若君、迫ってくる
一度目にすると、あたしはその牙から俄然、目が離せなくなった。
見間違いかな? なんて一瞬期待したのだが、やっぱり立派な牙がチラチラと見え隠れしている。
†
「……それにじゃな。ワシが血を吸ってもお前たちには、内羽一族の者には、なにも悪い影響はない。それはワシが保障する」
ということは、あたしたち以外では、悪い影響が出るってこと?
それってやっぱり、まるっきりヴァンパイアじゃん。
と、また若君が微笑んで、また牙がチラリと見えた。
ちょっと長い牙。細くて、少しカーブして、先端が猫の牙みたいにとがっている。やっぱり本物みたい。本物の吸血鬼みたいだ。
「だからな、お前たちは、ただその血をワシに飲ませてくれればよいのだ。なに毎日ではない〝たまに〟でよいのだ。なにしろワシはそれしか口にできんのじゃ」
†
しばらく沈黙が流れた。
あたしもなにも言えなかった。
「……わかりました」
母さんが静かにそう答えた。
あたしではなく、いわゆる内羽の直系じゃない、母さんがそう答えた。
(母さん、なにが分かったの?)
と母さんの様子をうかがったが、母さんはきっぱりとした目で若君を見つめていた。そしてなぜかゆっくりとうなずいた。
「では、どうぞ」
母さんは簡潔にそう言った。
そして隣に座るあたしを見た。
あたしも母さんを見返した。
†
なんか話の展開についていけない。
母さんはなにやら『大丈夫よ』と、あたしにもうなずいてみせた。
それから再び若君を見て、あたしに手の平を差し出すような仕草。
『どうぞ』って感じで。
は? なんで? なんなのこの展開は?
「母さんは内羽の直系ではないから、さつき、これはあなたのお役目ね」
母さんは優しく、にこやかにそう言った。
†
おいおい。どこの世界に、吸血鬼に娘を差し出す親がいるのよ?
でも母さんの笑顔はあんまりにも明るくて、のどかで、あたしの怒りも戸惑いもなんだか急にしぼんでしまった。
「大丈夫よ、さつき。だって若君さんが『大丈夫』っておっしゃってるんだから」
あたしはちらっと若君を見る。
若君はウンウンとうなずいていた。
†
そして気付いたときには、あたしは完璧に退路を絶たれていた。
みんながあたしをじっと見つめていた。
みんなが穏やかな笑顔であたしの返事を待っていた。
若君もそのきれいな顔であたしに微笑んでいた。
†
誰か助けに来てくれないかな? それを考えたのは一瞬。
父さんが来るはずないし、じいちゃんは若君の味方だし、弟はハナからあてにならない。
あとは、あとは……うーむ、誰も思い浮かばない。
「じゃ。さつき、若君さんの前に」
母さんがそう言ったけれど、あたしは動けなかった。
体が凍りついたように、カチカチになっててまったく動けなかった。
「大丈夫、そんなに緊張しないで」と芳子ばあちゃん。
「さつき、しっかり頼むぞえ」とボタンばあちゃん。
「ダメ、体が動かない」
それがこの場を逃げる切り札になるとはとうてい思えなかったが、そう言うのがやっとだった。
†
「なに、それには及ばぬ」
若君がゆらりと立ち上がった。
見上げるような背の高さ。背筋を伸ばし、すっきりとした顔であたしを見下ろしている。その時、不意に入り込んだ夜風が若君の髪を揺らした。束ねた長い髪がゆっくりと揺れる。
(本当にきれいだな、この人)
風と共に、あたしの心の中になにか涼しい感情が吹きぬけた。
心のもやもやが急に晴れた気がした。
これはもう宿命なのだ。ふいにそれが分かった。あたしはそれを受け入れて、それと共に生きなきゃならないんだ。こうなることはもう決まっていたのだ。そんなことを感じた。
†
そして若君が一歩を踏み出した。
来た……でもやっぱり怖い。
また一歩。来たー。
そしてさらに一歩。来た来たー。
やっぱり怖い。怖いものは怖い。
あたしはぎゅっと目を閉じた。
「大丈夫じゃ。そんなに怖がらずともよい」
ポン、とあたしの頭に大きな手がのせられた。
そしてサワサワとあたしの髪をなでた。
あたしは子供になった気がした。何かが守ってくれているような安心感。
どうしてだろう? その手はひんやりと冷たいのに、心の中に暖かなものが流れてくるのが分かった。
あたしは再び目を開いた。
†
若君の顔が、あたしの目の前にあった。
きれいな瞳、長く伸びたまつげ、すっと伸びた鼻、透き通るような白い肌に少し赤い唇。
この美貌はほとんど凶器だ。
「ワシを信用しろ」
「はい」
あたしは思うよりも早くそう答えていた。
「すまんな、恩にきる」
若君はさわやかに笑った。
その瞬間、唇の端から再び白い牙がちらりと見え、その先端が鋭く光った。
ピキーンと澄んだ音が聞こえそうなくらい光っていた。
†
(やっぱ、イヤァァァ!)
とは思ったが、早くも若君はあたしの両肩に手を置き、あたしの首筋に顔をうずめてきた。
冷たい吐息があたしのうなじをくすぐってくる。
そして……
「ちょっ、ちょっと、待ってください!」
あたしはギリギリで若君を止めた。若君の胸に手を当て、体を離した。
「どうしたのじゃ?」
あたしは困った。なんと言ったらいいか分からなかった。
そして混乱した心は、あたしに適当な話をしゃべらせた。
「そ、その、ですね、できれば首とかはやめてもらえませんか? あたし、ほら、学校に行かなくちゃいけないんですよ。だから、そんな目立つところに傷ができるのは……ちょっと、困るんですよね。だから、その、見えないところのほうが」
若君はキョトンとしていた。
それからフッとあたしから目をそらして床を見つめた。
どーいうわけか、なにやら照れてる。
へ? なんで?




