-ハッピーエンド-
Mad and Bad enD
‐ハッピーエンド‐
「そろそろ森の終わりかな?」
「……終わり」
突然始められて、僕の全ては奪われた。
けれど、悪夢は遂に終わる。
僕の持ってる記憶の全てを以て終わらせる。
「チェシャ」
「何だい?」
「ハンプティ・ダンプティは、事実だけの存在?」
「そうだよ。ありとあらゆる事実を詰め込んだ、真実を持たない生き物」
真実。
自分の信じたいもの。だから、人の数だけ真実はあるし、時間が経てば形を変えていく。
事実。
誰にも等しく平等に残酷で不変。唯一無二のもの。
事実だけの彼――真実を知らない彼は、僕に優しい言葉を掛けてはくれなかった。
でも、それで良かったのだ。今の僕に必要なのは、優しいが故にうつろな真実ではなく……確固たる事実。
(真実を求めていた僕には、彼の言葉は受け止められなかったけれど)
「ハンプティ・ダンプティの言葉は事実なんだね」
「そうだね。からっぽの頭じゃ、嘘は吐けない」
信じるよ、ハンプティ・ダンプティ。
やっと前を向いた僕なら、君と同じ“事実”が見えるはずだ。
僕は事実を以て幸せを手に入れてみせる。
それが、僕から君へ送る餞だと信じて。
優しくない事実を、僕は求める。
「君の名前はチェシャ猫じゃない」
「うん。最初に言った様に、君に合わせたものだからね」
僕がアリスだから、彼はチェシャ猫。けれど、本当に?
僕は彼をチェシャと言う。
けれど、僕以外の人間は彼を“猫”と言う。
『不思議の国のアリス』に出てくる猫は、チェシャ猫とアリスの飼っている猫――ダイナだけ。
けれど、『鏡の国のアリス』は、チェシャ猫が出ない代わりにダイナと、その二匹の子供が出てくる。
白い仔猫と黒い仔猫。
「チェシャは、黒い仔猫なんでしょう?」
「どうしてそう思うんだい?」
「髪、黒いから」
ジョン・テニエルの描いたチェシャ猫は、縞模様の猫だった。
もっとも、原作通りではないのが既に居るので、これは理由にはならないのだけど。
例として挙げるならば、トゥイードルダムとトゥイードルディーは、原作だと太った中年にしか見えない。だから、僕は二人に会っても気付けなかった。
(僕が会ったのは別人ですから。美青年にしか見えないから)
それでも、僕が彼を黒い仔猫だと思う理由がある。
「あとね……逆だから」
「逆?」
首を傾げるチェシャ。
彼の鈴が小さく鳴った。
「赤の騎士、プラムケーキ、ハンプティ・ダンプティ、トゥイードルダムとトゥイードルディー……これって、アリスが通った道の逆でしょう?」
「ああ、なるほど。なら、あれもだね。赤の騎士に会う時のアリスはプロモーションの前だから歩兵≪ポーン≫。君が怪我をしたのはその時だから……」
「そう。それからずっと、誰かに運んでもらっている僕に移動力はない」
「それこそ、歩兵の様にね」
そこまで考えれば、チェシャの正体が少しずつ分かってくる。
鏡の国でアリスが騎士の次に会ったのは、赤の女王と白の女王。
多分それが――チェシャとロゼだ。
赤の女王の正体は黒い仔猫。
だから、“悪いのは全て黒い仔猫”だったんだ。
「ねぇアリス、これからどうするんだい?」
「家に、帰る」
「どうやって?」
「君が望んでくれたら、帰れるんじゃないかと思うんだけど、」
鏡を通って鏡の国に来たアリス。
その後、アリスがチェスのゲームに参加できるように計らってくれたのは、赤の女王だ。
なら、赤の女王がゲームを止めてくれたら……。
けれど、チェシャは何も言わない。
……もしかして、僕は、間違った……?
チェシャは赤の女王でも何でもなくて。
僕は……帰れな、い……?
