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家の鍵って掛けたっけ?

 ――見事な景色だと、そう思った。

 草原の緑と空の青、眼前に広がっているのは二色の世界だ。吸い込まれそうなほどに高く澄み切った空と、地平の先まで広がる大草原。日本で暮らしていたのなら写真かテレビの向こうでしかお目にかかれないような光景であり、当初は感動に近いものすら抱いた記憶がある。

 しかし見慣れた今となっては、ろくな感慨も浮かばずに移動の徒労が念頭に来てしまうようになった。惜しむべきことなのか否かははっきりしないが、この身の順応性の高さには少し自信を持てるようになった。もっとも、それを言うなら俺を含めた全員が人並みの適応力を大きく上回っていたということだろう。そうでもなければ、ほんのひと月足らずでこんな大平原の真っ只中を進むような羽目になることも無かったはずだ。

 結局は集まるべくして集まったメンバーなのだろうと、そんなことを真剣に悟ってみたりもする。

「そろそろ出るそうよ――九条君」

 呼び声に振り向けば、そこにはどこぞのファンタジー映画の衣装かと思うような法衣に身を包んだ憧れの先輩の姿。かろうじて微笑と判断できるような表情で、その足の向く先には大型の馬ほどもある巨大な二足歩行爬虫類――竜ということだが――に繋がれた馬車ならぬ竜車。

 幌の中から顔をのぞかせているのが口やかましい幼馴染の顔であったりすれば、今の自分の状況など夢ではないかと思うこともたまにある。


 しかし現実として、ここは神奈川県でもなく、ましてや日本でもなければ地球上のどこを探しても在り得ぬ土地。


 『ロワーズ』などという名を冠する『異世界』


 ――そんな場所に、この俺は立っている。










 序章  集い、呼ばれるモノたち。



 俺は、生まれた場所を間違えたのだと、そう思っていた。


 俺が人の上に立たねばならない立場だったのなら、こんなことは許されないだろう。

 俺が明日をも知らない世界で生きていたのなら、こんなことは思いもつかないだろう。

 俺に進むべき道が見えていたのなら、こんな選択肢は存在しないだろう。

 俺が支えている何かがあったとしたら、そのために俺は耐えただろう。


 責任もなく、

 苦労もなく、

 希望もなく、

 呵責もなく、


 「生きる」ということそのものに感じる倦怠感。なんという贅沢か、長く存在し続ける人間に生まれた欠陥みたいなものではないかと俺は思っている。さほど数は多くないのだろうが、俺のような人間も他にいるだろう。

 俺などが言えた話でもないが、繁栄しすぎた人類を、もはや自然の力だけで絶滅させることは難しいのではないかと思う。人類種に終わりが訪れるとすれば、こんな欠陥が表層化してのゆるやかな自滅という結末になるのではないか――などと、まあ……。


「なんかもう、重症だな。わりと真剣に」


 思考をばっさりと打ち切るためにあえて口を開き、俺は目を開ける。

 眼の前にあるのは白い天井で、遮光カーテンを通して差し込む朝日は八畳ほどの部屋をぼんやりと浮かび上がらせている。

 間違いようもない、俺の部屋だ。

 頭の横には親父の書斎から持ってきた文庫本。読んでいて頭のかゆくなるような純文学とやらだったが、いちど開いた本は読みきる主義なのでなんとか完読した。予想の倍近い時間を掛けてしまったせいで今朝はいくらか睡眠不足で、今現在も頭ははっきりしない。

 はっきりしないのだが、それが言い訳になるほど甘い話でもない。

「生まれる場所を間違えたって……いったい何者のつもりだ俺は」

 ただでさえ月曜だというのに、今日はいつにも増して朝からブルーだ。なにがまずいって、寝ぼけた頭でつらつらと恥ずかしいことを考えている自分に突っ込める俺が居ないのがまずい。三歩離れて自分を見る感覚を忘れるなというのは親父の弁、それについては俺も共感したわけで、これまで意識するようにしてきた。他人からどう見られているかではなく、自分自身に対する再確認行為。物事に対しては必ず二つ以上の視点を向けて、死角を減らせ。人間は間違う生き物だとしても、一度の間違いで可能な限り大きな教訓を得る努力をしろ――。

