を計測してコントロールする手段が無いので、ここは俺の勘です。
「ねえねえ。あの様子って、ショコレトールを作ったとき以来の真剣さよねー」
「あの真剣さは、人や魔物を斬る場合と、こういうときぐらいだな」
「難しい魔法を練習してるときも、わりと真剣ですよ」
「さすが、統領です」
「ザックさまの好きな修行と鍛錬、ですかね」
「ちょっと違うと思うわよ、カリちゃん」
えーと、ショコレトールのときもそうだったけど、初めて行う作業だから真剣になるのですよ。
蓋を外して火を入れ続け、やがて爆ぜの段階に来た。
爆ぜとは、豆の内部の熱と二酸化炭素などのガスの圧力が内側では耐え切れなくなって、パチパチと裂ける現象ですね。
これが爆ぜの第一段階。それが収まって来ると、ここらで中煎りの状態なのだそうです。
暫くして今度は、チリチリという音と共に爆ぜの第二段階になりました。豆が十分に膨らんで来た状態です。
ここまで行くと、前々世で見慣れていたローストされたコーヒー豆の色合いになっている。煙も出てコーヒーの香りも立って来ています。
「おお、やっぱりこのカーファ豆って、正解でしたぞ」
「カァカァカァ」
「わかってるって。ここからは慎重に」
既に中深煎りぐらいの状態になっていて、ここからは焙煎の進行も早いので、なるべく均等にローストさせるためにかき混ぜる手は休められない。
焙煎作業を始める前に、そのやり方をクロウちゃんと検討しながら相談したのは、深煎りぐらいを目指すというものだ。つまり、フレンチローストだね。
上手く焙煎出来れば、コーヒーらしいしっかりとした苦味と同時に酸味を抑え、その奥に甘さも感じる濃厚な飲み心地を味わえるというものですな。
フライパンでの焙煎だと難易度も高いかもだが、やはりそれを目指したい。
煙がかなり出て来たのでロースト作業と同時に、俺とクロウちゃんとで風魔法でそれを吹き飛ばしながら豆の状態を注意深く確認し、ここぞというところで火を止めてフライパンをコンロから下ろす。
「カァカァ」
「素早く冷ます、だね」
火を止めても余熱で焙煎が進んでしまうので、直ぐに冷まして行くのが肝要なのだそうだ。
用意していたザルに素早く移し、俺とクロウちゃんとでかなり冷たい風を意識しながら風魔法で当てて迅速に粗熱を取る。
それからそのまま置いて落ち着かせれば焙煎は完了し、コーヒー豆の出来上がりだ。
「出来たね」
「カァ」
「終わったですか? なんだかいい香りがしてます」
「ほほう。確かになんとも嗅いだことの無い香りがしておるな」
「ショコレトール豆の焙煎のときと、ちょっと違うわねー」
多少のムラがあるのは仕方が無いとして、フライパンでの焙煎としては良くできた方ではないでしょうか。
焙煎作業が終わったので、エステルちゃんやお姉さんたち、そしてケリュさんも出来上がりを見に来た。
厨房で夕食の料理作りを始めようと準備していたマスキアラン邸の料理人たちも、先ほどからこちらの様子を伺っていたが、今は遠巻きに見に来ている。
煙をたくさん出しちゃってすみません。厨房内は直ぐに清浄な空気に戻しましたから。
エステルちゃんとカリちゃんも手伝ってくれて、4人で風魔法を総動員させました。
「それでザックさま。これを砕いて溶かすとかして飲むんですか?」
「カァカァ」
「ああ、ショコレトールとは違うんですね」
「カァカァカァ」
「細かく砕いて、沸かすかお湯を通すだけ?」
カリちゃんがクロウちゃんに聞いているように、このあとは豆を挽かなければならない。
まずはいちばん簡易にドリップで試飲してみようと思っているので、かなり細かく挽く必要があるのだけど。
もちろん専用のコーヒーミルなんてものは、この世界にはありません。
それでこの点もクロウちゃんと相談していて、取りあえずは摺鉢で砕くことにした。
ただし焙煎した豆はかなり硬い。摺鉢だと均等に細かく砕くのは難しそうだし、時間もかなり掛かると思う。
なのでここはやっぱり、重力魔法を併用しましょうかね。
ヒセラさんとマレナさんも厨房での俺たちの作業を見に来て、焙煎されたカーファ豆を手に取って興味深く観察している。
なので彼女らや料理人さんたちには、重力魔法をなるべくは見られたくないのだけど。でもまあ、重力魔法自体は目に見え無いからね。
ヒセラさんに頼んで、料理人からかなり大きな摺鉢と擂粉木を貸して貰った。
「カリちゃん。この豆をこれから細かく砕くのだけど、ちょっと重力魔法を遣おうと思うんだよね」
「あー、押し潰しちゃいます?」
「んー、それよりも豆を震わせながら砕く感じにしたいんだ」
「ひゃー、かなり難しそうですねぇ」
俺がやりたいのは所謂、振動粉砕という方法。
物理的な振動ミルというものだと、円筒状のミルの中にボールなどの粉砕媒体を入れてミルを振動させ粉砕媒体に運動を与えることで、ミルに入れたものを細かく砕く仕組みだ。
その振動粉砕の仕組みを応用して、摺鉢とそれから豆自体も振動させ、擂粉木を振動媒体に出来ればという感じだ。
ただし、擂粉木だと豆に与える衝撃力が足りるかどうか分からないのと、摺鉢自体が耐えられるかもあるので、土魔法で摺鉢と擂粉木をかなり硬化させ、かつそれ以外に土魔法で作り出したボール状の硬化石も投入した。