顔を伏せる僕を抱えたまま、チェシャは歩き続ける。
歩いて、歩いて。
森を抜けた。
夜明けの光が、チェス盤の平野を映し出している。
チェシャは歩いて、歩いて、歩いて……そして、止まった。
丁寧に下ろされる。この動作は、いつだって優しかった。
「アリス」
耳に心地良いバリトン。
軽やかな鈴の音。
冷たい指先が僕の頭を撫でる。
「頑張った君にプレゼント」
目の前には、どこから取り出したのか……白い靴。
僕は、靴と彼の顔を交互に見る。
チェシャは笑っていた。
「ねぇアリス、履いてごらん」
恐る恐る履いたその靴は、僕の足にぴったりだった。
「これで、歩けるだろう?」
「チェ、シャ」
「走れるだろう、アリス?」
「…………うんッ」
僕は走る、がむしゃらに。
道は分からないけど、そんなの関係なしに。
この、真新しい白い靴さえあれば、きっとどこにだって行ける。
規則正しく二色に分かれた平野に、無雑作に敷かれた赤錆の浮く線路を見付けた。
今は使われていなくても、線路があるという事は、人の住んでいる方へ続いてる、と言うことだよね?
線路の正面に、左を見る。線路の先は深い森――多分ドルダム達の森――に続いていた。
右を見ると、線路は途中で途切れている。
丘を下った先には、きっと。
迷うことなく走った僕の前に現れたのは、大きな花壇だった。
赤いヒナギク。
赤い薔薇。
赤いオニユリ。
息をするのさえ忘れてしまいそうな美しい花々。(けれど、息を吸うのさえ躊躇ってしまうような毒々しい花々)
葉の緑も、黄色い花粉も確かにある筈なのに、
それ以上に目を引く、真っ赤な花々。
赤。赤。赤。赤、赤、あか、赤赤赤赤あか赤赤あか赤あかあか。
はっ、として首を振る。びっくりしてしまったが、これは『鏡の国』の花壇なのかな?
でもまさか……流石におしゃべりはしないよね。でも……うーん…………。
「……こんにちは」
僕の声に、返ってくるものは何もなかった。
い、いやでも!ほ、本当に返ってくると思って言ったんじゃないから!変な事ばかり起きるから、もしかしたらを考えての事だからッ!
……恥ずかしい……。
ぺちん、と顔を叩いて頭を切り替える。
ここが花壇なら、近くに鏡の向こう側の家があるはずだ。
きっとそこが、帰り道になる。僕の、帰るべき場所への道に。
あちこちに目を動かすと、背の高い花や柳の木に隠れるようにして、屋根、のようなものが見える。
あっちだ!固い土を踏みしめたところで強い風が吹いた。
その勢いに、思わず目を閉じた僕の耳に、
くすくすくす。
はははははは。
「…………え?」
目を見開いて、辺りを見る。
……誰も居ない。目に入るのは、風に揺れる植物だけだ。
風が花を揺らす音が、笑い声に聞こえただけ、かな。
……ここが恐いから、こんな風に悪いように考えてしまうんだろう。
帰ろう。早く。こんなところから。
僕は走り出した。後ろから聞こえる笑い声は、小さくなり、やがて消えた。
木々に邪魔をされ、くねくねと見通しと足場の悪い道を抜けて、ようやく一軒の家に辿り着いた。
一応周りを見たが、特に変なところのない普通の家だ。
明るいのにしっかりと引かれた厚いカーテンで、家の中はわからない。
……ここ、人、住んでるのかな。
もし間違って余所様のお宅に突撃してしまったらどうしよう。
とりあえず、玄関のドアをノックする。
「ごめんください」
……返事はない。誰も居ないのかな。
あれ、でもそうすると、ここの鍵が開いていないという可能性も……。
「お、お邪魔します……」
一応断りを入れて、ドアノブを回す。
途中で引っ掛かる事もなく回ったそれを引けば、玄関のドアが開いた。
そうっと覗き込んだ家の中は暗い。
玄関から光は入っているのだが、廊下の先にはまたドアがあって、室内の様子がわからないのだ。
僕はもう一度断りを入れて、恐る恐る家の中に入った。
背中側でがちゃんと閉まったドアに肩を跳ねさせる。
唯一の光源であった玄関が閉まったことで、真っ暗になった室内に不安になった。
やっぱり戻った方が……いいのかな。でも、ここまで、来て。
……とりあえず、行こう。何もなかったら、次を考える。
今、僕の前にある道はこれだけなのだ。
暗闇の中を手探りで歩き、突き当りのドアの前まで来た。
ノブがあるだろう場所に手を滑らせ、木とは違う冷たい感触をしっかりと握る。
その部屋は、家の外観からは想像できないくらい広かった。
蝋燭と暖炉の火が部屋の中を照らす。
何もない部屋だ。
蝋燭もある。暖炉もある。
でも、それだけだ。人が住んでいるような、部屋じゃないし……、
「……鏡が、ない」
暖炉の上にあるはずの、鏡。
しかし、この部屋にあるのは一枚の大きな絵だけだ。
色合いが暗いせいか、炎の明かりでは何だかよくわからない。
僕はその場に崩れ落ちた。
ここまで来て、何の手がかりもなかった。
どうしよう。どうしよう。
走れる足があるのに……僕は……。
ぱち、ぱち、ぱち。
目を瞑った僕の耳に、薪の燃える音が聞こえる。
ぱち、ぱっきん、ぱち。
背中に嫌な汗が流れた。
暖炉に暖められた部屋は暖かいはずなのに……何だろう。この、寒気は。
ぱきん、ぱきん、ぱち、ぱっきん。
どくどくと、心臓が早鐘を打ち始めた。
薪の……燃える音だったはずだ。炎に爆ぜる、薪の、
僕は、
ゆっくりと顔を上げ、
『お前は知っている筈だ、“悪いのは全て黒い仔猫”だと』
消える事のなかった違和感に気付ければよかったのに。
(ぼくのまえにいる、これはなに?)