 自分を全肯定しようとするな、ナルシスが溺れたのは底なし沼だったと私は思う。

 とまあ、そんな感じだったか。逆を言えば自分を全否定するのも良くないということだと思うが、しかし事と次第によっては指の先っぽほどの肯定でいいこともあるだろう。

 しかしさっきの俺には、指の先どころか爪の白いとこ程の否定派が居たかどうかも怪しく、完全に溺れかかっていた。だってアレだ、人類種の終わりとか考えてたのだ。

 許されるのならベッドのカドに頭を打ち付けて死んでしまいたいが、今死ぬと罪のない従姉妹に朝から死体を見せることになるのですこし胸が痛む。ここは耐えるしかあるまい。

「てなわけで、今日も頑張ろうか。九条春樹」

 ため息混じりに身体を起こす。

 九条春樹――中二病をこじらせ、高校二年生になって今もなお苦しむ男の名前だ。

 春樹なんて名前なのに、なんでこうも陰気に育ってしまったのかと。

 不意にそんなことを思いついてしまい、天国の両親に五体投地で謝りたくなった……。



 両親が事故で他界したのは、一年ほど前のこと。年度末の休暇を利用した旅行先での交通事故で、言っちゃなんだがずいぶんベタな最期だと思う。親父も運転は達者なほうだったが、真上から大型トラックが降ってきたのだからどうしようもなかったはず。事故の衝撃と火災で遺体もほとんど残っていなかったので、ひとつの骨壺で収まるという有様。

 同じ墓に入るのはともかく、同じ骨壺にはいる夫婦というのは珍しいだろう。息子の俺でもどうかとおもうほどの仲むつまじい両親だったので、きっとあの世でも仲良くやっていることだろう。

 どうか俺のことは気にせずいて欲しい。保険も賠償金も下りたので、よほどの贅沢をしなければ社会に出るまでバイトすらせずにやっていける。

 それこそ命と引き替えに残してもらった金と、両親に生んでもらった命だ。

 浪費をするわけにはいかないという意識はあれど、やはり人生そう簡単にはいかないもので、葬式からこっちは光陰矢の如しを地でいく生活を送っていたりする。

 年をとると一年が早くなるなんてことは聞いたことがあるが、まさか十六で体感するとは思っていなかった。寝て起きたら翌日の夕方だった、なんていう冗談みたいな話を実際にやらかすのもそう遠い未来じゃないのではないかと思う今日この頃だ。

 大学受験を乗り切るだけのモチベーションがあるとは思えない、今のうちから就職を見据えて勉強でもはじめたほうが賢明か――。

「そうか、就職するなら高校なんぞ単位だけとっておけばいいのか……」

 ふむ、存外魅力的なプランだ。

 そんなわけで今日からさっそく自主休学でも始めるか?

 とりあえず一度目だ、無難に風邪でよかろう。

「…………おい」

 携帯はどこへ置いただろうかと巡らせた視線の端っこに映る妙な影。ドアの隙間から廊下側へと引っ込んでいったのは線の細い黒髪と、同じ高校の女子制服の裾。

 俺は携帯を手に神妙な声を作る。

「家に誰かが勝手に入っているみたいなんですけど、怖いんでちょっと来てもらえますかね、えっと、住所は――」

「――ちょっと待ちなってハル君!? お茶目な悪戯に警察沙汰ってのはちょっと心が狭いんじゃないかと思うなお姉ちゃんはっ!!」

 騒がしい足音とともに突っ込んできたそいつは、俺の手から携帯をひったくるとぜえはあ言いながら肩で息をする。

「あーびっくりした。なにがびっくりって――コレほんとに繋がってるじゃないッ!! す、すいません。弟が間違って掛けたみたいで……失礼しますッ!!」

 朝っぱらから部屋中に響く悲鳴を上げて通話を切ったのは、俺と同じ高校の制服を着た女。肩に掛かる髪は外ハネ気味で、つり目気味の瞳やら時折覗く八重歯が特徴的で、動物にたとえるなら若い雄猫ってとこだ。

