4、真夜中の決闘 feat.バカでかい寝台
ようするに、まだ寝ぼけ眼だった。
通された部屋は薄暗く、二間続きになっているようで、扉の前と、その境、さらに奥に、三台、火のともった灯台があるだけだった。扉のそばには、夜だと言うのに正装した、三人の女性がいた。
そのうちの一人は、小耀さまだ。他の二人は、知らない人だった。
「この儀式、小耀さまも出席するんですか?」
こんな夜中に眠いだろうに、大変ですね、と気遣うと、小耀さまは目を泳がした。
「えっと……そ、そうね。わたくしは、おつとめとして立ち会うのよ。あのね、えっと……そーいうことなのよ……」
「はあ」
歯切れ悪くも小耀さまが答えると、後ろから視線を感じた。
迂幽彩が、鋭い目つきで小耀さまをにらんでいたのだ。
「小耀さま、このような大事ははじまりの前に、皇太子妃殿下にご説明なさいませんと。いつぞや、すべてに責任を持つのはご自分だと仰いませんでしたか?」
「え。ええ、そうね……」
迂幽彩の剣幕に、小耀さまがたじたじとなっている。
皇妃様にこんな態度がとれるのは、あたしを除いてこの女くらいだ。
迂幽彩は、たとえ生母であってもカワイイ皇子に害ありと思えば、容赦しない。
まさに、怖いものなし。あたしが言うのもなんだけど。
「あ、あの。お二人とも、今宵はそのくらいになさいませ。皇太子殿下もお待ちですわ」
四十代くらいの、優しそうな顔立ちをした女性が止めに入った。皇太子がお待ち、と聞いて、迂幽彩は咳払い一つで勝負を持ち越すことにしたらしい。
小耀さまは、あからさまにホッとした顔をした。
というか、あのアホ太子、この部屋の中にいたのか。
首を伸ばすと、つい立てのある奥で、暗がりの中に人が立っているようなのが見えた。
「そうですね。皇太子殿下をお待たせしてはなりません。これにて退出いたします」
どこか怒っているように顔をしかめて、音高く裾をさばき、迂幽彩は出ていった。
迂幽彩がいなくなると、暗がりのなかに沈黙が下りた。
どうしていたらいいかわからないので、あくびをしつつ立っていると、小耀さまがそっとあたしの肩に触れ、
「……ごめんなさいね」
と、耳元でささやいてきた。
え、小耀さま、とつぜんどうしたの……。
「では皇太子妃殿下、わたくしのあとをお歩きください。儀式の間へお連れいたします」
「はあ」
背筋のピンと伸びた、我こそベテラン女官長、みたいな雰囲気の五、六十代くらいのキリッとした女性が前に立ち、手燭を持って奥へと進み出す。すると、やんわりと、小耀さまに背中を押さた。
そうだった。
あのひと、付いて来いって言っていたっけ。
慌てて先導役の背中を追う。すると、あたしの後ろに、小耀さまともう一人の女性が、ついてきた。
先頭を歩くベテラン女官長は、すり足で、音もたてずに歩いている。
足元はそんなに見えないのに、ステーンと転んだりしないのだろうか……すごいなー、ベテラン。
あたし、歩くとどうもうるさく音を立てちゃうんだよね。
こういう、静々とおしとやかにしているの、すごく苦手……。
奥の間には、灯台が一台置いてあるだけだった。
さっきまで離れたところにいたから、その空間がどうなっているのか、いまいちよく見えなかったけれど、ぼんやりと照らす明かりの中にあったのは、バカでかい寝台だった。
目の前には、人間が五、六人は雑魚寝できるのじゃないかというほどに巨大な寝台が、ほの白く浮かび上がっている。
驚いた。
奥の間は、まんま、寝台だった。
この寝台のお尻のほうには、ぴったりとくっつくようにして腰ほどの高さの、背の低いついたてが置かれており、さっきいた位置からでは、このついたてに邪魔されて、その向こうにある寝台が見えなかったらしい。
ほかにあるものはといえば、壁際に申し訳程度に、長櫃が二台ほど置かれているだけだ。
なんじゃこりゃ。
呆気にとられて見つめていると、巨大寝台を挟んで反対側の暗がりから、一人の人間が進み出てきた。
長い黒髪をすっかりほどき、黄色っぽい夜着の上に、濃い色の羽織を着ている。大きらいな皇太子だった。
「ずいぶん遅いご到着ですね。コータイシヒ」
新米皇太子が、ご大層なようすで、顔にかかりそうになった髪の毛を、耳にかける。
橙色の明かりの中で、ヤツの顔に刻まれた黒々しい影が、ささいな表情の変化を大きく見せた。
憎らしいことにキャツめは今、クッと、あたしをバカにして笑っている!