この摺鉢と擂粉木はやったあとになっちゃうけど、もう別物に変化させちゃっているので買わせて貰わんといかんですな。
それから、魔法を遣っているのはなるべく見えないようにしている。
まあ、うちのお姉さんたちが囲んで視線を塞いじゃっているんだけどね。
「それで僕が振動を掛けるから、カリちゃんは振動している摺鉢を魔法で固定しながら、中身が外に飛び出さないようにしてほしいんだよね。砕いて行くと豆が粉になるから、注意してね」
「ひょー、ふたりで重ね掛けですかぁ。なかなかの技ですけど、了解です」
摺鉢自体に同じく土魔法で蓋をしてしまえば中身は飛び出ないのだけど、そうすると粉砕の状態が見えないから、上部は開いたままだ。
そこを、カリちゃんの重力魔法で飛び散るのを抑えて貰う。
俺は摺鉢と中の擂粉木と、それから投入した硬化ボールに焙煎されたカーファ豆自体も細かくかつかなりの運動回数と速度で振動させ、すべて同時に衝撃力を与えて粉砕してしまう。
たぶん出来ると思うけど、初めてのことなので慎重に魔法を操作しないとだよな。
「じゃあ、行くよ。振動開始っ!」
「らじゃー」
ブーンという振動音が起り、摺鉢の中身に運動力が与えられ、それぞれがぶつかり合って破砕され始める。
「ザックは、面白いことを考えるものだな」
「でもこれって、ザカリーさまとカリちゃんじゃないと出来ないわよー。あとはアルさんねー」
「まあ人間だと、これが出来るのはザックぐらいだろうて」
カリちゃんの重力魔法は、俺の魔法に干渉しないかたちで摺鉢とそれを包む空間に作用して、粉砕された豆が飛び散らないように上手く抑えてくれている。
ふたりの重力魔法が接触しているので下手すると反発し合って大惨事になりそうだが、カリちゃんの精密な魔法操作だからこそですな。
「よしっ、このぐらいだ。いいよね? クロウちゃん」
「カァ」
「はぁー、出来ましたかぁ?」
ふたり同時に重力魔法を停止させる。
「粉、ですね」
「粗めの粉、だな」
「でも、なんとも言えない、凄く良い香り」
風の精霊であるシルフェ様の妹認定がされて以来、匂いへの敏感度が増しているエステルちゃんが、漂うコーヒーの粉の香りをくんくん嗅いでいる。
これですよ、この香り。エステルちゃんが凄く良い香りと言っているので、おそらくこの世界の人たちも好きになるんじゃないかな。
「さあ、試飲会ですよ」
「カァ」
ベルナルダ婆さん議長とまだ屋敷に居たロドリゴさんにも声を掛け、執事のセレドニオさんや先ほどからこちらの作業を離れて見守っていた料理人さんたちも交えて、皆でコーヒー、いやカーファの試飲会をしますよ。
カーファを淹れるのには、俺がストックしていたガーゼ状の目の細かい布を使います。
コーヒードリッパーなどはもちろん無いので、底が漏斗状になるべく絞られている金属製のザルを借りました。
さすがマスキアラン商会会長の屋敷の厨房だけあって、色々な道具が揃えられています。
それを大型の紅茶用のポットの上に据えて、粉が漏れ出ないようにガーゼ状の布を重ねてフィルターの代りにし、そこに先ほど粉砕したカーファ豆の粉を投入。
そうして上からゆっくりとお湯を注ぐ。うん、ちゃんと泡立って、コーヒーの香りが厨房内に溢れます。
「出来ました。さあさ、どうぞお飲みください」
それをカップに注いで、全員に行き渡らせた。
「あれ? 誰も口を付けませんか? ならば、僕がまずひと口」
うん、ブラックコーヒーです。
この世界で初めて出会ったカーファ豆、初めてのフライパン焙煎、そして初めての振動粉砕による挽きと、初めてづくしで作ったカーファだけど、素直に美味しい。
焙煎したて粉にしたてなので、香りと口の中を満たす濃厚な味わいが凄いです。
えーとこの感慨、45年振りに飲んだからもありますかね。前々世で俺が死ぬ直前に、あのカフェで飲んでいた以来でありますな。
たぶん至極満足げな顔の俺が皆を見渡すと、まだ誰も飲んでいませんね。
「わたしが飲むわ」と、さすがエステルちゃん。
まず彼女がカップを口に持って行ったのを見て、全員がそれに倣った。
「ふひゃ」
「苦っ」
「これはっ」
「ひゃあ」
「苦いですぅ」
皆口々にそんな声を出して、カップをテーブルに置いた。
あー、いきなりブラックは無理でしたか。砂糖やミルクを入れるように言えば良かったよな。カァ。
クロウちゃん、キミも飲んだ? カァカァ。確かにコーヒーそのものだけど、キミはカフェオレが良いですか。そうですか。あとで作ってあげますよ。
「ザカリーさまったらー、これってやっぱり薬湯じゃないのー?」
「香りはとっても良いのだけど、なんとも苦いわ」
「とっても複雑で、飲んだことの無い味ですけど」
「甘い飲み物を期待していたわたしが間違ってましたぁ」
「その、なんだ。ザカリーさまが作ったものの中では、なんと言うか微妙な」
「あー、そうでありますなぁ」
これまでで最大の不評をいただきました。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
引き続きこの物語にお付き合いいただき、応援してやってください。