 名を天城秋穂。俺の母親の姉の娘なので、つまりは従姉妹ということになる。

「心外だな、間違いなんかじゃないってのに」

「間違いです! 家を訪ねてきた姉を警察に引き取らせるってどんだけ鬼畜なのかなハル君は」

「親類の家だから不法侵入していって理屈はないだろ。だいたいどうやって入ってきた? 鍵が開いてたなんてことはないはずだけど」

 訪ねた瞬間だ。秋穂の視線があからさまに明後日の方向へと逃げる。犯人がこんなに判りやすい奴ばかりなら取り調べも楽だろう。

「――身ぐるみ剥がされたくなかったら自白を推奨する」

「ごめんなさい。こんなものがあります」

 肩を落とした秋穂がポケットから取り出したのは銀色の鍵。ヘッドの形状こそありふれたブランクキーのものだが、話の流れからすればこの家の合い鍵なのだろう。

「なんでそんなものを?」

 まったく、朝から頭の痛くなる話だ。

「幼なじみが朝にやってきて『起きろ朝だぞー!』ってやつをやってみたかったのです……」

 いちおうアホなことを画策した自覚はあったらしく、肩をすぼめて小さくなる従姉妹の姿。さっきまでの元気はどこへ行ったのか、まるでしかられた子供のようなヘコみようだ。

 まあ、現在時刻朝六時前。秋穂の言葉を信じるのなら妥当な時間ではあるが……。

「だからがんばって早起きしてきたのに。なんでハル君はすでに起きてておまけにキッチンなんかにいるのかな……」

「なんでそこで恨みがましく見つめられんとならんのだ。俺だって早めに起きることもあるし、ついでに洋風の朝飯を食べてみようと思う朝もある」

 そして、ついでに学校をサボろうと思いついたところへお前の闖入があったわけだ。逆に説教されそうだから言わないけど。

「へー。ほんとに珍しいこともあるもんだね、ところであたしはフレンチトーストがいいかなっ!」

「恵んでやるにしてもベーコンエッグだ。特別に材料費だけでいい」

 正直な話、学校に電話をしてから二度寝でもしようと思ってたわけだが、仕方あるまい。こんな秋穂でもいちおうは俺のお目付け役でもあり、こいつの報告次第では天城家に強制転居という約束があったりするし。

「メニュー選べない上にお金とるってのはどーなのさ。どっちか片っぽにしてよ」

 いつの間にやら食卓について足をふらふらさせている秋穂は、恥ずかしげもなく腹を鳴かせて項垂れる。

 どっちかならいいのか、なんてツッコミは止めておくことにする。朝からにぎやかな従姉妹を背に朝飯を作るのは骨が折れるかと思ったが、秋穂の興味がテレビのニュースに移ってくれたおかげで余計な手間も掛からない。

「すごいねーハル君、遠峰先輩の絵が県の展覧会で金賞だって」

「そりゃすごい。もしかしたらまた飯でもおごってもらえるかもしれないな」

 前回の時は時給換算で一万五千円とか言っていたか。才能ってのはあるところには余るほどあるらしいのだが、金と同じ理屈だろうか?

「この前は学校の窯で焼いた湯呑みが三万で売れたらしいしな」

 俺の人生に接点があったのが不思議なくらいのとんでもない人だ。世の中にああいう人間が居ることを知ってしまうと人の不平等を嘆かずにはいられない。

「ハルく~ん、お姉ちゃんは空腹が目が霞んできたよ?」

 ――いられないわけだが、とりあえずは朝飯だ。



「いやもう、なんだかんだでフレンチトーストまで作ってくれるんだか、やっぱりハル君はやさしーよね」

 なにやら上機嫌な秋穂を横に、いつもの通学路をとぼとぼ歩く。こいつさえいなければ今頃布団の中で惰眠を貪っていたかもしれないと思えば、安っぽい褒め言葉に素直に喜ぶことなど出来はしない。