会って早々、なんて野郎だ!
「何かもめごとでも? 幽彩の声も聞こえましたが」
「お待たせいたして申し訳ございません。しかし、支度は万事整っております。御心を煩わせるものはございません」
先導役の女官は、そう言いつつ手燭をもう一人の女官に手渡し、キラキラした銀糸の刺繍がある布団を、バサバサと荒々しくめくり上げた。
「さ、どうぞ」
「は?」
女官は、丸めた布団の端を持ちながら、じっとこちらを見つめてきた。
え!? なに?
『どうぞ』って、一体なんだっていうの?
「……お入りください、皇太子妃」
入るうっ!? どこにだっ。
「ちょ、ちょっと待ってください。ここにあるのって、皇太子用のバカでか……大きな寝床だけですよね? あたしの寝る場所は、どこにあるんですか?」
女官の目を見つめ返して尋ねると、六十代くらいのベテラン女官の顔が、これでもかというほどしかめられた。眉を寄せ、まるで理解できないものを見るような眼で見つめてくる。
へ? そんな顔をされなくちゃならないようなこと、あたし、言った?
「えーっと、これってナントカの儀式……」
「初夜の儀」
皇太子が、まるで死人みたいに感情をなくしたような顔で、訂正してくる。
「それそれ。この儀式って、二人で一緒に眠るカンジのやつだ~なんてことをさっき聞いたんですけど、あたしの寝台、この部屋になくないですか?」
「……はい?」
ベテラン女官が、固まってしまったとでもいうように、布団をまくり上げた態勢のまま、聞き返してきた。
「ですから、このバカでか……大きな寝台は、皇太子の権力の象徴的なものなんですよね? それはわかってるんです。皇太子妃なんて、それに比べたら付属品みたいなものですし。だから、あたしの寝る場所は小っちゃいものだとは思ってたんですけど、ここにはどこを見渡してもないなーって思って。一緒に眠るっていうから、てっきり二台あるものと……」
皇太子は、長い前髪を横に流しつつ、背中を向け、おもむろに寝台に腰を下ろした。
やっぱり、見るからにこのバカでかい寝台は、コイツ専用だよな。
納得して、ベテラン女官を見る。けれどベテラン女官は、口をパクパクさせていた。
「あ、もしかしてゴザしいて寝ろってことですか?」
もしや脇の長櫃の中に、あたしのござが?
ならば持ってこようと思って、歩き出そうとすると、隣にいた小耀さまに、ものすごい力で二の腕を掴まれた。
「違うのよ。杜宇ちゃん、ぜんぜん違うのよ……」
「え……まさか地べた?」
そこまで、夫と妻の権力差を知らしめたいがための儀式なのか!?
王族って、えげつないな!
「アホか、おまえ」
いちはやく布団の中に潜り込んでいた皇太子が、もぞもぞと背中を起こした。
「このバカでかいのに、お前が寝るんだ」
「え? じゃあ、アンタがゴザなの?」
「なんでお……私がそんな真似をする」
「だって、誰かがそうしなきゃ、足りないでしょ。ここにはバカでかい寝台が一つしかないんだから」
ほんと、察しの悪いヤツだな~。
というか、先に布団にもぐっているくせに、ここで寝ろとか言うんじゃないよ。
そっちこそアホか。
本当は同室だっていやなのに、誰が隣でなぞ寝るか。
「申し訳ございません。わたくしの浅慮のためでしょうか、皇太子妃殿下の申し上げることが、なにを指すやらお諭しやら……」
「チッ。もう面倒だ。女官長。それをす巻きにして横たわらせておけ」
「で、殿下。儀式をなんだとお思いですか」
「このやろう。す巻きとはなんだ! こっちは気持ちよく寝ていたところをはた迷惑な儀式のためにたたき起こされたんだぞ!」
「こ、皇太子妃殿下。ご夫君に対して何と恐れ多い物言いを……っ。かてて加えて、まさか大切なこの儀式があるというのに、先ほどまで寝入っていたとおっしゃるのですか!?」
「夜になったら寝るのは自然の道理」
「しょっ、しょや……初夜の日に、新妻がぐっすりと高いびき……」
失礼な。いびきはかいてないぞ、たぶん。
「女官長。儀式の意義を考えるのは、私よりも適任がいたな」
皇太子が、落ちてきた髪をサラリとはらい、鼻で笑ってきた。
は、腹立つー!
