File.1-1『小さな放浪者(ワンダラー)』
『昨夜未明、倉武技術興業の研究施設で放火とみられる不審火がありました。火災による被害は施設ほぼ全域に及んでおり、警察と消防は何者かが計画的に火災を起こした可能性があると・・・・・・』
どこかでそんなラジオのニュースが流れる市街地の、それも人気のない路地裏通路の中に僕はいた。
そして僕は今、そんなニュースもどうでもいいくらいに必死で逃走中だった。
僕を追いかけているのは普段であれば怖がる必要のない存在だが、今の僕にはそれは獰猛で凶悪な猛獣と化していた。なんとか距離を取ってもしつこく追い掛け回し、こちらが動くたびにその狩人としての瞳はこちらに向けられてくる。
『頼む・・・・・・頼むからあっち行ってくれ、な?』
こちらの懇願も虚しく、向こうはこちらへ飛びかかる体制をとり始めた。冗談ではない、僕と奴とでは体格差がありすぎる。
『く、来るな・・・・・・来るんじゃない・・・・・・っ!!』
何とも言えぬ恐怖から僕はへっぴり腰になって後ずさった。
そしてその恐怖はついにこちらへと襲い掛かってくる。
「ニャ~~~~~~♪」
『ニ”ャアアアアアアアアァァァァァァァァッ!!?』
全高約20cmの小型ロボットと化した僕に待ち受けていた最初の試練、無邪気な猛獣『仔猫』との鬼ごっこだった・・・・・・。
*
『うわぁあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!追ってくるなー!!』
「ニャ~!」
仔猫との鬼ごっこは想像を絶するものだった。跳躍して逃げても向こうも素早い切り返しで同じ方向へと飛びかかり、狭い場所に逃げても相手はその柔軟な身体を活かして侵入し、高い場所に登っても負けじとよじ登ってくる。
知らなかった、仔猫とは見た目によらずここまで凶悪な生き物だったのだ。この体格差でじゃれつかれでもしたら、僕のこの小さな体はあっという間におもちゃのように振り回され、最悪、手足をもがれた見るも無残な姿とされてしまう。
死因が仔猫に弄ばれましたなんて笑い話ではない。僕は無邪気な追跡者から必死の思いで逃げていた。
無我夢中で逃げ回っているうちに、僕は開けた場所に出た。そんな時にショルダーバックを携えた女子校生達の姿が見える。
『そうだ、人の群れの中に逃れれば・・・・・・!』
相手はおそらく野良猫、人間の傍ならば警戒して追ってこないはず。僕は女子校生のショルダーバッグへ向かって跳躍した。
幸運か不運かバッグのチャックが開けていたので飛びついた僕はそのままバッグの中へと入っていく。
よし、もう大丈夫。これで奴ももう諦めてどこかへ・・・・・・。
「ニャ~」
「あれ、見て!仔猫だよ、仔猫!」
「キャー!かっわいいっ!!」
(はい?)
なんだか外の様子が気になったのでバッグの口からそっと身を乗り出して伺う。
「ねぇ、この子すっごく大人しいよ」
「人懐っこい子だね」
「ニャー、ゴロゴロ」
僕を追い掛け回していた猛獣は女子校生達の手の中で甘え上手な小悪魔になっていた。
『あ・・・・・・あざとい。というか、人間慣れしてるのか?』
僕はいろんな意味で仔猫に戦慄を覚えた。弱者をいたぶる残虐性と自分より格上に取り入る魅力を兼ね備える生き物、それが仔猫であると思い知らされた。
僕はしばし唖然としていたが、すぐにあることが気になった。それはこの女子校生達の着ている制服だった。
(この制服、何処かで・・・・・・)
彼女達の着ている制服、僕には何処か見覚えがあった。でも何故だろう、覚えているはずなのに思い出そうとすると頭の中にノイズが走ってうまく思い出せない。
(思い出せない・・・・・・けど、いつも見慣れている格好だったような・・・・・・)
どこか引っかかる感触を覚え、僕はついバッグの中へ入ってあぐらをかきつつ考え込んでしまう。
いや待て、思い出せない?
(どういう事だ、覚えてるはずなのにおかしいぞ)
僕は改めて記憶の整理を始める。まずは自分自身のことだ。
(僕は誰だ、僕は今はこんな姿だったけど人間で、人間の頃からある僕の名前は・・・・・・僕の、名前・・・・・・)
まずは名前を思い出そうとする。だが、思い出せない。自分の名前が、自分自身を決定づける大切な要素が、取り出せない。
(嘘だ・・・・・・嘘だ嘘だ嘘だっ!!)