「そうそうハル君、うちのお母さんが夕飯どおって聞いてたけどどうする?」

 賞味期限の切れた卵で作ったフレンチトーストがそんなに気に入ったのか、秋穂は放っておいたら浮き上がるんじゃないかというくらいの上機嫌。

 俺が知るだけでも十人以上の男を勘違いさせ、陰で純心ホイホイなどと面白いふたつ名を授かっていた笑顔を浮かべている。

 まあ、確かに顔は悪くないし、あけすけで基本的に敵を作らない性格だ。一般的な基準に照らし合わせれば魅力的なのは確かだ。

 それでも、ひょっとしたら親よりも長い時間を一緒に過ごしているかもしれない相手。

 断言するが、こいつと全裸で同衾してもなにも起こらない。

「ありがたい話だが、それに甘えると俺は家で飯を食う機会がなくなる。金曜には世話になるよ」

「そんな水くさいこと――は別に言ってないか。だってお母さんがしつこいんだもの、お姉ちゃんを助けると思ってせめて周三くらいに増やさない?」

「最初にたまにはってなってたのが月一固定になり、いつの間にか毎週になったのを鑑みると、その提案をのんだ時点で毎日になりそうだから断る」

 天城の叔母さんにはとても世話になっている。あの人の誘いなのだから謹んで受けるべきだとは思うんだが、なにせ一度家に上がると帰るのにとんでもない苦労を伴う。天城家の都合も考えて週末にお邪魔さしてもらっているわけだが、力及ばず泊まっていく事になったのも一度や二度ではない。

「つーか、そろそろこの手の話は止めるぞ。またよけいな噂が流れて女子から質問責めにされても面倒だ」

 俺と秋穂のネタで盛り上がるのもいい加減限界だろうが、流石に天城家に泊まったことがあるなんて話までは知れ渡っていないはずだし、な。

 学校が近くなってきたこともあり、あたりは同じような制服姿が目立つようになってきた。その流れを眺めながら、探す人物は一つだ。

 大体このくらいにくれば会えるだろう、という程度の時間調整はしているのである意味必然に近いものだが、その姿を捉えるのにさほど時間はかからなかった。

 特別意識している人物であることを差し引いたとしても、見飽きた学生服の中で一段と映える姿であることは否定しがたい事実だと思う。

 肩口まで伸ばした黒髪に、祖母譲りらしい灰色の瞳。顔の造形が一級品だなんて事すらおまけみたいなもので、自然と頭が下がるような凛とした雰囲気に形容しがたい高揚感が胸に沸く。

 彼女の進路脇に足を止め、一度たりとも気を抜いたことの無い挨拶に備える。

「おはようござい――」

「咲せんぱーい、おはようございますっ!」

 きっちり腰から折った俺の礼を押しのけるようにして、無駄に威勢のいい秋穂の声が真横ではじける。そんな早朝からのジャブのような挨拶に、遠峰咲という名をした彼女は涼しげな表情でこちらに目を向けた。

「おはよう。天城さんに九条君――今日も今日とて仲良しね」

 朝から涼やかな声に心を洗われるような気持ちになりながら、しかし若干台詞が気に掛かる。

「遠峰先輩、ムキになって否定するのを堪えるのは辛いです。その手の冗談はやめてもらいたいのですが……」

「あら、冗談を言っているように聞こえた? 私もあなた達みたいな関係になれる相手が欲しいくらいなのに」

 くすりと微笑む先輩はすてきだが、しかしそれとこれとは別問題だ。

「俺とこいつの関係を的確に表現するなら、保護監察官と非行少年に違いないんです。純粋に義理で一緒にいるだけで、それ以外の要素なんてノミの脳味噌ほどにもありはしません」

「こんなことを言うんですよ咲先輩、親の心子知らずってーのは聞いたことあるんですが、姉の心も伝わらないものなんですかね?」

「わかってあげなさい天城さん、思春期の男の子はなかなか素直になれないものなのよ?」

 無駄のないステップで遠峰先輩を盾にするような位置へと移動する秋穂に、先輩はいたわるような手つきで頭を撫でる。純粋にうらやましくて手に力がはいるわけだが、そんなことを顔に出すわけにもいかない。

