-目隠し鬼ごっこ-
Blindfold OgrE game
‐目隠し鬼ごっこ‐
「鬼さんこちら、鈴鳴る方へ」
「…………え、」
突然聞こえた声に、僕は鈍い動作で顔を上げた。
誰も、居ない。
たった一人僕の知っているあの人さえも。
この部屋に存在するのは、赤と白だけ。
……いや、誰も居ない訳では、ない。
「……僕が、居る」
自分でも笑えるくらいちゃちな自己暗示。
そんなものに頼らなければならない程、今の自分はあまりにも脆くて。
今にも……狂って、しまいそうで。
「気の所為、かな……」
深く、深く息を吐いて、僕は瀟洒な椅子の背に凭れた。
……頭が重い。思考が、霞がかった様にぼんやりとしている。
目の奥は痛むし、耳鳴りさえしてきそうだ。
そう考えると、やっぱりさっきのは気の所為なのだろう。幻聴が聞こえる程、僕は追い詰められているらしい。
あの男は……ロゼは、どれだけ僕を傷付ければ気が済むのだろう。
「アリス、人形の次は、鬼、か……」
我ながら嫌な幻聴だ。
それとも、僕はそうなる事を望んでいるのだろうか?
人間≪ヒト≫でなくなれば、もう苦しまなくていいの、かな……。
「もう……いい……」
重い瞼を下ろす。
この部屋≪セカイ≫には、目を開けてまで見たいものなど、何一つとして存在しないのだから……。
……りん。
軽やかな……、
……鈴の、音……?
また幻聴かと思った。
目を開いても救いなどないと思った。
それでも僕は、目を開けた。
ずっと瞑っていた目には、この部屋は眩しい。
瞬きを繰り返したり、米神を押したりして、ようやく痛みが和らいだ。
けれど視界に入ったのは、先程と変わらない景色。
「………………」
……分かってはいたけれど、やっぱりショックが大きい、かも。
僕はテーブルに突っ伏した。なに、行儀の悪さを責める人間は居ない。(やさぐれモードだ)
目の前にある紅茶はすっかり冷めてしまっている。鼻を近づけてみても、湯気の出ないそれは僅かな香りしか残っていなくて、何だか悲しくなった。ごめんね、アッサム君。
お代わりを煎れてもらったばっかりだった、澄んだ色の紅茶。そこに移っている僕の顔をは丸い。
それが妙に可笑しくて、吹き出した。
「……何だ、僕はまだ笑えるんじゃないか」
もう少しだけ頑張ってみようか。水面が揺れて泣きそうな顔になった紅茶は、不吉なので見なかった事にしておいて。
「よし、男は度胸、女は愛嬌!!」
沈んだ顔でここに座っていても、何も始まらない。
まずはここから出よう!!……えと、普通にドアから出て、ロゼに見つかったらどうしよう?
別に出るなと言われた覚えはないけれど、出ていいとも言われてないし。というか、ロゼが部屋を出ていった時(紅茶のお代わり以外)の記憶がないし。
そうなると、ロゼに見つからない様に行動した方がいいかもしれない。
「なら窓かな……」
僕は、絨毯と同色の真っ赤なカーテンを思いっきり開けた。
引いた。
固まった。
意気揚々と脱出を図った僕の前にあったのは、釘と板でこれでもかと言わんばかりに塞がれた窓だった。
「……嘘……こっ、怖っ……寒……」
冗談じゃなく、これはホラーだ。腕に鳥肌が立っているのが、見なくても分かる。
……ここに居てはいけない。頭の中で警鐘が鳴っている……ここはコワイ場所だと。
でも……なら、どうすればいい?やっぱりドアから出るしか…………。
……りん。
また、聞こえた。
今にも消えそうな鈴の音が。
「……幻聴じゃ、ない」
僕は音のした方に振り返った。
変わらない部屋がある筈だった。
赤と白の部屋がある筈だった。
のに。
一瞬にして世界は塗り替えられた。
一筋の光さえも差し込まない――闇色に。
「ッ――――!!」
僕の喉から出た、声にならない音。
それは谺することなく……闇に溶けていった。
「なに、これ……」
自分の手さえも見えない闇。
そんなものがあるなんて知らなかった。
こんなものが存在するなんて……。
「……ぁ、」
小さく喘いだ声は、すぐに闇に消えていった。
全てを飲み込みそうな闇の中で僕は……一人きり。独り、きり。
「ぁ、ああぁぁぁあああああああ!!!」
闇は、僕の絶叫さえも呑み込んで……残るのは静寂だけ。
初めから何もなかったと言う様に。
僕の存在など初めからなかったと言う様に。
そんなの嫌だ!!
僕は走り出した。
決して広くはない部屋だったのに、僕は何にもぶつかる事もなく走り続けた。
「誰、か……誰か居ないの……?誰か……ロゼ……ッ……!」
なんて皮肉。
助けを乞う名前を、誰よりも怖いと思ったあの男のものしか持たないなんて。
ねぇ、僕が何をしたと言うの、カミサマ。
失った記憶の中の僕は、それ程までに罪深かったと言うの。
「ぁ……!」
足が縺れて無様に転ぶ。暗闇の中では受け身も取れなかった。
ぶつけた膝と擦った頬が痛い。
じわじわと涙が滲む。
けれど、自分さえ見えない闇の中では、視界≪セカイ≫に何の変化もなくて。
目を開けていても、瞑っても、この世界に僕は居ない。
……ちりん。
鈴の音。
さっきよりも……近い!