もうくくれ、そのだらしない前髪っ。
「ごめんなさいね、杜宇ちゃん。わたくしに、言い出す勇気がなくてごめんなさい……」
小耀さまが、ぶつぶつと何事かを呟いている。
「せめて幕引きはわたくしが、責任取らせてもらいますっ。えいっ!」
「ぶわっ」
とつぜん背中に渾身のタックルをくらい、膝が寝台の淵に当たって、体が乗り上げた。
「ごおっ」
なんとか立て直そうとして、転んだ勢いを削げないまま四つん這いでわたわたと走り、ヤバいと思った時には、皇太子の体が迫り、あたしはその横っ面に頭突きしていた。
「……てめえ……」
あまりの怒りに腹の底から湧いてきたのだというようなおどろおどろしい声が、すぐ真上から聞こえる。
「でっ、殿下ーっ!」
「ごっ、ごめんなさいーっ」
ずきずき痛む頭を押さえて、慌てて後ずさろうとすると、俊敏にも素早く身を乗り出した皇太子が、頭に置いたその手を、強引にわし掴んできた。
「傷はないから、女官は寄るな! 今です、母上!」
皇太子が、切迫したように声を荒げる。
「合点承知!」
皇太子と目線を交わし、固く頷いた小耀さまが、風の速さで女官から手燭を奪い、ついたての向こうに移動した。
「悪く思わないでね、杜宇ちゃん。夜明けまで、そこにいれば済むことだから」
天井から下がっているらしい紐のようなものを、小耀さまはいつの間にか握っている。
女官二人も、慌てた様子で、小耀さまのもとへ走っていった。
「それでは、おさらばっ」
小耀さまがグイッと紐を引く。すると、シュルルッと、黒っぽい幕のようなものが天井から垂れ下がった。
幕の向こうで、ぼんやりと、手燭の灯りと、それに照られた三人の影が動いている。
灯りはだんだん小さくなり、影だけがゆららと揺れた。やがて、その影さえ見えなくなった。
「……ったく。お前は幻の獣かなにかか」
吐き捨てるように言い、皇太子はあたしの手を、まるで押しのけるように、乱暴に放した。
あたしはそのまま、コテンと後ろに倒れそうになった。
一体、今のは何だったんだ……?
「……おい」
小耀さまがとつぜん背中を押してきたかと思えば、皇太子はあたしの腕をつかんで、今です、母上! だのなんだの……。
あげく、三人はどこかへ行ってしまうし、天井から妙な幕まで垂れてきたし、ここはからくり部屋かなにか?
「おい。どうした。まさかまだゴザゴザ言うんじゃないだろうな」
「……あのさ。もしかして、あたしが皇太子妃というのは仮の姿で、もしやこのからくり部屋で、あんたの影武者とか、密偵とかに育てあげようとされているんじゃないよね……?」
おそるおそる尋ねると、皇太子は、静かに目を閉じ、眉を寄せ、難しそうな顔をした。
ま、まさか、正解っ?
「……お前、この十年の間に一体何があった?」
「別に、何も」
「そんなに間の抜けたことをいう人間だったか?」
「どういう意味だ」
ギロッと睨むと、ヤツは目を開けた。目を開けたその瞬間、静かににらんできた。
「もういい。そこに横になってろ。それが今日で最後の仕事だ」
「えっ。それって、密偵スキルとなにか関係ある?」
「密偵じゃない。皇太子妃の仕事だ」
「何でここに寝るのが仕事なの? じゃああんたはどこで寝るの?」
「おれもここで寝る」
「えーっ。なんで一緒の布団なの? ここ、仮にも宮廷なんだから、部屋も寝台もいっぱいあるよね?」
「……オマエ、自分が今日何になったか知ってるか?」
「不本意ながら、皇太子妃です」
「おれは、不本意ながらお前の夫」
……夫。
あらためてそういわれると、なんかこう、胸にズシンとくるものが。
「紗の向こうには、母上と二人の女官が控えている」
「そうなの?」
「夫婦になった二人が同じ布団に入って眠り、それを立会人が見届ける。これはそーいうヤツだ」
「ええーっ」
「なんで、とは聞くなよ」
ぴしゃりとくぎを刺された。
皇太子は、嫌そうにあたしを見つつ、布団の位置を調整した。
「なんで?」
ものも言わずに睨まれてしまった。
「……とにかく、嫌でも今夜さえ乗り切ればいい。だから黙って静かに寝てろ。おれはもう寝る」
皇太子は、そういいながら体を横たえ、布団をグイッと引っ張った。もぞもぞと動いて、寝台の上に座ったままでいるあたしに背中を向ける。
えっ、これってホントに、ここで一緒に寝るカンジ?