「なにを言っていますか遠峰先輩。秋穂の両親には世話になってますが、秋穂本人に対して借りを作った記憶などありません。これで家事の手伝いでもしてもらっていたら別ですが、顔を見れば飯を作れ、着替えを持って押しかけて来たと思ったら着ていた服を残して帰っていく始末。俺が逆らえないのをいいことにとんでもない振る舞いなんですよそいつは」

「――思い出したよハル君! わたしが忘れてった洗濯物をお母さんに渡したでしょう? しかも洗って丁寧に畳んだ上で! あれでわたしお母さんに怒られたんだからね、正座で四時間だよ?」

「自業自得だろうが。むしろ今まで忘れてたことに驚いたわっ! それよりいい加減遠峰先輩を掴んでる手を離せ、うらやましいだろうが!」

 土を触らせれば全国規模の展覧会に並ぶ陶芸を作り、ボールを持たせればソフトボール投げの学生記録を塗り替える奇跡の腕だ。朱音なんぞに触らせてよくないものでも伝染したら人類規模の損失になる。

 俺がうらやましいとかうらやましくないといかう話は三番目くらいでもいい。

「そのくらいにしておきなさい二人とも。朝の通学路で大声を出すのは感心できないわよ」

 口げんかで秋穂に劣るほども頭は緩くない。一気に畳みかけてやろうとしたところで遠峰先輩が一歩を踏み出して歩き出す。

 すかさず歩調を合わせる秋穂の顔が得意げなのにこめかみが反応するものの、先輩の言いつけならば食い下がる気にもならない。

「――なんだ、止めてしまうのか遠峰。もったいない」

 俺が肩の力を抜いたのと同じタイミングで聞こえてきたのは落ち着きのある低い声。ほんのわずかに落胆の色が伺えるそれは、後ろからやってきた上級生のもの。

「おはようございます、村越先輩」

 俺が積極的に挨拶する只二人、ひとりはもちろん遠峰先輩で、もう片方がこの村越恭平だ。一八〇に届こうかという身長で、制服の上からでもその鍛え上げられた体躯がよくわかる。

 着物がよく似合いそうな古風で精悍な面持ち、堅そうな短髪で、右のこめかみから耳の上まである剃り込みは洒落っ気などではなく、ただの傷痕だと聞いたのはいつの話だったか。

 今やっているのはボクシングとテコンドーとか言っていたが、これまでにも空手と柔道、合気道でそれぞれ当時の全国制覇を成し遂げるという格闘技バカであり、女帝たる遠峰先輩ですら、肉体の制御という一点ならば尊敬できる――などと言うくらいだ。

 常識という概念を突き抜けている同士、なにか通じるものがあるようで遠峰先輩と村越先輩の交流はそれなりに深い様子。

 俺も、遠峰先輩の紹介で村越先輩にはいくらか手ほどきを受けていたりする。

「なんだとはご挨拶ね恭平。後輩の諍いを見て喜ぶ趣味でもあった?」

「そうではない。他人と拳を交える機会は多いにこしたことはないからな、天城相手ならちょうどいいと考えただけだ」

 道着入りのドラムバッグを背負った村越先輩はゆったりとした足取りで遠峰先輩の横に並ぶ。

 遠峰先輩も女性にしては長身だが、流石にコンクリートを素手で砕く人間兵器に比べれば頭ひとつ分ほども違う。この二人が並ぶと恐ろしく画になるあたり、同じ男としては思うことがあるわけだが、しかし格の違いはいかんともしがたい。

 女王様と騎士――そんな組み合わせを連想させるふたりは一度だけ視線を交差させてから横並びになる。

「取っ組み合いを始めるまで放っておけと? それこそまともな神経とは言えないわね」

「天下の遠峰咲からまともなんて言葉が出るとはおどろきだな。今の時代に殴り合いの修練をやっているような女のどこにまともな要素がある」

「私のは大和撫子としての嗜みよ、殴り合いなんていう野蛮な表現は控えてほしいものね」

 腕を組むのは安易に不服を表現しているのか。

 もっとも、両先輩の組手を幾度か目にした俺からすれば遠峰先輩の動きに大和撫子の風味を見つけることなどできそうにない。むしろアマゾネス、タンクトップを着てトレジャーハントだってできるはず。