……ちりん。
僕は走った。目を開けているのかもわからない暗闇の中、全速力で。
何度転んだかなんて知らない。擦り傷なんて知った事か!!
「……どわ、っだぁ!!」
硬い何かに額からぶつかり、拍子に舌まで噛んだ。
ひーひー言いながらのたうち回る僕。
痛みが落ち着いてきたところで、ぶつかった何かを手で探ってみる。
僕がぶつかった所はそれ程ではないが、結構でこぼこしていた。
……ちりん。
鈴の音に天を仰ぐ。
針の穴くらい小さな、光が、見えて。
「登れ……って、事かな」
登れなくはないと思う。触っている感じ、では。
ただ、あそこまで行けるかと言えば答えはノーだ。結構な距離だと思う。
それに、あの光が小さな隙間から射しているものだったら、ここから出ることは出来ないし。
「……どうしよう、か」
人間とは現金なもので。
他に道がない時はどんな事も出来るのに、ちょっと希望があると途端に慎重になる。
登った方がいいのだろう、多分。あの部屋にはきっと戻れないから、可能性があるなら登った方が……。
その時、小さな……足音が聞こえた。
一瞬で全身の皮膚が粟立った。
誰か……来る……?
オイルの切れた人形の様にぎこちなく、耳を地面に当てる。
だからかは分からないが、その足音を少しだがはっきりと感じる様になった。
こっちに近付いて来る……迷わずに!!
「まさか……ロゼ……?」
呆然と呟き、慌てて口を塞ぐ。
足音の歩く速度は変わらない。(それでも僕を捕まえられると確信しているように)
逃げな、きゃ。
「ッ……」
握りしめた壁は、思ったよりも鋭く手に食い込んだ。けれど僕の体重を支えることは出来ると思う。
僕は歯を食い縛り、少しずつ壁を登り始めた。
どくどくと心臓の音が煩い。
足音が近いのか遠いのかも分からない。
だいぶ登ったと思うのに、光はまだまだ遠い。
けれど休める場所がない以上、僕は登り続けるしかない。
僕は深く息を吐き、左足を上げようと窪みから離し、て、
その足を何かに捉えられた。
人間の手では、ない。この感触は、指が掴んでいる感じではない。
柔らかくて生温かくて、ねっとりした液体を纏った……何か。
それが生き物の様に。僕の脚を這い上がってきて、
「ぃ、嫌だ嫌だ!どっか行ってッ……どっか行けよ!!」
振り落としたい。でもそんな事をしたら僕が落ちる。
僕に出来る事は、引き攣った叫びを上げる事だけで。
そして右腕にも巻き付いた、何か。
嘘、
増 え て る 。
力の抜けたところを、ぎゅう、と地面の方に引っ張られた。
滑った手は、壁を掴めなくて。
嫌だ……助けて……誰、か、
僕は、ただ、手を伸ばした。
落ちる筈だった体を、力強い腕に抱き上げられた。
瞼の上からも感じられる光。
恐る恐る目を開けてみると、口が見えて。
そこには一人の男の人が居た。
「……ぁ、の、」
その人は、腋の下に回した手だけで、僕を小さな子供の様に持ち上げている。(見かけによらず、力持ちだ)
細身の黒のパンツに、二つまでボタンを外した白のシャツ。黒のリボンタイは、結ばれずに首に掛かっている。
「おや、」
何よりも目を引くのは、その目を覆う黒い布だ。
後ろで縛ってもだいぶ長いだろうそれが、この人の両目を隠している。
「鬼だと思って拾ってみたら、愛らしい子供じゃないか」
面白そうに言う男の人。
表情がよく分からないので、口元と声色でしか判断できない。
「可愛らしい坊や?それとも、美しいお嬢さん≪レディ≫?僕にはどちらだか分からないけれど、名前を訊いてもよろしいかな?」
名前。
……僕の、名前は……?
口籠った僕に、その人は訝しげに声を掛ける。
「どうしたんだい?」
「わっ……分からない、名前……」
「ふうん、それは困ったな。なら、君は何て呼ばれていたんだい?」
彼は抱っこの形に僕を抱き直して訊く。この人も背、高いな。
「え、あ……アリス、って、呼ぶ、人が……」
「そうか、じゃあアリス。はじめまして」
ちりん。
あ…………。
尻尾に様に長い、目隠しの布の片端に、金色の鈴が括りつけられている。
僕はこの鈴に導かれて来たんだ……。
「ぅ、」
心地いいバリトンの声。
その人の背後に見える草原といい、僕が怖れたものなんてどこにもない。
じわり、と涙が溢れそうになる。
目隠しをした彼は、優しく僕の背中を叩いてくれた。
目隠し鬼ごっこはもうおしまい。
暗い道で、追うのも追われるのももうおしまし。
さあ、目を開けていよう。
僕の見たかった、光溢れる世界が広がっているんだから。