皇太子は、背中を向けて横たわったまま、動かなくなってしまった。
一体、どうしたらいいというんだ。
一緒の布団で寝れば終わりといったって、いやなもんはイヤなんですけど……。
「……言っておくが、アレはこちらから見ればただの黒い幕だが、向こうからは信じられないほどよく見えている。妙な動きをして決まりを破ったら、後日またやり直しを食らうぞ」
「あっ、寝ます寝ます」
あたしはすぐさま布団をひっかぶった。
慌てて布団を引っ張ったので、皇太子が憎々し気に舌打ちをして振り返ってきた。
そんな非難がましい目も無視して、あたしはするすると布団にもぐる。
頭までかぶって横になり、胸に両足を引き寄せた。
……あー、落ち着かない。
〇
夜はしんしんと深まってゆくけれど、あたしの思考は冴え冴えとしてくるばかりだった。
夫婦が一緒の布団に入って眠るというこの儀式。
まったくもって落ち着かない。
すぐそこに憎いアンチキショウがいると思えば思うほど、頭が冴えて眠れない。
こうなったら可能な限り、ヤツから離れているに限ると思って、転げ落ちそうなほど淵ギリギリに横になっているから、そのせいもあって眠れないのかもしれない。
ヤツはもう寝たのだろうか。
寝息が聞こえるほどに近くにいないから確かめようがないのだけれど、少なくともいびきはかいていないもよう。今のところ歯ぎしりも寝っ屁もなし。
そろそろと首をもたげて後ろを確認してみると、ヤツはこちらに背を向けて横になった姿勢のまま、微動だにしていなかった。
寝相いいな、あいつ。
落ち着かないのはあたしだけか。
一生口もきかずに過ごせればわが人生に一片の悔いなしと思い定めてきた相手と、まさか同じ布団で寝るはめになったのだから、この落ち着かない気持ちは、しょうがないといえばしょうがない。
ましてや、そんな相手と結婚して夫婦となっただなんて、青天の霹靂。いや、ほんとうはまだどこか信じられない。いまだに精神は雷にズンドコ打たれっぱなしだ。まさに絶賛生き地獄中。
この結婚で、我が身の春が、ありとあらゆる喜びが、輝かしい未来が失われたといっても過言ではない。
しょせんこの関係は形だけだし、宮廷のお菓子食べ放題の人生もなきにしもあらず、だなんて、ゆる~く考えたこともあったけれど、振り返ってみればあれは立派な現実逃避だったよ。
だって、結婚というのは夫婦になることなのだ。夫婦になるというのは、きっても切れない関係になるということなのだ。
あたしとアイツが。
おお、ティンバラ、ティンバラ……。
たとえ形だけであったとしても、関係は『夫』と『妻』に変わる。
それを考えると、いやがおうにも、気持ちがずっしーんと、沈む。
心に家が建っていたら、危うく被災住宅になるところだ。地盤沈下が、急速にはじまっている。
これはわが一生の、最大にして最悪の艱難である。
まさに、齢十六にして、人生の折り返し地点到達。
あとは下降あるのみ。
ああ、苦境。
つくづく、どうしてあたしなんだ。
こんな目に遭うのは、どうしてあたしじゃなきゃならない?
小耀さま、自分の姑への対抗馬に、知り合いの娘を立てるんじゃないよ!
いくら気心が知れた仲だからって、そりゃないよ。
もっとふさわしい人が、どこかにいるよ……。
あーっ。もう!
どうして眠れない夜ってどうしようもない考えごとが、堂々巡りに浮かんでくるんだろう。
こういうの、大の苦手なんだ。その証拠に、気分が暗くなっていくばかりで、ロクな答えだって浮かんでこない。
今は寝よう。そうしよう。明日は明日の風が吹く。
………。
って、やっぱり無理ー。
そもそも、こんなに生理的に受け付けない人間が近くにいるから、胸クソだって悪くなってくるのだ。
きーっ。
こっちの気なんか知らずに、あいつ、自分だけスヤスヤ寝ちゃってさ!