 イギリスのスパイの相方でもいいし、ゾンビ相手でもいい。

 いやもちろん、華道も薙刀もこなすんだろうけどさ――。

「恭平さん、男女平等の今の時代、女の子だって自衛のための手段くらいは身につけておかないといけないのですよ。だからわたしにもちゃんと当身技を教えてください」

 とまあ、俺と同じような理由で村越先輩に師事する秋穂が前に出る。まったくそんなイメージのない秋穂だが、センスがいいのか教え方がいいのか、大人の男を昏倒させるくらいの真似は平気でしてみせる。

 軍隊式の格闘術を中心にごった煮状態で教わっている俺に対し、秋穂は合気道を教わっているわけだが、当の本人はそれが不満らしく事あるごとにこの調子だ。

「何度も言っているがお前の体格で当身は向かない、投技だけで十分だ。それが通用しない相手とは向き合うな」

「そんなこと言っても、ハル君相手だと技の半分くらいは通用しなくなっちゃったし」

「――返しや抜けがあるのは確かだが、だからこその応用だ。天城の才覚ならいずれ状況に応じて手を変化させることもできるようになる、そうなれば九条の相手など赤子の手をひねるも同然、今はただ励め」

「村越先輩……俺の立場はどうなりますかね?」

「お前の拳は雑すぎる。もっと己を見つめないとすぐに行き詰まるぞ」

 えらく温度差のある言われようだが、なんとなく自覚があるだけに文句も言えない。

 秋穂との組手にしても技ひとつ攻略するために何度床に叩きつけられたかわかったものじゃないしな。

「……? 時間ならだいじょぶだと思いますよ?」

 先頭を行く形で後ろ歩きしていた秋穂の台詞は、やたらと長いこと腕時計を見つめていた遠峰先輩を見てのもの。

 俺と村越先輩の間に挟まれる形の先輩は、秋穂の声を受けてゆっくりと顔を上げる。

「そうなんだけれど――どうもね」

 遠峰先輩にしては珍しく、歯切れの悪い台詞だ。

 なにかを振り払うように軽く嘆息し、遠峰先輩は左右を見渡す。

 今歩いているのは陸上競技場まで併設される運動公園の敷地内。多少無茶を伴う高校へのショートカットなので他の生徒の姿はなく、人通りのある時間帯でもない。先輩が気にするようなものは何もないはずだ。

 しかし先輩の足はいつしか止まり、そしてもう一度首をかしげる。

 携帯電話を開いて時刻を確認し、鞄のジッパーを開けて中身を大雑把に確認。制服からローファーの靴裏までを確かめてからやはり眉根を寄せる。

「誰か、命の危険を伴うような問題に心当たりのある人はいる?」

 登校途中の朝っぱら、普通なら神経を疑う問いかけではあるものの、頭のいい人は考える速度が違う。

 なにが欲しいと求められたのなら、目的を問いかけるより素直に求められたものを渡すほうが手っ取り早い。

 遠峰先輩と付き合いが出来て得た教訓だ。

 そんなわけで、俺達は口々に否定だけを返す。

「そう。私も特に心当たりはないのだけど、それでも気のせいと割り切れるほど生易しくも無いのよね……」

「村越先輩、解説をお願い出来ますか?」

 いい加減堪えきれなくなって村越先輩に視線を投げかけて見るわけだが、兵器はあくまで兵器、人間の心の理解には至らない部分も多い。

「あれだろう? 女は月に一度は調子を崩すと聞くが――ッと」

 村越先輩が靴音を立ててバックステップを踏むと同時に、空気が裂ける音がした。

 一部始終を見たであろう秋穂の顔が一瞬で引きつる。

 そんな彼女の視線の向く先、手刀を振りぬいた格好の遠峰先輩と、いつの間にやら顎をそらしてなにかに耐える様子の村越先輩――の喉には薄皮が避けて血の雫が浮かんでいたりする。