「やぁ、君も来てたのかい」
「えぇ。可愛いアリスはどうしましたか?」
「靴をプレゼントしたら、喜んで走って行ったよ」
「それは……可愛らしいですね」
「本当にね」
「ぅおー、猫見ぃっけ」
「やぁディー、素敵な格好だね」
「誰の所為だと思ってんだよ元凶」
「ダムは?」
「ん、医者に押し付けてきた。腕くっつけてんじゃねー?はッ、抜け駆けしようとするからだ」
「ディー、他人の事言えないよね」
「お久しぶりですね、ディー」
「んぁ?ああ、うん。おひさ。今はロゼ、だっけぇ?」
「えぇ」
「ふぅん。R、O、Z、E?うわ適当―」
「ふふふ、アリスは素直でした」
「『鏡の国はアリス』にチェシャ猫は居ない。そこまでは良かったのにね」
「アリスが『アリス』でないのは、本人が一番わかってるはずなのには。つーか、俺みたいな美形はあの話にゃ居ねー」
「だから、『アリス』の物語≪ストーリー≫をなぞってしまえば大間違い。なにせ、主役が違うのだから」
「詰めが甘いんだよな。そこが可愛いんだけど」
「そうですね」
「そうだね」
「アリスは、ハンプティ・ダンプティに会ったのでしょう?」
「うん。気狂いに余計な事吹き込まれてた」
「私も聞き及んでおります」
「気狂い潰れたけどね。短い手足で登るから」
「此処は鏡の国じゃない。けれど、アリスはたった一つだけの真実に近い事実を信じれば良かった」
「“悪いのは全て黒い仔猫”」
「仔猫なんつー可愛げなんて、ないクセにーぃ」
「ディー」
「ごめんなさい。せめて傷塞がるまで待ってくれ」
ぼくのまわりでつづけられるかいわ。
「ねぇアリス。やっぱり君には白が似合うよ。白兎も似合うだろうね」
ああ、でも、
「白い仔猫≪スノードロップ≫でもいいかな?そうしたら、僕は黒い仔猫≪キティ≫でもいいな」
もうなにもみえない。
もうなにもきこえない。
もうなにもかんじない。
もうなにも、わからない。
「医者に連れて行かないとね。なんたって、僕たちの新しい仲間だ」
「ようこそアリス」
一筋の光≪スクイ≫さえない奈落の底≪セカイ≫へ。
狂った世界の狂った終わり。
良くない世界の良くない終わり。
イコールで結べば正しい終わり。
正しい終わりはハッピーエンド!!
Mad end. But end?
(狂気の終わり。でも、終わり?)
Mad end. But and...
(狂気の終わり。でも、そして、)
以上で、下アリは完結です。
元々、高校時代、友人達と読み合う為に打ったものですが、私が初めて打った小説ですので、こちらに投稿させて頂きました。
最終話は投稿の為に加筆した部分が多いですが、展開のぶち切り具合は同じですのでご安心ください。いえ、何がと言われたら困りますが。
サルベージできれば、番外編もこっそり投稿させて頂くかもしれません。
何はともあれ、一週間お付き合い頂き、ありがとうございました!