ずるいっ、ずるいっ。
翌朝、寝違えておしまいっ。
……ハッ!
ひらめいたぞ。
アイツがいるから落ち着かないのなら、いっそあたしがいなくなってしまえばいいのだ。
ここからそっと移動しよう。
あまりの寝相の悪さに、寝台から転げ落ちたということにしてしまえば、すくなくとも同じ場所で、同じ布団で、ヤツと一緒に眠らずに済む!
寝相でやむにやまれず、ってことだったら、やり直し判定を食らわずに済むじゃないか。
頭いいなあ、あたし。
よし。そうと決まれば、さっそく実行に移そう。
そーっと、そーっと。
まずは足で、着地点を探って……。おっ……いける。
ひとつ、うつぶせになって片足だけ外へ出し。
ふたつ、自然な様子で片手を出して。
みっつ、あとは野となれ山となれ!
寝相の悪さでゴロゴロ転がって落ちました、というナチュラルな演技力の有る無しが、運命の分かれ目!
おんどりゃー!
あたしはすべてを確実にこなし、ヒタッと床に寝そべった。
その姿勢のまま、しばらくじっとしてみるけれど、今のところ、立会人からおとがめはなし。
「っ……ぶあっぐしッ!」
っと、危ない。
ひんやりと冷えた床にぞくっとして、思わずくしゃみが出てしまった。
このままじゃ、風邪を引いてしまう。布団を持ってこなければ……。
「んっ?」
床にうつぶせになった姿勢で手を伸ばし、引っ張ろうとするが、寝台に布団らしきものがない。
えっ。
あれっ。
なんでっ?
さわさわと片手で寝台の上を探るけれど、一向に、さっきまでくるまっていたはずの布団がつかめなかった。
何度も探ったけれど、甲斐がない。
こうなっては、背に腹は代えられない。
寒さに震えたまま眠るのは、いくらあたしでも無理だ。こう見えても温室育ち。
幕の向こうに気付かれないように注意しつつ、じりじりと崖から這いのぼるようにして体を起こした。
だがしかし、寝台の上を見て、一瞬、呼吸を忘れた。
あろうことか、さっきまであたしがいた場所から、布団がこつ然と消えていたのだ。
「なっ」
なんだとーっ!!
略奪者はすぐそこにいた。
眠っているはずの皇太子が、あたしの領分の布団をせわしなく波打たせながら、自分のそばにもぞもぞと引き寄せていたのである!
ちょっとあんたー!
なにしてくれてるんだっ。返せ! あたしの布団っ。
ぐっと腕を伸ばして布団を掴もうとするけれど、あとちょっとのところで届かない。そうしている間にも、布団はするすると皇太子に引き寄せられて、遠ざかる。
ブラックホールか、あいつ!
皇太子は相変わらずあたしに背を向けたまま、布団だけを器用に手繰り寄せている。
なっ、なんてやつだ。
寝台と同じく、いや、それ以上に大きな布団を、すべて自分のもとへ引き寄せた、だと……!?
寝相でこれをするなんて、ふてえ野郎だ……!
すっかり膝立ちになって、呆然とそのさまを眺めていると、布団の海に埋もれた皇太子の頭が、もぞもぞと動く。
薄明りの中、こちらを振り返ったその顔は、目を閉じていながらも、うっすらと口元に笑みができていた。
くそっ。
布団合戦に勝利した栄光の夢を見ているとでもいうのか。
ふん、だっ。
あんたの寝顔なんか見たくもない。
早く向こうを向いてくれ!
「勝った」
バチッと目を見開き、ニヤリと笑った顔がある。
皇太子は、それだけ言うと、すぐに顔を背けて布団をかぶった。
……勝った、だと……!?
いま、あいつ……。
なんて言った? 目を開けて、ニヤッと笑って……。
―――あんにゃろうっ、起きていやがったのか!
くそーっ!
しゃがみこんだあたしは、すぐさまシーツの端を掴んで、まくり上げた。寝台の淵に足をかけて、両手で力の限りに引っ張る。
布団がだめなら、シーツでしのげばいいじゃない!
お読みくださって、ありがとうございました。