「遠峰、あまり爪を伸ばし過ぎないほうがいい。怪我の原因になりかねないし、あと目測を誤る」

「ご忠告ありがとう。今度金属製のネイルチップを探すことにするわ」

「いやそれはやめておけ。純粋に凶器だ」

 首筋をさする村越先輩に秋穂が激しく頷いているが、俺としても全会一致で賛成したい。

 つーか、相手が村越先輩でなかったら致命傷だろ今の……。

 このふたりのことだ。そのあたりも含みのやりとりだろうけど。

「それで遠峰先輩。気になることと言うのは?」

 問いかけに、当の先輩はこめかみを軽くもむ。

「うっかり落ちた落とし穴の底にゴキブリの海が見えた、なんて感じかしら」

「つまり即座に命を絶ちたいと」

「天城さん? ゴキブリ程度で人は死なないわよ?」

 この世の終わりみたいな顔をする秋穂もだが、案外あっさりとした遠峰先輩もかなりのものだ。

 俺はどうだろう? ゴキブリに埋もれるか命を絶つか……?

「――――」

 考えるまでもなく後者だな。

「ふむ……信じていなかったわけではないがどうやら冗談では済まないようだ。注意しろ」

 眉の角度をきつくしつつ、バッグを掴んでいた手を話して両手を空ける村越先輩。

 まったくこの先輩方は……などと内心で思わないでもないが、村越先輩が言うのだから確かだろう。後ろから飛んでくる矢とか手づかみしそうな御仁だし。

 とは言えだな――。

「ハル君……?」

 注意しろと言われてすぐにどうにかできるほど、俺の神経はぶっ飛んでいない。とりあえずは村越先輩に習って足を止め、遠峰先輩はあきらめて秋穂をカバーできる位置取をするわけだが。

「……で、このあとは?」

 たっぷり数分が経過して、我慢できずに問いかける。

 なんだろう、傍目にはかなり奇っ怪な集団に見えているのは間違いないだろうが。

「俺にも判らん。なので聞くな――ただ」

「ゴキブリがムカデに変わるくらいの変化はあるから気をつけて、落ちた先が壷毒だったと気付くのもそう先のことじゃないかもね」

 などと、突っ込めないほどまじめな顔で遠峰先輩が言うものだから動くに動けない。

「ねえねえハル君。なんだかよくわからないけどワクワクする?」

「俺がワクワクするかっつったら、間違いなくしない」

 いったいなにが起きるというのか。俺には早朝の公園特有の穏やかで平和な空気しか感じられないわけで、

 あと三十秒経ってなにもなかったら気のせいですと打ち切ろう――そんな決意を固めたところで変化は起きた。

「来るぞ!?」

「なにが来るって言うんですか!?」

「知らん、聞くなっ!?」

 声を上げる村越先輩に叫び返す俺。先輩はなにやら腰を落として戦闘態勢なわけだが、完全に置いていかれている俺としては肩を落として視線をさまよわせるくらいしかすることがない。

「下よ――!?」

 遠峰先輩の言葉に全員が足元を見て、その瞬間に目に飛び込んでくるのは青い光。先輩からはかなり遅れて今更ながらに背筋を這い上がってくる悪寒。脊椎反射で身体が作る動きは背後の秋穂を押しのけるように飛び退く動作なのだが、意図に反して秋穂の存在はなく、おまけに何故か予想を遙かに上回る勢いで吹っ飛ぶ。

 見れば、俺の襟首を掴んで放り投げたらしい村越先輩の背中。秋穂はといえば、遠峰先輩が抱き抱えて退避中。

 まったく、ほんとうにたいした先輩方だ。

 とはいえ詳細不明の青い光。村越先輩の助力もあって最初に広がった範囲からは抜けられたが、しかしここへ来てその範囲が爆発的に広がった。

どうしたものかと考えつつも、どうすることも出来ずに青い光以外はなにも見えなくなる――。


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