信じられない、信じたくもない。でも、思い出せない。自分の名前が思い出せないのだ。
名前だけではない、自分がどこの誰でどんな人生を送っていたのかすら、記憶に霞が掛かって思い出せない。かろうじて思い出せるのは自分は確かに人間であったという確証もない記憶だけだった。
『ハ・・・・・・ハハ、ハ・・・・・・』
僕は脱力しつつ、乾いた笑い声を上げていた。いきなりわけのわからない状況に陥り、しかも自分自身に関するほぼ全ての記憶がないなんて。
『何だよ、僕は悪い夢でも見てるのか?』
そうつぶやきながら自らの顔を撫で、次に拳を作って見舞ってみる。金属音の直後に自分の頬に当たる部分に焼けるような痛みが残る。
《The head has a shock. There is no damage inside.》
また視界に読めもしない英文の羅列が表示される。「もうお前は人間でない」という現実が無慈悲に突きつけられた。
僕は急に精神的な疲れに襲われた。突然の身体の変化、思いもよらぬ脅威からの逃走、思い出せない記憶、それを受け入れなければならない現実、精神崩壊を起こしていないのが不思議に思える。
「あ、バスが来たよ」
「本当だ。でも、この子どうする?」
「ここに放っておくのも可哀想だし・・・・・・よし!」
外では何やら女子校生達が仔猫のことで話をしているようだ。よく見れば、僕が身を潜めているバッグの持ち主である女子校生が子猫を自分の方へと抱き寄せている。
(え・・・・・・・・・・・・)
僕は猛烈に嫌な予感がした。女子校生は手に抱いた子猫を自分の、僕の入ったバッグの中へと運び始める。
『や、やめろ・・・・・・やめてくれ・・・・・・!!』
「ニャー♪」
無邪気な悪魔が頭上からゆっくりと迫って来る。しかし、八方塞がりなバッグにはもはや逃げ場などなかった。
『あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!?』
「ニャー」
その時の僕の絶叫は一緒に入れられた子猫の鳴き声によってかき消されていた。
*
どれだけ長い時間が経っただろうか。仔猫という悪魔と一緒になったバッグの中は僕にとっては地獄そのものだった。
最初は猫パンチから始まり、じゃれ付きという名の取っ組み合いを受け、いたるところにその牙で噛み付かれた。
しかし幸いなことに、このロボットの体は見た目の小ささの割に結構頑丈にできており、仔猫のじゃれ付き(という名の暴力)をどれだけ受けても傷ひとつ付いていなかった。代わりに仔猫の唾液まみれになってしまったが。
物理的な被害は少ないが、精神的に来るものがある。弄ばれた僕は力尽きてバッグの奥の方でうずくまっていた。
『汚された・・・・・・仔猫に汚された・・・・・・』
まるで性的暴行を受けた生娘のように落ち込む僕。嗚呼、消えてしまえるのなら消えてしまいたい。
一方で僕をこんなにした相手は反対方向の片隅ですやすやと丸くなって寝息を立てている。本当、仔猫は悪魔だ。
「あ、いたいた。おーい、雫ぅ!!」
ショルダーバッグの持ち主がそう言いながら誰かに近づいているようだ。
「あ・・・・・・幸子」
(え・・・・・・・・・・・・?)
対する人物、声色からしてその女性は抑揚のない口調で返してくる。僕は、その声を聞いた途端、何故か懐かしい気持ちに駆られる。
「今日からまた学校に来るって聞いて教室まで駆けつけてきたわよ」
「う、うん・・・・・・ありがとう」
なんだろう、抑揚こそないがこの声はどこか覚えのある気がする。記憶がなくなってしまったはずなのに、この声には自然と心が高鳴るような・・・・・・。
「しかしビックリしたわねぇ、真面目なあんたが急に不登校になるんだもの」
「ゴメンね、幸子にまで心配かけちゃって・・・・・・」
「いいのいいの、あんたもいろいろあって塞ぎ込んじゃったんだからさ。まぁ、やっとここまで立ち直れたとは思うけどね」
「本当にありがとう、幸子が励ましてくれたおかげだよ」
(誰だ、誰と話してる?)
やっぱり僕にとって聞き馴染みのある声だ。記憶はないけど、僕にとってなにか重要な意味を持つ声だ。しかしその正体を探ろうにもバッグの口はファスナーで閉ざされており、どんなに頑張ってもこちらから開きそうにない。
「いやぁ、そう言われると親友としては嬉しいねぇ」
「そんなことないって」
彼女達がそんな他愛のない会話を交わしている間に、学校のチャイムが鳴り響いた。
「おっと、あたしも教室に行かないと・・・・・・あ、そうだ。雫、お昼休みって時間空いてる?」
「え、お昼休みなら特に予定もないけど・・・・・・」
「じゃあ、いつもの場所に集合ね。実は見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
「ふっふ~ん、それはお昼休みのお・た・の・し・み♪」
バッグの持ち主はそう言って気になる声の主のもとから去っていく。
揺られるバッグの中で、僕は先ほどの声の主のことを考えていた。
(さっきの声の女の子・・・・・・どこか懐かしい感じがした)
僕は先ほどの声の主は誰なのか思い出そうと頭を抱える。
だが自分の名前の時と同じで、肝心なところでモヤが掛かって思い出せなくなる。それだけではない、その声の事を考える度に懐かしい感じに合わせてどこか胸の奥がもやもやするような感覚も覚えた。
(・・・・・・何なんだよ、この気持ち)
僕は晴れない胸のモヤモヤに喜びとも苛立ちとも取れない複雑な気分に浸っていた。
*
午前中の小休憩に入るチャイムが鳴り響く頃、僕はここから抜け出ることを決めた。先ほどの雫と呼ばれた声の主の女子生徒、あの子のことが気になってどうしても仕方なかったのだ。
『考えても埒があかないよな』
ここでじっとしていても何も変わらないのならば行動あるのみだ。
「さてと、次の授業は体育だっけか着替え着替えっと」
『!!』
バッグの持ち主はそう言ってファスナーを開き始める。チャンスだ、持ち主がバッグの口を開くと同時にこっそり抜け出し、先ほどの声の主のところへ向かおう。
(あと少し・・・・・・!)
僕がいつでも飛び出せる体制を整えながら出口が開いていくのを待ち構える。ファスナーが開かれる様子は内側からはどこかゆっくりに感じるほどもどかしかった。早くしろ、早くしろと気持ちの中で急かしているのもあるのだろう。
とにかく、僕はここから出るんだ。開き口から差し込む光を見つめながら僕は跳びだす為に脚に力を込める。
『よし、今・・・・・・だぁああああああぁぁぁぁぁ!?』
「うひゃっ!?」
バッグの持ち主が驚く声を上げる中、飛び出そうと力を込めた僕の脚が急に何かに掬われて身体は宙を舞った。同時に僕の身体はバッグの外へと飛び出し、そのまま乱暴に引きずられていく。
『何だ、何なんだぁ!?』
何事かと思いながら引っ張られている脚を見てみると、その犯人が無邪気な表情をしていた。
「ニャーゴ♪」
『こ・・・・・・こぉんのバカ猫ぉおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!』
そのまま、僕はこの仔猫の走り回るがままに広い校内を放浪する羽目になった。
*
校内のとある教室中、僕と僕を連れ去った仔猫はそこにいた。
『も・・・・・・もう嫌だ・・・・・・もう猫なんて嫌いだ』
あれからまたどれだけ振り回されただろう。無邪気という名の災厄に振り回され、その災厄の根源がまた疲れて眠る頃には夕方になっていた。
対する僕は精神的に満身創痍に成り果てていた。身体自体は相変わらず頑丈なため普通に動く分には支障はない。しかし心は、この小さな悪魔に振り回された僕の神経はボロい靴底同然に磨り減っていた。
そんな精神状態で動き回れるはずもなく、僕は悪魔の眠る場所から離れたところにある部屋の片隅にもたれかかっていた。
夕日は既に沈みかけ、もうまもなく夜へとなるところまで来ている。
『はぁ・・・・・・この分だともう、あの声の女の子は帰っちゃってるかな』
あの声の女の子は失われた僕の記憶の鍵だと感じて彼女に会おうと決意を固めたのにこのざまである。おそらく彼女はもう下校し、その行方など僕では突き止めようがないだろう。
こうなってはもうどうしようもない、行動方針も見失った僕はまるで燃え尽きたボクサーのようにその場から動けずにいた。
しかし、そんな時だった。状況が大きく動き始めたのは。
夜入りの静けさに包まれた校舎の廊下に足音が木霊する。
『・・・・・・な、何だ?』
おかしい、この時間帯は生徒をはおろか教員を含む殆どの人間が校舎から出て行っているはずだ。
『・・・・・・こんな時間に、一体誰だ?』
明らかに怪しい足音に精神が強張る。
空き巣だろうか。いや、空き巣なら金庫の有りそうな職員室や校長室を狙うはず。宿題を忘れた生徒か。いや、たしか僕が居るのは美術室だ。文化祭前でもない限り居残りでここに人が寄り付くわけもない。
『まさか・・・・・・学校の怪談の名物、じゃないだろうな?』
僕は思わずそれを口にして寒気を感じた。本当にやめてほしい、オカルトの類は嫌いで嫌いで仕方ないのに。自分で言うのもアレだが、僕自身それを完全否定できないヘタれであったりする。
『近づいてくる・・・・・・』
足音の聞こえ具合から発信源はこちらに向かって歩いてきているのが分かる。気配も近い、このままだと遭遇する。
『不味い!』
僕は慌てて傍にあった制作途中になっている彫刻の影へと隠れた。同時に美術室の引き戸は開かれる。
「えっと、ここかな?」
(!・・・・・・この声、まさか)
入ってきた足音の主の声を聞き、今度は別の意味で緊張が走った。
「幸子ったら、学校に仔猫を連れてくるなんて・・・・・・まぁ、落ち込んでた私のためだっていうのは嬉しいけどさ」
間違いなく、あの声だ。僕はそぉっと物陰から声の主の姿を伺う。
『!!』
声の主の姿を見た途端、僕は再び固まった。
声の主は美術室の片隅で眠っていた仔猫の姿を見つけると明るい表情でそちらへ歩み寄っていく。
「見つけたよー、君が幸子の言ってた猫ちゃんね。ダメだぞ、学校の中を走り回っちゃ」
僕が探していた声の主、黒髪を一本結びで止めたおとなしめの女子生徒は眠っていた仔猫を抱き抱えていた。